#35 Double Meaning
ことん、と淡いピンクのマグカップを机に置く。
ついさっきまでパソコンとにらめっこしていた君は、置かれたマグカップを早速覗き込んで、ちょっとだけ口角を上げた。……やっと人間らしい表情に戻ったね。
赤くて香り高くて、ちょっぴり酸味が強めなローズヒップティーを一口、ごくん、と飲むと、君は「はぁ〜」と言って背もたれに寄り掛かった。そして僕の方を向く。
「ねえ、なんでいつも私にこんなに優しいの?」
「君のことが好きだから」
「私の他に、好きな人いないの?」
僕は、自分用の水色のマグカップに入れたローズヒップティーを零しそうになった。いきなり何を言い出すんだ、この子は。
「何でそんなことを?」
「……だって、私以外の人はあなたが優しいことに気づいてないみたいで。恋愛としての好きじゃなくて、人として好きな人はいないのかなって」
なるほど。つまり君は、僕が周囲からはクールな人間だと思われているけど、私以外に人として好きな人にもちゃんと優しくしてるんだよね? ということを聞きたかったようだね。
君はいい子だ。……
でも、僕にはそんな人などいない。君しかいないよ。
「君だけだよ……君を、愛してるから」
「こんなダメダメの私を、何で愛してくれるの」
あぁ、ネガティブモードに入っちゃってるね。新人賞に応募するための小説がうまく進んでいないせいだろう、心も引きずられるようにして暗くなってしまっている。
「君が僕を愛してくれるから」
「……私の好きな気持ち、ちゃんと伝わってる?」
「もちろん」
良かった、と言って、君はまたマグカップを口に運んだ。
心配ない。君の想いは毎日感じ取り、受け取っているし、僕は君をちゃんと愛しているよ。
次の日も、その次の日も、君はずっとリビングで低い唸り声を上げていた。小説執筆は、かなり難航しているようだね。
僕は邪魔にならないように、背後からそっとパソコンの画面を覗いた。
*******
人間がいなければ、改革も効率化もいらない。
生きて数が増えるから、無駄も課題も増えるんだ。
……あぁ、辛い。
私はこの人間だらけの世界の一部として、生まれてきてしまった。
自分でシナプスを刈り込んで、わざわざ。人生の意味も分からないまま。
*******
かなり絶望的なことを書いているな。大丈夫か?
もうそろそろ、休憩が必要だろう。さっきより唸り声が心なしか大きく、しかも頻繁になっているからね。
僕は戸棚からジャスミン茶の缶を取り出した。お湯を入れると、花が開くタイプのものだ。
僕はことん、といつものように、淡いピンクのマグカップを置く。
君はため息をついてから、マグカップを覗き込んだ。小鼻がくんくんと動いていて、可愛らしい。ゆっくりと花が開いていくのを見て、君の目も徐々に見開かれている。そういう時の君が、僕は好きだ。
「君の人生も、こうやってゆっくりと花開くんじゃないかな。……新人賞の挑戦、頑張れ」
励ましてみるけれど、まだ君の表情は晴れない。
言うタイミングはきっと、今なんだろうな。僕はそう思った。
「君との日々に、無駄なんてない。意味しかないよ。…………だから」
こっち向いて、と君に言って、僕は1つ深呼吸をする。
「これからもずっと、一緒に暮らそう」
さりげなさすぎるプロポーズ。ジャスミン茶の湯気と一緒に消えてしまいそうなくらいに、さりげない。でも、気持ちは揺れない。
君の目に、すごい勢いで涙が溜まり始めた。思わず抱きしめたら、僕の胸元がじんわりと生あたたかく濡れた。
ちゃんとOKの返事をもらった後、君は少しだけキーボードとペンを走らせ、そのまま寝てしまった。
僕は再び、画面を覗き込む。
*******
私の臓器は、脳は、あなたと出会うために動いてきたんだね。
あなたと出会うまで生き続けるために、栄養を取り込んできた。
あなたと言葉を交わすために、適切な脳神経を作ってきた。
あなたとこれからも生きるために、この鼓動は続いていく。
ずっとずっと、意味があったんだね。
*******
横に置かれたノート——君が小説のプロットを書くためのノート——を見ると、“自分が生きることは、世界にどんな意味を与えるのだろう?”の上に取り消し線が引かれて、新たにピンクのインクで、“全ての生に、意味がある”と書き加えられていた。
僕の決意は、君の心に大きな影響を与えたみたいだ。
◇
君がパソコンに次々と打ち込んだ考えは、正しいと思っている。
無駄を省き、効率化ばかりを求めるこの世界で、自分の存在価値に疑問を持つ。それは至極真っ当な感覚だと思っている。
ただ僕は、そんな世界が決して嫌いではない。
無駄なことは、やっぱりしなくていいと思っている。なるべく効率を優先すべきだと思っている。だって、僕が僕として生きる人生は一度きりしかないのだから。
君以外の人間に優しくしないのは、他人に優しくするのは無駄だと感じているからだ。
君に優しくすれば、君はもっと僕を愛してくれる。優しさと愛情の等式が生まれるから、僕は君に優しい。君の愛情が僕の優しさを上回ったならば、その差分を僕は君への愛情で埋めていく。そうやって僕は、君との等式を守っている。不等式は嫌いだ。
等式が紡ぎ出されていく君との日々に、無駄なんてない。過不足がないのだから。
小説家を目指す君には、間違いなく才能がある。努力できる根性もある。それは僕がちゃんと分かっている。だからいつか君は売れる。そうすれば、隣で支え続けてきた僕もその恩恵を多大に受けることができるだろう。そのための投資として、今僕は君のために外へ働きに出ている。
今、僕が君の生活を支え、将来は君が僕の生活を支える。随分長期的な等式だけれど、僕は君が多額の印税をもらう日を信じている。僕の臓器と脳は、そんな君が毎日作ってくれるご飯を食べ、そんな君と愛を交わすために動いている。
冷たいとか、一匹狼だと言われる僕が君といれば、多少は僕も人間らしくなれるだろう。一人息子として、両親にも無駄な心配をかけなくて済む。
無駄な批判をかわし、無駄な不安を取り除くために、僕には君が必要だ。
だから僕は君に、無駄にならない程度の優しさと愛情を注いでいく。
君は可愛い。十分に、僕にはもったいないくらいに可愛い。
だけど究極を言えば、君よりも僕自身の方が可愛い。何かの危機に陥ったら、僕は君を助けなどしない。……使えないものにコストを払ったって、意味がないのだから。
◇
すうすうと寝息を立てる君の背中に、僕のブランケットをかける。
君の頬にそっと触れてみた。……柔らかくて、マグカップのような淡いピンク色。
僕が優しいのは、君に期待している証拠だよ。
僕の価値観に君が見合っている限りは、これからもずっと、一緒に暮らそう。
君が僕に愛情を与え続けてくれる限りは、これからもずっと、一緒に暮らそう。
君の「もちろん。……あなたと、一緒にいたい」という返事は、この全ての意味を理解しての言葉だろう。
そうだよね? 僕を裏切るなんて、まさかそんなこと、しないよね?
この世界は、君が思うより、もっとずっと残酷なはずだ。
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