#26 赤く、紅く
ピロン。
——この音は、おしまいの合図。
「もう行っちゃうんだね」
「ごめんな」
「ううん。……しゅーちゃんが私を好きってだけで、幸せだから。いいの」
「サナ……」
しゅーちゃんは私を優しく抱き寄せる。
シャツからは1日の汚れや疲れのにおいではなくて、ふんわりとした良い香りがする。でもそこに、素直に顔を埋めることはできない。
……その香りは、彼の婚約者が愛用している柔軟剤のものだから。
しゅーちゃんは、香水でカモフラージュするとかそういうことをしない。婚約指輪だってしたまんまだし、さっきみたいにスマホの通知も切らない。
せめて、せめて私といる時くらい、隠そうとしてくれてもいいのに。
彼に期待はしていない。彼が隠し通せるわけがない。きっと私達の関係が婚約者にバレるのだって、時間の問題。だから、完璧にしなくていい。
でもね。
努力義務でいいから、とにかく私の前では、婚約者の“こ”の字も出さないような雰囲気を作って欲しい。
自分がおかしいことくらい、分かっている。私の猛アプローチを受け入れるしゅーちゃんだっておかしいけれど、婚約者がいるのを分かっていて猛アプローチした私も相当おかしい。
あの日、夜の街の煌めきの中で、キューバリブレを飲んでいたせいなのだろうか。妖艶な光と全てを隠し通せそうな闇の中で、“
会社の上司の付き合いで来ていたという彼に、私が一目惚れしてしまった。キラリと光る指輪はきっと偽物……いや、いつか私とお揃いになる物のはず……。
気づけば私は彼に連絡先を渡し、婚約者に隠れて会うようになっていた。彼の目が私に向けられて、指が私に触れて、私の名前を呼んでくれるだけで良かった。それで大満足だった。
でも彼の中には、いつだって婚約者がいる。当たり前だ。彼の心に私がいる方がおかしいんだ。そこの心の隙間を、無理やりこじ開けてもらっているに過ぎない。
だから、私に注がれる愛情は半分。半分もらえてるだけでもありがたいはずなのに、いつからだろう…………
彼の全てが欲しい、と思ったのは。
一度思うと止められなくなった。愛情が欲しくてたまらなくなった。愛情が欲しい。欲しい、欲しい、欲しい。
でも、愛情ってなんだろう? どんなもの? イメージは?
私はしばし考えた。
イメージは……赤いもの、かな。
それから私は、しゅーちゃんと会えない時間の寂しさを埋めるために、赤いものを探し始めた。
赤いコップ、赤いブラシ、赤い食器、赤い枕、赤いスマホケース、赤い目覚まし時計、赤い鞄、赤いリップ。
赤いものを見つけたら、手当たり次第購入していく。今まで使っていた赤くないものは、ほぼ全てフリマアプリに出した。
部屋が真っ赤に彩られるまでに、そう時間はかからなかった。
頭がクラクラするような赤色が、私を程良く狂わせてくれる。たっぷりの愛情を注がれたような錯覚。目の前に彼がいるような、婚約者なんていない彼が私を見つめているような、錯覚。
でも私は、気づいてしまった。
いくら狂うことができたって、錯覚にしか過ぎないんだと。
現実世界ではないんだと。私が造り出した世界なんだと。
こうなったら、本当の愛情を手に入れるしかない。
婚約者から奪い取るしかない。
私のしゅーちゃんなのだから。彼が私の告白を受け入れたということは、彼には私に愛情を注ぐ用意があるということなのだから。
しゅーちゃんのことは愛している。でも同時に憎くてたまらない。
早く婚約者なんて捨てて、私の元に来て欲しい。そう思い続けて、どれくらい経っただろう? 彼は私に一途になる気配がない。私はこんなにあなたの全てを欲しいと望んでいるのに。不公平じゃない。
本当の愛情。本当の赤いもの。
それはしゅーちゃんの中にある。
彼の中の、赤いもの。
欲しくて欲しくてたまらない。
心の底から、喉から手が出るほど、欲しくてたまらないの。
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