#42 結婚は慎重に

 僕は、理想通りの人生を歩んでいた。

 幼稚園から大学まで、特に経済的問題や家庭の問題などに苛まれることはないまま、また成績不振による留年等もないまま順当に卒業していき、大手の商社から内定をもらった。総合職として数年地方で勤務してからは首都圏の支社に異動になり、この度本社勤務の辞令が出た。その直前に、大学の頃から付き合っていた彼女と婚約し、結婚式を終えた所である。


 中学生の頃から“交際”というものをしてきたが、妻として選んだ女性は間違いなく、今までの人生で一番深く愛せる人である。なぜだか分からないが、彼女に出会ったその瞬間から、彼女を逃したら、もう一生結婚できないような気がした。彼女を初めて見た瞬間に浮かんできたのは、「可愛い」でも「綺麗だ」でもなくて、「」という感情だった。もちろん初対面の人間にそんなことを思った経験なんて一度もなくて、僕は1人酷く動揺したのを覚えている。

 愛したいと思った人を何としても自分のものにしたくて、恋愛小説やネットから玉石混交の知識をとにかく吸収して、間違いのないように事を進めようとした。今まで勢いで交際をしていた僕にとって、ここまで慎重になる恋愛は初めてだった。

 見事告白に成功してからは、文字通り大切に扱った。少しでも傾ければ割れてしまいそうなガラス細工であるかのように接していたら、「私そんな脆くないから大丈夫だよ」と彼女に言われて、僕はその日から、彼女に多く触れるようになった。


 ちょっとした言い合いもあったし、倦怠期もあった。それでも頭をよぎるのはやっぱり、「愛したい」と強烈に思った出会いの瞬間で、僕はそれを思い出す度に彼女への愛情を一層深めた。

 そしてプロポーズも成功して、僕は喜びの絶頂にいた。これで彼女は、半永久的に自分のものになる。僕は泣きそうなくらいの嬉しさと共に、はっきりとした安堵の感情も抱いていた。


 でもそこから、僕の人生は理想を外れていった。


「ねえ、雄也くん。これから私達、どうしようか」

「どうするって、何が?」

「私が仕事をセーブするタイミングとか……」


 僕は彼女の言葉を聞いて、びっくりした。「セーブ?」と聞き返すと、彼女はさらにびっくりしたような顔をした。


「何でびっくりしてるの?……ほら、仕事は辞めないけど、やっぱ子どもできたら産休育休必要になるし……」


 寝耳に水だった。彼女がもう、そんなことを考えているなんて。

 やめてくれ、と僕は思う。お願いだから、やめてくれ。

 今なら土下座もできるだろう。

 それくらいに、やめて欲しかったのだ。

 ——子どもを作ることを。


 なぜなら僕は、

 彼女のことを愛したいのであって、家族を愛したいわけではないからだ。


 子どもはわがままだし、言うことを聞かないから苦手だ。自分で育児なんて、絶対にしたくない。「育児してくれない」と彼女から不満を言われるくらいなら、僕は最初から子どもなど望まない。

 そして育児が始まれば、彼女の最優先事項はどうしたって子どものことになる。僕にはそれが耐えられそうになかった。せっかく、これから死ぬまで僕だけのことを見てもらえると思ったのに。この時間は一瞬たりとも、に邪魔されたくなかった。


 正直に理由を言えば、彼女は分かってくれると思った。僕がどれだけ心の奥底から彼女を愛しているのかを知って、むしろ喜ぶはずだと信じていた。

 しかし、彼女の反応は予想とは異なっていた。「そう……」と呟き、そのまま自室に籠ってしまった。僕は「夕菜が本気で好きなだけなんだ」と、ドア越しに何度も言った。1時間くらいして、彼女は「分かった。ありがとう」と言って出てきた。何とか彼女に理解してもらうことができて、僕はホッとしていた。


 しかし、それから3年ほど経ったある日、彼女は「雄也くん、話があるの」と僕を呼んだ。その声は少し明るく、僕は会社で良いことでもあったのかな、と思っていた。


「雄也くん。……私、

「え?」

「だから、


 僕は耳を疑った。ここ数ヶ月、互いに多忙を極めていた僕達には、とてもそんな時間などなかったからだ。さらに言えば、妊娠など絶対しないようにしていたのだ。


「私は子どもが欲しい。本当は雄也くんとの子が欲しかった。でも雄也くんがその気じゃないから、もう私の血が入っていればどんな子でもいいと思った」

「夕菜…………

「私が責任持って育てるから。雄也くんのことも、大事にするから。だから、産ませてね」

「不倫、してたのか?」

「確かに、相手は雄也くんじゃない。でも倫理には反してないと思う。雄也くんと離婚しないことは相手と同意済みだし、子どもが欲しい私と私が欲しい相手にとって、この契約はウィンウィンだった」


 問いただしたい、なぜなんだと叱りつけて罵倒したい、そういう思いがぐるぐると駆け巡った。

 でも行動に移す直前に思い出されるのは、やっぱり彼女との初対面の場面で。僕はどうすることもできずにいた。


「雄也くんは悪くない。私も悪くない。雄也くんは私を愛し続けてさえいればいい。育児に参加しなくていい。私はあなたからは離れない。安心して」


 あぁ、彼女は、僕がどんな状況になっても決して離れないことをしっかり分かっていたんだ。

 僕は恐る恐る尋ねた。


「夕菜。夕菜は僕の、どこが好き?」

「雄也くんの顔と……」


 彼女は顔を近づけて囁いた。これだけで卒倒しそうになるくらい、僕はまだ彼女を愛していた。


「お金が好き」


 僕の外見と、僕の収入に満足してくれている。それで十分じゃないか。この額は、僕じゃきゃ稼いで来られないんだ。つまり彼女は、変わらず僕を必要としてくれている。

 でも遺伝子の出所が半分分からない赤ん坊を、これから迎えなくてはならない。彼女の血が半分だけ入ったと、僕は共に暮らさなくてはならなくなる。絶対に嫌な状況なのに、僕は何かで固定されたように、彼女のもとから離れることはできない。「愛したい」と未だに思っている以上、僕は決して彼女との契約を終わらせたくない。


 どうしよう、どうしよう。

 僕はこれから、どうしたらいいんだろう。新たに増える人間と、どう向き合えばいいのだろう。

 逃げたい、逃げたい。

 でも絶対に、逃げられない。僕は死ぬまで絶対に、彼女から離れることはできない。

 彼女と異物から、一生、離れられない。


 この間にも、じわりじわりと彼女の腹は大きくなっていくのだろう。じわりじわりと彼女は栄養を吸い取られ、一時的に衰弱していくのだろう。


 僕は思わず悲鳴をあげた。


 早く、覚悟を決めなければ。


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