#33 傘を差す人

 今回のてるてる坊主は、力不足だった。


 妹は悲しそうな声で、俺にそう言った。

 てるてる坊主のせいではなく、秋雨前線が停滞しているせいだよ、と言っても、まだ彼女には半分しか分からないだろう。

 小学校の運動会が楽しみで仕方なかったらしく、延期が決まった今日、3年生の妹はリビングでダンスの練習を続けていた。最近ずっと踊っているので、俺まで曲と振り付けを覚えてしまった。

 運動会にそこまでの熱量を注ぐのか、と俺は少し呆れている。



 降りしきる雨の中、俺は制服を着て外に出た。

 土曜日だけれど、俺の中学校は授業がある。

 本来なら、今朝は外で持久走の日だった。

 タイムを争うために猛練習していた運動部の人間は、見るからに残念そうだった。秋雨前線消えちまえ、なんて声が聞こえる。


「せっかくの持久走の日なのに、雨だから保健になっちゃったね。……俺、実は雨男って昔から言われてるんだ。困ったなぁ」


 体育教師は苦笑いでそう言った。雨男や雨女は、イベントの時には嫌われる。そう決まっている。雨は人を悲しませる。

 別に雨でもいいじゃないか。なんで争わなきゃいけない? わざわざ心臓を酷使して全力で走り切る奴の気が知れない。

 晴れすぎたって、いいことはないのだ。干ばつや山火事に苦しむニュースを、みんな都合良く忘れているのだろうか。



 家に帰ると、テレビがついていた。

 街が写り、そこに天気図が合成される。お天気キャスターは眉尻を下げ、少しテンションを落とした声を出す。


「この雨は、明日の昼頃まで続く見込みです」


 水色の傘マークが、日本全国で悲しそうに揺れていた。沖縄だけはオレンジの太陽がくるくると回っている。


 雨は暗く、晴れは明るい。

 確かに、空模様はそうだろう。

 でも気持ちまで空模様に合わせるなんて、誰がそう決めたのだろう。


 街の映像に、不意に老夫婦が写り込んだ。ちゃんとした粒の雨が降っているのに、2人とも傘を差さずに佇んでいた。2人はどこかをぼうっと見つめ、お天気キャスターは彼らの存在を軽やかにスルーした。

 傘がないのか、雨を認識していないのか。俺にはよく分からなかった。



 月曜日、空は見事に青く澄み渡った。雲1つない青空。

 運動会が延期した場合の予備日が月曜日だったため、妹は飛び上がって喜んだ。


「お兄ちゃん、晴れた!」

「てるてる坊主が最後の力を振り絞ったんだな」


 俺は妹のためにそう言う。

 本当は、秋雨前線が移動しただけの話だ。

 彼女は渾身のダンスを披露するのだろう。

 持久走も、今日に持ち越しになっていた。運動部の奴らは、すごい気迫で臨むのだろう。


 晴れは人を笑顔にする。人を幸せにする。

 でも俺には、幸せの意味がよく分からない。

 太陽の下では、笑うべき。

 誰がそう決めたのだろう。



 学校に行くため、バスを待つ。

 すると、おとといテレビで見た老夫婦が見えた。

 今日は晴れているというのに、2人揃って傘を差していた。

 暗く、重い色合いの傘が2つ並んでいる。


 俺は気づけば老夫婦に近づき、声をかけていた。


「あの」

「どうしました?」

「雨、止んでますよ」


 すると、老夫婦は目を見合わせ、困ったように笑う。

 太陽の下で、困った顔は似合わない。

 ……自動的にそんなことを考えて、俺はいつから、意思に背いて世界の不文律に従うようになったのだろう、と思う。

 男性がゆっくりと口を開いた。


「私たちは、傘を差さないといけないんです」

「……なぜですか?」

「私たちはもうすぐ死ぬんです。先週神様にそう言われて、最後に仕事を頼まれたんです。——生きている人々の悲しみを浴び、皆の暗い気持ちを減らしてくれと」


 神様から死のお告げを受けて、そのついでに仕事を頼まれた。

 いつもの俺なら、頭おかしいんじゃないのか? と鼻で笑いそうな台詞だ。真顔で言われたら耐えられないし、一方でフィクションとしてはどこにでもありそうな設定。

 けれど、本降りの雨でも傘を差さずに佇んでいた老夫婦を目の前にしたら、急に現実だと思えた。

 雨は人を悲しませる。彼らが浴びていたのは、雨。


「雨を浴びて、太陽を避けると、その仕事ができるってこと……?」

「そういうことです。人に悲しみをもたらす雨を浴び、人に喜びをもたらす太陽を避ける。そうすることで、生きている人々が受けるべき悲しみを減らし、喜びを増やすことができるのだと」


 太陽を文字通り避けて生きる。そんな人が実在するなんて、知らなかった。


「まるで吸血鬼のようですね」


 すると、老夫婦は微かに笑った。女性が言った。


「吸血鬼とは、死ぬ直前の人間を指すのかもしれません」


 突然、女性は男性と相合い傘を始め、自分の閉じた傘を俺に差し出した。


「では、後はお願いしますね」

「え?」

「私たちに声をかけてきた人に、この仕事を引き継ぐように言われたのです。——これから、私たちは違う世界に行かなくてはならないので」


 思わず傘を手にとってしまった後、俺は気づいた。


 それって……


 もう歩き始めた老夫婦は、最後に振り返って俺に語りかけた。

 女性は言う。


「人の悲しみや、幸せをもっと感じ取ってください。あなたの思いはよく分かる。でも、太陽に喜びを、雨に悲しみを見出す人は依然として多いのです。……これはきっと、人の心を純粋に読み取れなかった人間への、最後の試練です」


 女性の言葉を引き継ぎ、男性が締めくくる。


「あなたが人の感情に寄り添い、彼らの悲しみを減らし、また人間として生まれ変わることを望んでいます」




*******


 学生が声をかけてきた時、男性は確信した。

 彼はきっと、仕事を果たしてくれるだろう。彼には人々の悲しみを理解する力があるはずだ。

 学生から遠く離れた後、男性は誰にも分からないくらいの小さな声で、1人呟いた。

 


 家族として会える日を待っているよ、と。

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