#47 約束は破るためにある

“今日何食べたい?”

“今日は遅くなるから夕飯いらない”

“そういうのは前もっていって、って何度も言ってるじゃん”

“急に入る仕事くらいあるよ俺にも”


 ここ数ヶ月ほど、対面でもスマホ上でも、言葉を交わす度にどこかギクシャクしている。普通に話す感覚を、ついに忘れてしまった。彼を感じるだけで、前はあんなに幸せな気分になれていたのに。

 倦怠期なのかなとか呑気に思えれば良いのかもしれないけれど、もう私達は結婚している。倦怠期とかマンネリとか言ってる場合ではない。今後何十年と続いていく関係なのだ。


——健やかなる時も、病める時も、お互いに愛し、慰め、助け、命のある限り誠実であることを、神に誓いますか?


 2年前の6月。

 ジューンブライドに憧れて、梅雨の時期に結婚した。前日までしとしとと雨が降っていたのに、あの日だけは神様も祝福するかのように綺麗に晴れた。

 特定の信条はお互いになかった。だけどあの日、神父さんのあの言葉に、私達は深く頷いたのだ。「はい、誓います」と。


「ただいま」

「おかえり」

「お茶ない? それと何か軽く食えるもの」

「食べてきたんじゃなかったの?」

「上司ばかりの席でまともに食えるわけあるかよ」

「……ちょっと待って、今から用意する」

「そのくらいすぐできるだろ、家にいたんなら」


 日付が変わってから帰ってきて、彼は私に軽食の用意をさせる。「起こしてごめん」とも、「起きてくれてありがとう」とも言わずに。この人はいつから、挨拶ができなくなったんだっけ。

 チャットでは夕飯がいらないと聞いただけで、軽食を用意してくれとは言われていない。

 ……でもそう反論した所で何も良いことはないから、私は黙ってキッチンに向かい、軽食を用意する。


 そもそも「俺が稼いで来れるから、お前は専業主婦でいいよ」と彼が言ったのだ。もともと仕事に熱意を感じていなかった私にとっては、嬉しい提案だった。家で洗濯をして、掃除をして、炊事をして、彼のために尽くして過ごす。それを許したのは彼。でも最近は、家にいる私を悪者のように扱う。


「……はい、お待たせ」

「ずっと家にいるのに、随分簡素なメニューだね」


 家にいるなら、手の込んだものを作れということだろう。彼にとって、ポテトサラダと焼きおにぎりはらしい。軽食に手の込んだものを出す意味も分からないけれど。


「ねえ、私やっぱり働いた方がいいの?」

「は? そんなこと俺は言ってない」


 今の状況でこれじゃあ、お前が働き始めたら飯が悲惨なものになるじゃないか、と彼は言う。私が30分かけて作ったポテトサラダを、彼は2分足らずで全て咀嚼して、次々と胃へ流し込む。あなたの食べ方の方が悲惨よなんて、言ったら殺されるだろうか。


「お前が働いたら、他の男に狙われるからダメだ」


 別に私はそんなにモテた方じゃない。学生時代だって、年に1回告白されるかどうかといった所だった。

 付き合っていた時から、彼は束縛体質だった。他の男性と会うのを極端に嫌がって、私が男性のいる場へ出かける時(大抵会社の飲み会だ)は、1時間ごとの連絡が義務付けられた。兄に会う時でさえもだ。最初は嫌だったけれど、同棲していた部屋に帰れば、そこには目にうっすらと涙を浮かべた彼がいた。今思えばおぞましいほどの束縛なのだけれど、「心配で心配でたまらなかった」と私を抱き寄せるのが、当時は本当に愛おしく感じた。

 こんなに愛してくれる人を手放したくない。彼とずっと一緒にいたい。

 そう思って、結婚した。


 だけど彼が愛していたのは、どうやら私だけではなかったようだ。

 ……いや、最近は私に触れる時間もなかったから、もう私は愛されなくなっていたのかもしれない。


 それにしてもわざわざ結婚記念日に付き合い始めるなんて、あの人もどうかしている。


 本当はちょっと贅沢な外食がしたかった。だけど火曜日だったから、せめて家で彼の食べたいものを作って一緒に食べて、お出かけは週末に楽しもうと思っていたのに。


 彼は嘘が下手だ。……私だってバカじゃないから、薄々は気づいていた。今日は前祝いだったんだ。ろくにご飯も食べずに、何を。って、呆れるしかない。

 お風呂に入っていった彼のワイシャツを拾い上げれば、我が家の柔軟剤とは明らかに違う、妖艶な香りがした。襟元をよく見れば、鮮やかな赤色がしっかりとついていた。それはまるで、「奥さん、彼は私のものです」と宣戦布告しているようなものだ。


“今日は1周年記念日です”


 彼のスマホは、いらない通知をポップアップさせる。ついに決定的証拠を掴んでしまった。

 私との結婚は2周年なのにね。几帳面なあなたが、そんな凡ミスをするはずがないのにね。


 私が無造作に置き直したワイシャツを見て、彼は事態を把握したようだった。彼が私を見る目は、ぼうっとしている。怯えでも驚きでも恐怖でもない、読めない目つき。


「……失望、したか」


 多分3割くらいは失望している。でも残りの7割くらいは至って冷静。

 だって、いるかどうかも分からない神への誓いに拘束力なんてないのだから。同棲期間から数えれば、もう私達6年目だもんね。そりゃあ、私に飽きることもあるでしょうよ。


「別にしてないよ。……何か、安心したの」


 そう、安心してしまった。彼は「は?」と言って、口をぽかんと開ける。

 まだ彼が、誰かから“男”として見られていること。

 私以外に、欲求を満たす相手をちゃんと持っていること。

 こんなに束縛ばかりで面倒な男と、1年も関係を続けられる人間がこの世界にいること。


 あぁ、彼もこの社会で何だかんだ生きているんだな、と何か安心した。


 もう互いに30後半で、“男”なんていう魅力的な生き物として見られる時期は過ぎたと思っていたから。

 妻に触れることもせず、この人は何を拠り所にして生きているんだろうって、もはや少し心配になっていたから。

 優しいし怒らないよね、と良く言われる私でさえも少しイラつくほど面倒な彼は、誰からも相手にされないと思っていたから。


「離婚したいなら、してもいい。……俺はそのレベルのことをしてしまったから」


 あぁ、嫌い。完全に彼が悪者なのに、どこまでも上から目線なのが嫌い。私には制限をかけるくせに、自分だけ女をキープしてる所がクズすぎて嫌い。反省してるようで全くしていない。どうせ金銭的に困るのは私でしょ、俺は別れたってやっていけるよ、と言わんばかりの目が嫌い。


 ここで別れたら、きっとこいつの思うツボ。「命のある限り誠実で」? そんなの無理よ、神様。今までに何人がそれを守れなかったと思っているの。アダムとイブですら、約束を守ることはできなかったんでしょう?

 ここからがきっと、本当のスタートだと思う。私の信頼を取り戻させるか、彼の相手に一発吹っかけてみるか、彼に復讐するか。

 ……さぁ、私はこれから何を選ぶ?


「ううん、別れないよ。…………私、“サレ妻”って立場を楽しんでみることにする」

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