#46 contradiction
私は、生きている。
……当たり前じゃないか、とあなたは思うだろう。
何を言っているんだ、とあなたは笑うだろう。
だけどこんなにも当たり前のことが、この自分の身に起きていると分かると、奇妙な感覚を覚えないだろうか。
災害は、起こる。
事件は、起こる。
そんなのは当たり前のこと。災害も事件も起こらない世界なんてない。
だけど、それが自分の身に降りかかったら?
自分が被災して、自分が被害者になったら?
——そうなったら誰も、「何言ってるんだ」なんて笑うことはできない。
もう逃げられないような、震えが止まらないような、妙な感覚になる。
つまり当事者意識があるか否か、それだけで、私達の目から見える世界はガラリと変わる。
そして今、私は、「生きている」という当事者意識を抱いている。
だから妙なのだ。生きていることをただの事象として受け入れられず、自分に迫るリアルなものとして感じてしまっている。これは全員に当てはまる普通のこと。気にするようなものでもないこと。それなのに、どことなく変な感じがする。
それもこれも、体が否応なく、「生きている」というリアルな感覚を私に押し付けてくるからだ。
髪の毛は伸びて、サラサラだったものがベタつきを帯び始める。
いつの間にか爪は凶器になりそうなくらい成長していて、剃ったはずの体毛が懲りることなく生えてくる。
時間が経てば自然と瞼が重たくなってきて、さらに時間が経てば腹の虫が鳴る。
窓の外の花は咲いて枯れて実を落とし、その間に私の顔にはしっかりと、皺が刻まれていく。
きっとこれからはほうれい線も刻まれて、白髪も増えていくのだろう。
まだ20代なのに、毎日のようにそんなことを考える。
今日もうまく寝付けない。
目覚ましをセットして、布団に潜り込んだのは深夜12時。
何度目か分からない寝返りをうって、すっかり暗がりに慣れてしまった目で時計の文字盤を見れば、それは3時30分を指していた。
左側を向いて横になると、トクトクと、心臓の音がする。
頭からは、シャーシャーと、血流の音がする。
うるさい。規則的すぎてうるさい。
いっそのこと、止まってしまえば良いのに。
——だけど今、これが止まったならば。
私は、どうなるんだろう。
驚くのだろうか? 驚く前にもう、意識は飛んでいるのだろうか?
この布団に
私の体温はどうなる? 徐々に下がる? 一気に冷える?
そしてすっかり冷たくなって、微動だにしない私を見つけるのは、一体誰…………
「!!!」
声にならない声を上げて、気づけば上体を起こしていた。
時刻は午前4時40分。
さっきから1時間以上経っているということは、いつの間にか眠っていたんだろうか? 記憶がない。
ただただ、
7時に起きるはずだったけれど、もう起きてしまおうか。
再び深海で足掻くのは、もう嫌だ。
布団から両脚を出して、ベッドから立ち上がる。
まだ暗い部屋の中を少し歩いて、テレビの向かいにあるソファに寄りかかって座り、
未明の冷たい空気を鼻孔から取り入れて、肺が膨らむ。すぐに肺は収縮して、さっきよりも少しだけ温かい空気が、再び鼻孔を通って抜けていく。
辺りは恐ろしいくらいに静かで、何も聞こえない。いつの間にか目を閉じていて、何も見えない。
心臓でも脳でもなく、ただ呼吸だけを感じる。
布団で温められていた四肢は少しずつ熱を失って、先端から冷たくなっていく。
……このまま全身が冷たくなってしまうんじゃないか。全てが止まってしまうんじゃないか。
また不安が込み上げてきて、それをかき消すように息を吸う。吐息が温まる。少しだけ、安心する。
今まで、生きていることに違和感を抱いているんだと思っていた。
意識せずとも細胞が働き、私の体を変えてしまうことに、気持ち悪さを感じているんだと思っていた。
でもそれは、きっと違う。
死んでしまうことが怖いのだ。
生きているだけで死んでいくのが、怖い。
何もしなくても私の体は変化し、意思に反してどんどんどんどん、私を死へと近づける。この世に生まれ出た、記憶の欠片もないその時から、私は死に追いやられ続ける。
「生まれてきてくれてありがとう」
その言葉の裏に隠れているのは、「この瞬間から死への逆算が始まるよ」という合図で。
「お誕生日おめでとう」
その言葉の裏に隠れているのは、「また1つ、死に近づいてしまったね」という諦観で。
何十億年もの間、誰も逆らうことができないまま、いつやってくるかも分からない事象に向かってどんどん進んでいく。
こんな人生はやめたい、そう思っても行き着くのは必ず、たった1つの選択肢。
それが、怖い。とてつもなく、怖い。
また悲鳴を上げそうになる寸前で、私は大きく深呼吸をする。また呼吸に戻る。
呼吸は、目印だ。あてもなく沈んでいく私を救う目印。
もう一度、鼻孔を行き来する空気の温度を感じる。
生きるしかない。生まれてきた以上、生きるしかないのだ。
それが私の
ゆっくりと目を開けると、カーテンの色が少し明るくなっていた。
思い切ってカーテンを開けると、街はピンクと紫の中間色に染まっている。
まだ姿の見えない太陽が、少しずつ顔を出そうとしている。
太陽だって、燃えながら生きている。動物も植物も星も、多分無機物もみんな同じ。
生きながら死んでいる。
年を取ったり、体が変わったりするのは、死に近づくこと。
でも同時に、その人にしか分からない経験をすることでもある。
生き方は自由だ。1人で死に怯えながら生きるのも、誰かとこの虚しさを埋め合わせながら生きるのも自由。どうしようもない
それなら、怯えて泣いて悲鳴を上げている時間って、もったいないんじゃないかな?
あの太陽から、この街はどんな風に見えるのか。
私は今、この世界をどう見ようとしているのか。
この限りある時間で、私は何をどれくらい捉えることができるのか。
生きながら死んでいく、その矛盾に、私はどう答えられるのか。
太陽と一緒に死ねたらいいのに。
そんなことを考えながら、コップ1杯の水を飲み干して、熟れてきたバナナを食べて。プログラミングでもされているように、歯を磨いて服を着替えて。
今日も私は、生きながら死んでいく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます