#41 相対評価
「こんなん、人間のクズだよな」
ワイドショーを見て、定年退職した父はそう吐き捨てた。昼間からテレビに文句をつけるのが、すっかり習慣になっている。
俺達が汗水垂らして働いて、やっと生み出した血税を湯水の如く使って、こいつは刑務所でのうのうと暮らしていくんだぞと。そんなの許されるわけがないだろうと。俺はこんなクズを養うために働いてきたわけじゃねぇと。
3時のおやつは何にしましょう、と言いながらテレビをチラリと見た母は、一言「そうねぇ」と返す。彼女が父に逆らう姿を、俺は見たことがない。
大学の授業をサボった俺は、ソファに沈みながらそのやりとりを眺めていた。両親には何も話していない。彼らは俺の時間割を把握していないので、その辺りは気が楽である。
「なぁ、お前もこんなクズになるなよ」
突然父は俺の方を振り返って言った。少々驚いたが、適当に「あぁ」と返す。
世間の恥だからと。俺の立場がないからと。娘の結婚が難しくなるからと。だから絶対にクズに成り下がるなよ、と。
結局、俺を思って言っているわけではない。頭にあるのは常に、俺以外の家族についてだけだ。
それが見え透いているから、俺はこいつが大嫌いなんだ。
そして妹はいつも、間が悪い。自覚がない所も非常に嫌になる。
彼女は「ただいま〜」と言ってリビングに入り、俺を見て目を丸くした。
「あれ、お兄ちゃん、大学は?」
「休講だよ」
「え? 休講じゃないでしょ。レイ姉ちゃんが心配してたよ、具合でも悪いのって」
しまった。休むならゼミだけにしておくべきだった。
隣に住む幼馴染のレイとは学部が同じで、1つだけ一緒に受けている講義があったのだ。休むにしても、口裏合わせが必要だったか。
そして父は、このやりとりを聞き逃していなかった。さらに顔が赤くなる。
「おい、まさかお前学校サボったのか?!」
俺は妹を軽く睨み付け、黙っていた。妹は「お兄ちゃんが悪いんでしょ」というように、目を細める。
「なんだ、結局お前もあのクズの予備軍か」
けしからん、と吐き捨てて不味そうにお茶を流し込む父。
俺から見たら、あんたの方がよっぽどクズに見えるけどな。
世間への体裁ばかりを気にして、息子をマトモに育てようと躍起になる理由は娘や自分自身のためで。
俺がゼミの女性教授からアカハラとセクハラを受け、それが怖いから休んでいるなんていう理由を、こいつは信じてくれるのだろうか。きっと信じてはくれない。
高校生の時、一時期いじめにあったせいで学校を休んだことがあった。1ヶ月休んでいた。最初の3日間こそ何も言わなかったものの、1週間、2週間と続くと、まずは母を叱り飛ばした。「お前のしつけがなってない」と。その後母の訴えを聞いてから叱り飛ばすのはやめ、怒りの矛先はついに俺に向いた。
事情を知ったあいつの口から出た唯一の言葉は、「そうだったのか」でも「大変だったな」でもなく、「学費を返せ」だった。その瞬間、俺の中で父は“親”から“ATM”に変わった。俺が自立するまで、金を出す機械。俺のことはただの消費者にしか見えていなかったのだ、あいつには。
それ以来、俺にとってあいつはクズでしかない。今テレビに映っている犯罪者よりも、よっぽど有害なクズだ。
ゼミの教授だって、世間じゃセクシュアリティ研究の第一人者なんて呼ばれているが、それは仮面に過ぎなかった。確かに頭は良い。だが知性とか教養とか常識とか共感とか、そういう“人間らしさ”が圧倒的に欠けていた。
彼女に言わせれば、「私の性的指向はあなたに向いている」のらしい。俺に迫るのは、「本能」だから仕方ないのだと。「私のセクシュアリティを尊重しないなんて、学生としておかしい」と。
俺のセクシュアリティは無視されるらしい。俺の性的指向が年上女性になんか向かないなんてことは、お構いなし。あくまで教授のセクシュアリティに従わなければ、俺は卒業できないらしい。
クズだ。
社会的立場と研究実績を隠れ蓑にして、経済基盤も社会的後ろ盾もない、弱者の俺に迫る。きっと俺との関係だって、窮地に迫られたら研究対象とでも言ってのけるのかもしれない。
社会に守られたクズ。
あの女は、俺から見たらクズなんだ。誰が何と言おうとも。
人間がクズかどうかなんて、相対評価でしかないと思う。
上場企業の専務にまで上り詰めた父は、俺から見れば立派なクズだ。
若くして教授職に就き、頻繁にメディア出演もしている教授は、俺から見れば立派なクズだ。
そしてまだお茶の間に話題提供している犯罪者も、立派なクズだ。彼をクズだと思う母集団が大きい分だけ、少々普遍的なクズ、とでも言えるだろうか。
でも彼にも、クズじゃない部分はあったのかもしれない。
誰かにとっては、恩人だったのかもしれない。誰かにとっては、愛しい人だったのかもしれない。
父が母にとって生涯の伴侶であるように。元部下にとって頼れる上司であったように。
教授が他の研究者にとって憧れの的であるように。マスコミにとって有用な人材であるように。
ふと思う。
俺は誰かにとって、かけがえのない人でいられるんだろうか。いなくなってしまったら嫌だ、そのままの俺でいて欲しい、そう思ってくれる人はいるんだろうか。
母だって、俺が不登校になった時には手をこまねいていた。妹だって、いじめにあった兄を持って迷惑そうだった。レイだって、幼馴染でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。父にとっては“クズの予備軍”。
教授だって、俺のことを本気で愛している訳じゃない。頻繁に他の男からも連絡が来ていることを、俺は知っている。例え俺を愛していたとしても、その愛は分散されている。
誰もいない。
右を見たって、左を見たって、振り返ったって、一回転したって、目を凝らしたって、大声で叫んだって。
誰もいないんだ。
今この瞬間、強烈に、自分は孤独だと思った。
こんなことならいっそ、徹底的なクズに成り下がった方が楽なんじゃないか。
肉親からクズの予備軍と言われ、単位がもらえないのが怖くてハラスメント教授に口出しもできず、ずるずると禁断の関係を続けて、それでも全てを隠して、素知らぬ顔して時折ゼミに出る俺は、クズにかなり近い人間だ。腹が立つが、今回ばかりは父の言うことは合っている。
◇◇◇
だから俺は、クズになることにした。みんなが認めるクズに。普遍的なクズに。
好かれよう、愛されよう、ともがいて先の見えない努力をするよりも、一気に嫌われる方がよっぽど簡単だ。好かれる行為より、嫌われる行為の方がはっきりしているのだから。
嫌われるのは、拍子抜けするくらい、簡単だ。
そして、俺には素質がある。
何もしなくても、高校生のある日を境に嫌われたのだ。
きっとこれは、才能だ。
俺が見事なクズになったら、周囲はどんな反応をするだろうか。
過去の俺を知る奴等は、きっと普段見もしない卒業アルバムなんか取り出して、「根暗だった」「危ない予感はしていた」などと言うのだろう。そして俺を知らない奴等は、「人相が悪い」「生きてる価値がない」「常軌を逸している」とこき下ろすのだろう。
それでいい。
もっと嫌ってくれ。
もっとこき下ろしてくれ。
もっと嘲笑って、
もっと傷つけて、
もっと見下して、
もっと侮辱して、
もっと叩いて欲しい。
「そんなんじゃまだ足りねぇよ」
決められた時間に決められた場所でワイドショーを見て、俺は毒づく。
まだ甘い。もっともっと。
もう一生這い上がれないくらいに、這い上がることすら諦めるくらいに、息をすることすら罪悪感を抱かせるくらいに。
俺をこの世界から、引きずり下ろして欲しい。
いつの日か父が払った血税で養われている俺には、まだ物足りないんだ。
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