#49 揺蕩って、叱って、愛して

 自分の足で自立感覚。

 この妙な感覚にも、やっと慣れてきた。

 体の周りは冷たくて、全身に染み込んでくる感じ。でも決して不快なわけではなくて、むしろ包み込まれているような、全てと一体化してこの世界を眺めているような、そんな感覚を味わい続けている。


 この感覚は、私が求めていたものだ。

 あの時からずっと、お願いしていた。そうして幾年か経ってやっと、その願いが叶ったのだ。


 そうして2年が経つ。

 昨日も今日も、明日以降も。私はここで揺蕩たゆたい続ける。

 周りには誰もいないけれど。私の言葉なんて全く通じなくて、空腹も眠気も感じないまま、1日24時間を過ごし続ける。24時間という感覚も、ちょっと曖昧だ。気づけば日が暮れて無数の星と青白い月が私をぼんやりと照らし、また気づけば再び太陽が顔を出して、私を金色こんじきに染め上げる。



 ある夏の日のことだった。見える星の数は少なくなってきたけれど、まだ太陽が姿を現さない、そんな微妙な時間帯のこと。

 2人の若い男が、近くにやってきた。彼らが私に気づく様子はなく、少し話をしながら何やら準備をしていた。

 しばらくして、垂らされる釣り糸。そうか、釣りをしにやってきたのか。


 でもどこか不思議だった。

 彼らはここにいるようでここにいないような、そんな掴み所のない雰囲気を纏っていた。彼らの周りは少しだけ、黒っぽいものが取り憑いていた。

 ——あぁ、彼らは「やってきた」のか。


 夏になると、時折こういう人達がやってくる。

 体の周りが白っぽい人は、極楽浄土からこちらに帰ってきた人。反対に黒っぽい人は、地獄からこちらに帰ってきた人。比率としては圧倒的に極楽浄土から来た人の方が多い。こちらに帰ってくるにもどうやら許可が必要らしく、地獄よりは許可を得やすいのだろう。

 この時私が見ていた2人の男は、地獄から来た人達だった。一体どうやって、閻魔えんま様からの許可を取り付けたんだろう。良い行いを地道に続けていたんだろうか。


 彼らは釣り糸を垂らして、魚がかかるのを待っていた。

 私の足元で、何やら大群が動き出した。……待てよ、彼らの餌におびき寄せられたのか?


 予想は的中した。その大群は、まっすぐ釣り針の方へと向かっていた。

 そしてその時、私は気がついてしまった。


 2人組のうちの1人が自分のであるということに。


 ◇◇◇


 家族思いの青年だった。いつでも「お姉ちゃんが喜ぶこと」をしようとしていた。幼い頃はドングリや松ぼっくりをくれたり、少し年齢が上がるとお花や文房具、さらにはアクセサリーまで、ちょっと洒落たものもプレゼントしてくれるようになった。優しくて、自慢の可愛い弟だった。

 彼は、私の些細な表情の変化にもいち早く気づく子だった。両親よりも早くて、しかもその読みは正確だった。私が大学のクラスメイトからいじめられていた時も、彼は真っ先に気がついた。


「誰にやられてるの?」

「○○と、××と、△△と……」


 嗚咽混じりの声で、全てを打ち明けた。「もう、お姉ちゃんは頑張らなくていいよ」と彼は言った。その翌日、いじめの首謀者が消えた。本当に、忽然と姿を消したのだ。

 何週間も捜索が続いたが、ついに見つからなかった。私はクラスメイトから容疑をかけられたが、程なくして身の潔白が証明され、それから事件は迷宮入りになった。


 彼が長い長い告白をしたのは、彼が不慮の事故で死ぬ前日のことだった。


「あの後親友に、お姉ちゃんの状況を全部話したんだ。すごくひどいいじめを受けていて、すごく可哀想で、何とかして助けてあげたいって。そうしたら彼は頭がいいから、良い案を考えてくれたんだ。その日の夜に親友と一緒に○○を誘拐して、僕が彼女の意識を飛ばした。それで、親友が1人で彼女を車に乗せて、遠くまで運んでくれたんだ。最後の仕上げは全部、彼がやってくれた。次の日、彼女が消えたことでちょっとだけホッとするような顔をしたお姉ちゃんを見て、すごく嬉しくなったんだ」


 そして親友に借りができたため、その後彼の仕事に協力するようになったのだと。中にはお茶の間をざわつかせた事件もあって、私は血の気がサーっと引くのを自覚していた。


「わ、私、そんなことまで頼んでない……」

「お姉ちゃんは罪悪感を感じることないよ。全部、僕がお姉ちゃんのために勝手にやったことだ。僕はお姉ちゃんを苦しめる奴らのことが、本当に本当に許せないんだ」


 大好きだよお姉ちゃん、と少々血走った目で囁いた彼は、私をそっと抱き寄せた。何人もの返り血を浴びた胸の中に、何人もの遺体を量産した手で、私は招き入れられた。

 私も共犯だ。私が、この可愛い自慢の弟を、鬼にしてしまった。


 その翌日、彼はこの世界から消えた。地獄に堕ちたことは明白だった。

 私も消えなければいけないんじゃないか。私は彼をちゃんと、叱らなければいけないんじゃないか。ずっとずっと、そう考え続けた。しかしどうすることもできないまま、数年が経っていた。

 もう自分も地獄に堕ちようと思った。でもそのために大きな犯罪を犯そうとは、思えなかった。だから盆の時期に彼がやってくることに賭けてみようと思った。


 そして、家族に散骨を頼む手紙を遺して、私はこの世界に別れを告げた。家族とちゃんと言葉を交わし、存在を認識してもらえるこの世界に。


 ◇◇◇


 太平洋にぷかぷかと浮かび続けて2年。

 弟の釣り針に、魚がかかろうとしていた。彼はまた、何かを殺そうとしていた。


 弟1人では耐えられなくなったのか、親友も一緒にリールを巻き上げようとしていた。私は自分の手を、頑張って釣り針の方に手繰り寄せた。散骨のせいで、手足が世界中に散らばっているのだ。普段はこの上ない開放感を得られるが、今みたいな状況では少し苦労した。

 そしてありったけの力を振り絞り、釣り糸を切り裂いた。

 ブチっと音がして、魚達は弾かれたように海の中へと戻っていった。


 私に声が出せたなら、伝えたかった。


 もう誰も、殺してくれるな。

 あなたが私にしてくれた多くのことには、感謝している。

 でももう、あなたの行為に私が喜ぶことはない。


 そう、伝えたかった。

 ……伝わっただろうか。


 彼らはもう、帰り支度を始めた。閻魔様もそう長い滞在は許してくれないようだった。

 とてつもなく眩しい、生命力の塊みたいな太陽が、弟の顔を染めた。彼の周りの黒っぽいのが、少し薄くなったのは気のせいじゃないと思いたかった。



 あなたの犯したことを、私は決して許さない。あなたが見た数々の赤色を、この海で綺麗さっぱりと流せるわけなんてない。


 でもあなたがまたここにやってくるのを、私はこれからも待っている。

 誰も殺さなくなったあなたを、愛と怒りを込めて抱きしめたいから、待っている。


 この広い世界に、これでもかというくらいに、手と足を伸ばして。



 今日も揺蕩たゆたいながら、大きな太陽に照らされながら、私はあなたを待っている。

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