#45 痴情
突如奪われた日常。人間関係。私の生活。仕事。
いきなり口を塞がれて、私は何もすることができませんでした。泣き叫ぶことも、怒ることも許してもらえませんでした。「近いうちに体を鍛えて、いざという時に備えられるようにするぞ」と度々思っていたのですが、この日までそれを先延ばしにしていたことを、非常に後悔していました。
口を塞がれたあの瞬間から、私には記憶がありません、
彼に応えたのかどうかも、覚えていません。
でもきっと私は、あなたに応えたのでしょう。
——目が覚めた時には、見知らぬ部屋にいたのですから。
今度は手足が縛られていて、口は塞がれていませんでした。人間は真の恐怖に触れると、口元が自由であっても言葉すら出てこないことを、彼は熟知していたのかもしれません。
辺りは暗かったのですが、だんだんと目が慣れてきました。彼はこの部屋にいないようでした。
壁一面に貼られていたのは、私の写真。横顔と後ろ姿がほとんどでした。その隣にはメモが貼られ、恐らく撮影日時と場所、そして何らかのコメントが丁寧に記録されていました。
目を凝らして、近くにあったメモをいくつか読んでみました。
20×7年6月3日午前11時26分、日比谷公園
すごく長身でスラリとした男性と2人でいる。時折出てくる噴水を眺めて、何やら楽しそうに話していた。男が邪魔で、後ろ姿しか撮れなかった。今日も七瀬は可愛い。あのピンクのスカートは初めて見た。その腰に回された男の腕をへし折ってやりたい。
20×7年6月14日午後7時5分、ホテルパラシオ前
今日は七瀬の横顔が撮れたのに、ちっとも嬉しくない。ワンピースは去年の7月23日に着ていたのと同じだ。7時8分にタクシーが到着して、6月3日に見たのと同じ男が七瀬に笑いかける。お前に笑いかける資格はない。
そこに写っていた男性は、モデルになったばかりの元彼でした。私のワンピースのことまで詳細に書かれているので、彼が私を盗撮し始めたのはもっと前のことなのでしょう。背筋に冷たいものが流れる感覚を味わいながら、私は別の場所のメモも見てみました。
20×8年3月10日午前9時32分、クレアージュ楠ヶ丘前
七瀬はここに引っ越すらしい。住人らしき人達の話を聞くと、どうやら307号室らしい。僕を見つける度に逃げるように彼女は引っ越していくけれど、部屋番号が僕の高校受験の受験番号だなんて、やっぱり七瀬は僕に気があるんだろう。可愛い子だ。
あぁ、入居前から知られていたんだ、と分かり、私は驚きと呆れを通り越して感心していました。私は彼から逃げるようでいて、彼の喜ぶことばかりしていたのです。引っ越し先の住所や最寄り駅は、全て彼と関連があったのです。そう、口を塞がれる前に、彼はそう言っていました。
私にとって彼はただの高校の同級生だったのですが、彼にとっての私は、いじめから解放した救世主でした。私が学級委員じゃなければ、彼を助けることは愚か、彼と話すこともしていなかったでしょう。縁というのは本当に奇妙なものです。
ここまで私生活を犠牲にして、私を観察する。その執念が本当に本当に怖くて、汗が止まりませんでした。過呼吸になって、視界が歪んで。でも声だけは出せませんでした。この異変に彼が気づくかと思いましたが、その気配はなく、いつの間にか私はそのまま寝てしまいました。
ハッとして目が覚めると、カーテンから日光が差し込んで部屋は明るく、私の手足は解放されていました。何かされたかと思って全身を確認しましたが、違和感や乱れはありませんでした。ただ、私は目線の先に置かれたカレンダーを見て、驚きました。私がここに連れてこられたのは確か火曜日。今日は土曜日になっていたのです。その間の記憶はありません。ですが、この家から一歩も出なかったのだろうという確信はそこにありました。4日間も無断欠勤したのだから、仕事はクビでしょう。
投げやりな気持ちで目の前に置かれていたパンを食べ、私はゆっくりと壁一面の写真とメモを見渡しました。
20×5年から撮影は始まっていたようです。彼はもう、6年近くも私を撮り続けていました。私は1枚1枚を丹念に見ていきました。
20×5年11月25日午後5時3分、森宮学院大学本部キャンパス内
七瀬は泣いていた。銀縁の眼鏡をかけた男の裾を掴むけれど、振り払われていた。研究が大事だというその男に、七瀬は先輩、としか言うことができない。七瀬に涙は似合わないよ。七瀬を助けてあげたい。笑顔にして恩返しがしたい。
20×8年5月30日午前10時31分、羽田空港国際線ターミナル
七瀬はまた泣いていた。去年の9月1日以来だ。スーツケースを持つパーマをかけた男と話していた。男は七瀬の頭を撫でるけど、七瀬はずっと俯いていた。男は最後に七瀬を軽く抱きしめて、搭乗口に向かっていく。七瀬は本当に男運がない。もう僕にしてよ。なんで僕を嫌がるの?
20×9年10月5日午後8時57分、カフェ楠
少々残業があったようだ。紺色のカーディガンを着た七瀬は、コーヒーカップを持ちながらため息をついている。こんな悲しそうな横顔撮りたくないのに。先月の失恋を引きずってる様子。もう我慢できない。七瀬には明るい色が似合うのに。僕が絶対七瀬を幸せにする。明日、七瀬を奪いに行く。罵られたって、嫌がられたって、僕は絶対に七瀬を見離したりなんかしない。僕の恩人なんだから。僕はずっと、七瀬を愛している。
見ていくうちに、なぜか泣いている自分に気づきました。
同時に、この涙は、男に振られる度に流した涙とは異質なものであることにも気づきました。
あぁ、なんて私はバカだったのでしょう。
私が嬉しい時も悲しい時も、彼だけはずっと、私を見てくれていた。自分の時間や生活を、恐らく人間関係や仕事も捨ててまで、ずっとずっと私を見てくれていたのです。
泣き顔を見る度に私を幸せにすると、こんなに長い間誓ってくれていたのです。
なのに、それなのに私は——
「どこまで来るのよ気持ち悪い!」
あの日、私は彼にそう言い放ちました。その前にも20回くらい彼に告白されたけれど、その度にやめてと拒絶していました。そしてあの日、決定的な拒絶の言葉を放ったのです。
……でも私は、間違っていました。
見た目だけで私に言い寄り、簡単に甘い言葉を囁いてくれる男の愛を本物だと信じていました。そして何度も裏切られ、勝手に傷ついて、何度も何度も泣いてきました。
でも彼の愛こそが、きっと本物です。どんなに拒絶されても背後から見守り、私の全てを把握し、諦めずに想いを伝え続ける。それこそがきっと、本物の愛です。それがすぐそばにあったのに、私は目を逸らしていた。なんて愚かだったのだと、自分を責めました。
その瞬間、彼の全てが愛おしく感じられました。
赤いチェックシャツに、ジーンズに、ヤンキースのキャップに、丸眼鏡。
いつも変わらずその姿で、一心に私だけを追い求める彼が、愛おしい。
私みたいに人の外見、彼は一部から嫌われていた人だし、というくだらない偏見、そうしたものを気にする人間にはもったいないくらいの愛。
あぁ、会いたい。今すぐ会いたい。
ねぇ、どこにいるの?
私は彼の名を呼び、自由になった手足を動かして彼を探しました。
「どうしたの?」
私は彼の顔から丸眼鏡を外しました。肩まで届く髪を束ねていたゴムも外しました。彼のありのままの姿を見たかったから。
「ごめんなさい。私、間違ってた。……あなたになら、何をされても構わない」
「七瀬……それは、やっと僕を愛してくれるってこと?」
私は彼の唇を塞ぎました。——今回は、自分の意思で。
きっとこれが、本来の愛の在り方。溢れるような熱情。
その後彼は、私を鎖で固定し始めました。6年も待たせたから、文句は言いません。
彼のように全てを捨てて、乱れた姿も何もかも見せようと思います。
……今日からはもう、彼だけに。
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