#23 完璧なんてどこにもない

「てめえ…………ふざけんなよ」


 俺が彼の胸ぐらを掴むと、既に口元を真っ赤に染めた彼は、不敵な笑みを浮かべて顔を歪ませた。


「お前でも怒る時ってあるんだな」

「いいから黙れ」

「あとどんくらい殴れば満足なんだよ」


 親友だと思っていた人間が、ある日突然敵になる。それは決して珍しいことではない。

 目の前の親友は、俺が一目惚れした女性を奪い、昨日婚約まで交わした。

 親友だからと気を許し、その女性のどんな所が好きなのか、どう告白したらいいか、など全てを彼に話していた。

 そして、告白する前日に、奪われた。



 彼はあの日、こう言った。


「探り入れたんだけどさ、あの子、既に彼氏いるらしいぜ。……まだ付き合ったばっかみたいだし、明日告白するのはちょっときびいかもよ」


 俺は彼の話を信じ込んだ。俺達の間には、完璧な絆があると思っていたからだ。

 保育園の時から社会人の今までずっと一緒の親友が俺を貶める可能性なんて、1ミリも考えたことがなかったのだ。


 俺が裏切られたことを知ったのは、彼らが付き合って2ヶ月経った頃だった。

 週末に彼となかなか会えなくなり、1人でデパートを歩いていたら、たまたまデートの場面を見てしまった。

 少し迷ったが、俺は彼に近づいて声をかけた。——俺の顔を見た途端、驚愕と動揺で顔を真っ青にするはずだ、と予想して。

 でも反応は全く違った。


「おお! こんな所で会うなんて、奇遇だなぁ」


 どう考えても場違いな、明るい声がこだました。彼女と互いの指を絡めながら。

 彼女は俺を見て、口を開いた。


「久しぶり! 私ね、彼と付き合うことになったの。——結婚前提で」


 デパートに響く全ての音が、消えた。

 俺が一目惚れしたのを知りながら抜け駆けして告白し、結婚前提での付き合いを始めた親友は、俺を前にしてもヘラヘラし続けていた。


 空気が悪くなったのを察したのか、彼女が「行こっか」と声をかけた。

 2人は指を絡め、時に体をぴったりと寄せ合いながら、ジュエリーショップへと消えていった。


 許さない。

 絶対に、許さない。


 仕事終わりの彼を待ち伏せし、路地裏に連れ込んだのが今日のことだ。



 目の前の元親友は、何度殴られても終始ヘラヘラしている。

 俺達は、全然怒らない人間だった。

 でもこいつだって、俺に殴られたなら怒ればいい。歯が真っ赤に染まるほど殴られたなら、やり返せばいい。

 なのに彼は怒らない。俺のメガネは傷1つない。

 人としての感情が欠落したような彼を前にして、俺はそいつの胸ぐらを掴んだまま、何もできずにいた。

 すると彼は急に真顔になった。


「お前ばかりが上じゃ、耐えられねえよ。俺だって1度くらい、お前の上に立ちたいよ。……どのテストだって、習い事の検定だって、女子からもらったチョコの数だって、50m走のタイムだって、全部全部全部全部全部。ぜーーんぶ、お前が上だったじゃないか」


 何度も赤い歯を剥き出しにしながら、彼は淡々とそう言った。


「1度でいいから、お前の大事なものを、奪ってみたかった。完璧なお前を壊してみたかった……でも心のどっかではまだ、悪いと思ってる。だから、憎いなら何度でも殴れ。殺してくれてもいい」


 彼の目が、まっすぐ俺を射抜く。

 その目を見て、分かった。

 こいつは、まだ俺のことを親友だと思っている。そして絶対に、自分を殺しはしないと思っている。


 そううまくいくもんか。

 お前が裏切ったのなら、俺もお前を裏切ってやる。


「そうか。分かった」


 俺は頷き、彼の胸ぐらを掴むのをやめた。彼ははっきりと安堵の表情を見せた。

 その隙に俺は路地裏に捨てられていた小さなハンマーを手に取り、不思議そうな顔をする彼の頭目がけて、力任せに振り下ろす。

 …………歯だけじゃなくて、彼の全てが真っ赤に染まった。

 その直後。


「はっ………………………!!!」


 誰のものでもない声が聞こえる。

 ……


 俺は背後を振り返った。

 見たことのない女が、そこにいた。犯行現場を見られた。まずい。

 鮮やかな赤色をしたハンマーを手にしたまま、そいつに近づく。


「やめて! 私も被害者なんです! やめて!」

「うるさい」


 もう、どうにでもなれ。とにかく、この世の全ての女が憎い。

 俺はもう一度、力任せにハンマーを振り下ろした——。


 *******


「まだ犯人が捕まっていないんです。誰が犯人ですか? どんな些細なことでもいいんです。頑張って、思い出してみてくれませんか」


 刑事さんが言っている意味は分かる。あの日の映像だって脳裏に完璧に映し出されている。

 なのに、うまく言葉に出せない。……単なる恐怖や緊張からではく、言葉が出ないのだ。


「う……あ、うっ」

「……じゃあ、筆談はできますか」


 そう言って刑事さんは筆記用具を貸してくれた。書きたいこと、伝えたいことはたくさんある。

 犯人をしっかりとこの目で見たこと。殺されていた男は、私のであったこと。

 彼氏が他の女と婚約していたことを知って、問いただそうと尾行していたら、犯人に殺されていたこと。

 私も被害者だと訴えたけれど、犯人は証拠隠滅のために私を殺そうとしたこと。

 全て伝えたい。なのに、右手が全然機能しない。


 *******


「彼女、脳の左半球の前方に酷い外傷を負ってね。ブローカ失語と右片麻痺を発症したらしいんだ」


 脳外科医になったばかりの友達は、俺にそう言った。

 良かった、彼が勤務している病院に搬送されて。

 ネットで見た被害女性の名前を覚え、「ちょっとした知り合いなので心配になった」と言えば、すぐに病状を教えてもらえた。人を騙すのは拍子抜けするくらいに簡単だ。


「それは、どういう病気なんだ?」

「言語理解はできるけど、言葉にして話すことができない。それから、右半身が麻痺していて、文字も書けないんだ」


 彼女に殺害現場を見られた時はツイてないと思ったが、これはツイている。

 話せない上に書けないのなら、俺が犯人であることを示す手段が何もない。完璧だ。

 あの事件はきっと、迷宮入りになる……。


 *******


 話すことも書くこともままならない彼女に、どう質問すべきかを考えていた。

 記憶が薄れないうちに、犯人の詳しい特徴を聞き出したい。状況も細かく教えて欲しい。全てを知る手がかりは、彼女しかいないと言うのに。どうすれば良いのだろう。

 操作線上に浮かび上がった、1人のメガネをかけた男の写真に視線を落とす。

 すると先輩刑事に肩を叩かれた。


「何、確かめるのは簡単さ。完璧にコミュニケーションの手段が絶たれたわけじゃないだろう?」


 先輩は彼女の前に写真を置く。そして尋ねた。


「犯人は、彼ですか?……頷くか、首を振るかでお答えください」


 彼女は写真を見つめ、力強く、頷いた。

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