#22 body memories
またやってしまった。
力を加減して痒い所を掻いたつもりなのに、伸びた爪がまた悪さをしたようだ。
ザッ、という音がしたその肌からは、わずかに血が滲んでいた。……爪、そろそろ切らなくちゃ。
だいたい、2週間に1度のペースで爪を切る。お風呂上がりにふやけた爪をパチンパチンと切るのは快感だ。シャワーで全身の汚れを洗い流した後、手の先端まで綺麗にする時間がとても好きだ。
さっぱりとして、生まれ変わる自分。
新しい自分に出会えた気がして、少し嬉しくなる。
でも同時に悲しさが襲う。
それは、今までの自分との別れでもあるから。
ピンクの小さな爪切りをしばし見て、本当にお別れしても良いの? と自問自答する。
……結局、いつも答えはYESなのだけれど。
本当はいつまででもこの爪と共にいたい所だが、引っ掻いてしまったせいで赤くなった肌を見て、やっぱり怪我はしたくない、と思い直す。
もう一度爪切りを持ち直して、親指の爪を丁寧に切る。途中で割れないように。完璧な形で切り取れるように。あぁ、これは親指なのだと後で分かるように。
お風呂上がりで程良い水分を保っていた親指の爪は、見事に切れた。なだらかなアーチを描いた爪は、私と分離される。
でも、これでお別れではないの。……この爪は、ゴミ箱には行かない。
自室の机の引き出しを開けて、薄紅色の箱を取り出して。
その箱の中は、さらに細分化されている。
私は小さなチャック付きのビニール袋を取ってきて、そこにさっきの親指の爪を入れる。ビニール袋の表面の、日付を書く欄に忘れずに今日の日付を。……それから、Hと隣に書いておく。きちんと封をして、丁寧に箱にしまう。
ハルトくんは優しかった。
一番長く付き合えた人だった。
いつも笑顔で、怒りなんてのとは無縁の人で。ご飯もデートスポットも、「好きにしていいよ」と私に選択権を与えた。「僕が好きなのは君の好きなものだから」と。
だから私にはまだ、信じられない。
7時間前の出来事が。
「ハルトは私の彼氏なんですけど! 奪わないでもらえます?」
今日、いきなり見たこともない女が私の家に押しかけて、すごい剣幕で迫って来た。
ハルトくんの彼女らしい。しかも、私よりも長く付き合っているらしい。だから私はハルトくんを奪い、1年もの間横取りして来た酷い女らしい。
なぜ今更? と思ったけれど、目の前の女は留学していたらしかった。帰国したらこの有様、ということらしい。
あぁ、私はハルトくんの遠恋要員だったのか。頭ではそう理解した。
女が帰ってから、ハルトくんに連絡した。
「ハルトくん。私、二股してたなんて知らなかった」
『あ、ごめんね。悪気はなかったんだ、どっちも好きだったし』
「どっちもっていうのはないの。さっき彼女って人が家まで来て、別れてって言ってきた」
『そっか。……君が決めて。好きにしていいよ』
別れるのも、私の好きにしていいらしい。
怒らないとか、自分の意見を遠慮する、というのも度を越すと信じられないくらいにウザくなる。
頭では、ハルトくんのことが一瞬で嫌いになった。だから別れようと私から言って、すぐにハルトくんの連絡先を消した。
でも心はまだ、ハルトくんが好きだ。……いや、好きなのだと思う。
ハルトくんが好きなのか、ハルトくんと過ごした1年間の思い出や余韻が好きなのか、今の私には分からない。
でも、ハルトくんは私が人生で一番好きになった人。恋をしてから、これだけ1人の人のことを考え続けた日々があっただろうか? 連絡が少しないだけで取り乱して、会えた時には天にも昇るような気持ちになったことが今までにあっただろうか?
ハルトくんが、私にたくさんの初めての気持ちを経験させてくれた。“愛する”ってどういう意味なのかを知った。この事実は決して変わらない。
だから、ハルトくんの彼女になれた日から、あの薄紅色の箱を用意した。
人間の体は、3ヶ月で細胞が入れ替わってしまうらしい。皮膚は1ヶ月だそうだ。
ハルトくんとの全てを大事に保存しておきたかった。写真や物だけではなくて、私の体がハルトくんをどう感じたのか。それも全て、リアルタイムで取っておきたかった。
けれど、自分の筋肉や骨を取り除いて保存することはできない。さすがにそういう趣味は持ち合わせていない。
でも、爪なら残しておける。だから爪を取っておこうと思った。
爪は皮膚の一部だから、爪も1ヶ月で組織が入れ替わってしまうことになる。
来月の爪にはもう、今のハルトくんの記憶はない。
でもこの箱の中には、今の、そして過去のハルトくんとの記憶がある。
彼に触れた時、私の爪に彼のDNAが残っていたのなら。爪さえ取っておけば、彼の証を保管しておくことができる。
一番面積の大きい親指の爪には、ハルトくんのDNAが付着している可能性も高い。だから親指の爪にした。
ハルトくんと付き合って1ヶ月、2ヶ月……。大体月に2回爪を切るから、1ヶ月に2個。両手の親指の爪を保管するから、1ヶ月に合計4個。
1年が経って、やっと48個の爪が溜まって来た頃だった。さっき切ったのは50個目。
もう、ハルトくんに触れることはない。この爪が、これから生えてくるであろう爪が、彼のDNAを覚えることもない。
私の心がハルトくんを嫌いになるまで、この50個の証は大事に取っておこうと思う。
電気を消してベッドに入り、薄紅色の箱を手で温めるようにして持つ。箱の上に乗っかった自分の左手を、ぼんやりと見つめた。
…………薬指の爪も、取っておけば良かったかしら。
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