#36 私の教祖様
心臓が飛び出そうなくらいにびっくりした、っていう表現は、恐らくこういう時に使うんじゃないかと思った。
思わず、差し出された名刺と目の前の顔を何度も見比べる。当然だけど、見比べる度に顔や名前が変化することはなかった。やっぱり彼だ。
私が、18年間片想いしてきた彼だ。最後に見たのは10年前。8年ぶりに、また出会えたんだ。
でもその想いは届かず、今に至る。
もし届いていたら、こんな悲しい反応はされない。
「……あの、俺の顔に何か付いてます?」
「あ、や、その」
「遠慮なく言ってください」
目の前の彼の顔を、私は10年もの間恋心と共に見ていたというのに。
彼は私の顔も、名前すらも認知していなかった。
確かに私の存在が薄かったのは事実だ。
それに、彼が私の通っていた小学校に転校してきてから、学校だけは高校までずっと一緒だった(というか、私が後を追っていた)のに、クラスが同じになることは一度もなかった。つまり、認知されなくても仕方ないと言えば仕方ないのだ。
私がもっともっとグイグイいけるキャラなら良かったけど、生まれ持った性質を変えることは想像以上に難しく。
部活のマネージャーをやるとか、同じ委員会になるとか、機会はあったはず。でもそれを
彼は私の顔を見つめたままだけど、ピンと来ることはついになかったようだった。私から言うしかないか。
「あの、楠ヶ丘小ですよね?」
「え?……うん、クスオカだけど……知ってるんですか?」
「で、楠ヶ丘第四中で、梅沢高校……」
「そ、そうです……クスヨンで、ウメコウ……なんで?!」
占い師ですか? とでも言うように見つめてくる彼。
「わ、私、氷川くんと同期、だから」
「え……?! 小中高、全部?!」
「はい」
彼は私が渡した、大宮舞花という名前の書かれた名刺に視線を落とした。
「ご、ごめん……俺記憶力良くなくて」
「ううん。クラス同じになったことないし、部活も委員会も接点なかったし」
仕方ないよ、と私は無理矢理笑顔を作った。
そうでもしないと、涙を堪えられそうになかったからだ。
彼の左手の薬指にしっかりと嵌められた輝きを、平常心で見られるわけがなかった。
お相手は知らないけど、きっと私の方が、彼の過去を知っている。……幼少期からの面影を、という意味でしかないけれど。
なのに、彼はもう、誰かのものなのだ。
何を話したら良いか分からずにいると、彼が声をかけてきた。
「あの、このパーティー終わったら、夕飯食いに行きませんか」
「え?」
「ほら、立食形式ってそんなに食えるわけじゃないし」
突然の誘いにびっくりして、一瞬頭が真っ白になった。
妻帯者と2人でご飯。
どうしよう、と思う反面、どうしても行きたいという気持ちがすごい勢いで膨れ上がる。テストが終わった瞬間、ゲームに手を伸ばす子どものようだ。押さえつけていた欲が爆発しそうになる。
…………一度くらい、いいか。
妻帯者だからこそ、間違いなんて絶対にない関係だ。その方が、私も下手な期待をしなくて済む。
同業者が集まったパーティーを一次会で抜け、私たちは夜の街を歩いた。
「本当にごめん、大宮さん」
「そんな謝らなくても」
「だって、俺バカみたいじゃんか」
「バカ?」
「こんな綺麗な子が同期なのに、なんで気づかなかったんだろうって」
私はカシスオレンジを噴き出しそうになってしまった。
「私、高校までとは、かなり雰囲気変わったから……」
「そうなの?」
「高校までは、メガネにお下げだったから。……自分に自信なくて」
女子大に入ってから、周りに感化されて茶髪にして髪をおろし、コンタクトに変えた。それだけでも雰囲気はガラリと変わった。そしてその時を境に、初めて男性から声をかけられるようにもなった。……私の心には目の前の彼がずっといたから、断り続けたのだけれど。
一度くらい、誘いに乗っておけば良かったと後悔する。男性とのうまい接し方が全く分からない。
「今、十分綺麗だよ」
「……そんなこと言っていいの?」
彼は自分の左手を見つめた。
「言うのはタダだからさ」
人生は、何が起こるか分からない。
順風満帆に見える人ほど、本人的にはそうじゃなかった、なんて話はよくある。
「あー、人生やり直してぇな」
「なんで?」
「舞花を先に認識できてれば良かった」
寝そべった彼はそう言う。
私たちは、自分で思うよりもすごくすごく簡単に、道を間違えた。
彼の顔が近づく。息遣いが聞こえる。
2ヶ月前のどうしようもないドキドキが、今は慣れに変わっていることが怖い。
「今、どう思ってるの?」
彼はローテーブルの上に置かれた結婚指輪を見た。私といる時に外してくれる彼は優しい。
「最高だと思ってる。……舞花もそうでしょ?」
「え」
「え、違うの?」
私といて、最高だと思ってくれてるの?
その瞬間、彼への気持ちが倍以上に膨らむ。18年の想いの終着点が、この関係だとしても、たとえ世間から批判される関係であっても、あなたが最高だと言ってくれるなら、私にとってこれほど幸せなことはない。
私はすぐに答えた。
「同じだよ」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
彼はにっこりと笑い、私の頭を撫でた。可愛いね、と言いながら。
「舞花と共犯で背徳感に浸ってる。この感覚、最高だよ」
「背徳感……?」
「家族を裏切ってる感覚が」
「…………それが、最高なの?」
私といるのが、最高なんじゃなくて? 私と出会ったことに、幸せを感じてるんじゃなくて?
「どうせ嫁は今、息子に付きっきりだからさ。俺も誰か欲しくなった」
「誰かって」
「別に俺、舞花を愛してるとは言ってないでしょ? 舞花は単にタイミングが良かったんだ」
「何それ……」
私と出会ったのが運命だと、出会えて嬉しいと、過去に戻りたいと言ってくれたのは、全部嘘?
「息子が保育園入れるまでは、よろしくな」
そう言って私の頬に触れようとする手を、思いっきり掴んだ。
「何だよ」
「わ、私は、あなたといれるから最高……だったのに」
私の本気の形相を見つめると、彼はすぐに吹き出した。飛沫が顔にかかる。氷川くんって、こういう人だったんだ。初めて知った。
「マジ?…………バッカじゃねーの。それ俺の嫁の前で言える?」
「そ、それは」
「舞花に再会してから、見たよアルバム。……相当変わったな。かなり無理したんじゃない?」
私は答えなかった。酷いことを言われているのに、頭の中は驚くほど冷静だった。
あぁ、なるほど。
これが既婚者の余裕というものか。
俺のものだということを、きちんと証明した人間がいる。
ただそれだけで、人はこんなにも強くなれる。
私は歯を食い縛る。彼の前で涙を堪えるのは、何回目だろう。
私のものだと思ってた。私のものでもあると思ってた。
でもそれは、週に一度だけ。夜が更けてから朝日が上るまでの、短い間だけ。もっと短い時は、夜の2時間だけ。
あなたとの契約は、文書になっていない。左手の薬指に、輝きもない。
ただそれだけで、私は敗者に成り下がる。とてつもなく弱くなる。
文書と指輪と、宝がある関係は、世界最強なんだ。
彼は続けた。
「お前には、セカンドがお似合いなんだよ」
なぜだろう、その言葉に疑問を抱かなかった。
どこかの教祖様の言葉のように、何の
振り返ってみれば良い。初めて出会ってから今までの、18年間を。
元々、彼の方がステータスは何個も上。未だ相手もおらず、下界で
無理をして大学デビューした私と、小学生の時から人気者で輝いていた彼は、最初から世界が違うのだ。
彼と対等になろうなんて、おこがましいこと極まりないのだ。
私は、掴んでいた彼の手をゆっくりと解放した。
彼は静かに
「そうだね。……ごめんなさい、私、思い上がってた」
「そう、それでいいんだ」
「私はあなたのセカンド」
「そう、それでいいんだ」
私はあなたのセカンド。私はあなたのセカンド。
舞花、それでいいんだよ、と言って、彼の顔が再び近づく。先程までの語気のトゲは、すっかりなくなっていた。
そうか、これでいいんだ。
私はゆっくりと目を瞑る。
あなたに完全に服従することで、この安寧を保てるのならば。
これからも、喜んで
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