#37 嫌いなものは嫌いだ
教育者たるもの、全ての子どもに平等であれ。
そんなん無理だ。絶対に無理。
生理的に無理、というのは誰にでもあるだろう。相手が大人でも子どもでも、それは同じだ。みんなを好きになれなんて、そんな馬鹿みたいな理想論なんか掲げても意味はない。大人の私が子どもの彼女を生理的に拒否する、というのも十分ありえる話だ。
というか、彼女は誰からも好かれていない、と思われる。
「ねぇ、なんでここに荷物置いてるわけ? もう順位違うんだけど」
私が勤務するこの塾では隔週のテストで順位が決まり、座席の位置が変わる。
今回、4位から2位に上がった彼女は、前回のテストで2位だった子が習慣で今までの席につこうとした所を、隙なく責めた。
「ご、ごめんね、つい」
「つい、じゃないでしょ? 私よりできなかったくせに」
授業準備を終え、ぼーっと見つめていた各教室の防犯カメラ映像のうちの1つが、彼女の言動を克明に記録していた。
小学6年生の10月。志望校と自分の差や、周囲との差も本格的に気になり始める時期だろう。
まだ10歳そこそこの子どもに競争させるのは、別に構わない。競争を批判したら、運動会ができなくなってしまう。
気に食わないのは、ちょっとテストができたくらいで“頭が良い”だの“神童”だのとおだてられて、その評価を文字通り受け取った子どもたちの世界がよりシビアになることだ。
足が速い、顔が良い、頭が良い。それだけで級友や教師からの評価は七変化して、無意識にカーストが構築されていく。
自分の意思ではなくて、大方家族のプライドとか期待とか野望が絡んで志望校が決められ、合格をゴールにして突き進んでいく。成績さえ上がれば、合格さえできれば良いのだと。だから塾の定期テスト1つで、順位にちまちま言う子どもが出てくるのだ。
まぁ、講師として働く自分もそれに加担してることになるので、声を大にして言うことはできないのだが。
ただ、それにしても彼女の言動は悪目立ちしていた。
順位が上がれば先程のように横柄な態度を取り、下がれば「本調子じゃなかっただけ」と逃避する。
そしてクラスの子に当たる。
最悪なパターン。私が、大嫌いなパターン。
性格だけでも吐きそうなくらい嫌いなのに、私にとっては彼女の顔さえも気に食わない。
2位だと最前列なんだよな、座席。
私の目の前。……憂鬱だ。この授業が終わったら、ビールでも飲もうか。
私は重い足取りで教室に向かい、ゆっくりとドアを開けた。
私の気配を察知して、彼女は何事もなかったかのように座るが、責められた女の子は口を尖らせていた。権力者の前では仮面を付ける所も、嫌いだ。大嫌いだ。
私は何も知らないふりをして聞く。
「佐々木さん、どうしたの」
「私が間違えて前の席についちゃったら、ヒイナが『私よりできなかったくせに』って」
ヒイナは佐々木さんをキッと睨み付けた。その目が嫌いなんだよ。
私は嫌いなヒイナに言った。
「堺さん、席を間違えても、それを順位と絡めて責めるのは良くないと思うよ」
「でも先生、私よりできなかったくせして謝りもしないんだよ」
謝るのはお前だろ。
その言葉がすぐ浮かぶけど、脳が待ったをかける。攻撃的すぎると。
でも講師としての理性は限界を迎えていたようで、気づけばこんな言葉が出ていた。
「あなたこそ、1位取れたわけでもないのに、偉そうな口叩くのね」
教室はシンと静まり、張り詰めた空気で授業が進んでいった。
◇
「大崎先生、堺様いらっしゃいましたよ」と教室長に呼ばれたのは、翌日のことだった。まぁフットワークの軽いこと。
私は呆れた。こんなことで親が来るのかと。もはや笑ってしまいそうになるが、グッと
「受験生のヒイナを泣かせるってどういうこと?! 帰宅した途端、あんたに酷いこと言われたって泣き出したのよ?! どう責任取るつもり?!」
やっぱりね。親もきっとそういう人なんだろうと思ってましたよ。
予想通りの展開過ぎて、頑張って作った神妙な面持ちが崩れてしまった。講師としての体裁なんか捨てて、本音がポロリと吐き出される。
「やっぱよく似るもんなんですね」
「……は?」
「は? じゃなくてさ。人を平気で蹴落とす所。権力者の前では急に大人しくなる所。巧妙に被害者ヅラする所。笑っちゃうくらい、そっくり」
母親の怒りに満ちた顔が真顔に変わる。
「あんた、誰……何様のつもりなの?」
「まぁ、覚えてなくても仕方ないですよ。息をするように人をいじめるような、慈悲の心の欠片もない人間が、ちゃんと覚えてるわけがないんだから。……でもその代わり、本当の被害者はずっとずっと、覚えてるんですよ。上原さん」
私は、上原ヒナタが、ずっと嫌いだった。大嫌いだった。
私に宿題丸投げしたことも、掃除当番押し付けたことも、クラスメイトに指示してみんなで私を無視したことも、私の下駄箱にゴミを詰め込んだことも、こいつは1ミリだって覚えちゃいない。
堺ヒイナが入塾してきた時、すぐ分かった。あいつの分身だと。意地悪そうな目元がよく似ていた。
生理的に無理な人間の子どももまた、生理的に無理だってことがよく分かった。
とっとと消えて欲しい人間が次世代を産み落とすなんて、人生史上最大に絶望を感じた瞬間だった。
堺ヒナタ、旧姓・上原ヒナタは、何も言わずに固まっていた。
「上原さん。人を平気で傷つける娘のしつけすらできないくせに、文句ばっか一丁前に言ってくるのやめたら?」
「何よそれ……こ、こんな塾やめてやるわ。あんたが講師だなんて、ヒイナが可哀想」
「ふーん。この期に及んで、まだ娘を守りたいの? 佐々木さんの方が可哀想なのに。あなたも必死だね。塾講師に発破かけられたくらいで辞めるんじゃ、受験もまともにできないんじゃない?」
ヒナタの目が私をまっすぐ射抜く。怒りと悔しさと驚きが見える。私のことを思い出したかどうかは、知らない。
結局、ヒナタは「今後もヒイナを通わせます。ヒイナも悪かったと思うので、私から注意します」と教室長に言って去っていった。去り際に私を睨み付けることは忘れなかった。どこまでも嫌な女だ。その目は、昨日娘のヒイナが佐々木さんに向けた目と全く同じだった。
ヒイナに対して、受験校全落ちしろとは思ってない。でも1つ、いや2つは落ちて、親子共々辛酸をなめればいい、くらいには思っている。塾講師として恐らく1番持ってはいけない感情だろうが、人間の心なんてそんなもんだ。嫌いなものは嫌いだ。
◇
帰りの電車の中で、夢を見た。
小さな女の子が体育座りをして、頭を膝の間に埋めている。膝の辺りは少し、布の色が濃くなっていた。
私は彼女に近づき、そっと頭を撫でた。
「聞いて。私、やっと本音ぶつけられたよ。……今まで、苦しかったね」
私の言葉にゆっくりと顔をあげた彼女は、まだ涙の乾かない瞳をわずかに細めた。
かなり熟睡してしまったようだ。見事に乗り過ごして、ぐるりと遠回りして帰宅した私は、さっそく黄金色のビールをごくりと喉に運んだ。
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