#18 封印してたのに

 相楽さがらさ〜ん、と呼ぶ声がしたので咄嗟に振り返る。


「今日、聖和食品の方が来るからよろしく。……部屋、押さえてあるよね?」

「はい、大丈夫です」


 今日は取引先候補の会社が挨拶にやってくる。

 私の勤める会社、アルファランドが開発する新たなテーマパークのレストランで、メニューを採用して欲しいとのこと。私は秘書なので深く関与はしないが、部屋の予約やお茶出しなどの仕事がある。


 約束の時間はあっという間にやってきて、私は慌ててお湯を沸かした。初対面なのでどんな人かは分からない。上司の清原部長は、「どんな方かしらね。……イケメンかなぁ? ふふっ」と茶目っ気たっぷりの笑顔を見せる。割と重要な面談の前だけど、この敏腕上司は余裕そうだ。


「本日はお時間いただきまして、ありがとうございます」


 そう言って現れた2人の男性。それぞれ加藤さん、駿河するがさんというらしい。若い方の駿河さんという人はどっかで見たような気もするけれど、思い出せない。いつかどこかですれ違っただろうか。


「うーん……」


 お茶を出しに行くと、清原部長は先方から渡された資料を見て困ったような顔をしていた。


「申し訳ないのですが、いくつか修正していただけるとありがたいのですが……」


 すると加藤さんは驚いた顔をして、「いや、実は正直、弊社としては結構ギリギリの内容でして……」と踏ん張る。でも私は、清原部長が決して妥協しないことを知っている。どうやって説得するのだろう。


「そこを何とか。やはりこのレストランはテーマパークの第二の目玉とも言えますから、もう少しこだわっていただかないと」


 加藤さんは煮え切らない顔をしている。柔和だった空気が僅かに崩れる。淡いピンクのパレットに、1滴黒いインクが落とされたような雰囲気。私はお茶を出し終えたので、そそくさと部屋を出ようとした。すると「待って下さい」と呼び止められる。声の主は駿河さんだった。


「ちょっとお腹の調子が悪くて。すみません、お手洗いはどこですか」


 もうお前って奴は、と加藤さんはキレかかっている。清原部長が「ご案内して」と言ったので、私は駿河さんを部屋の外にいざなった。

 廊下に出ると、駿河さんが立ち止まって、なぜか私に微笑んだ。


「相楽樹菜じゅなさん、ありがとう。……すみません、今の仮病です」


 ……なぜ? 私はさっき、「秘書の相楽です」としか言っていない。なぜ名前を知ってるの?

 私の困惑を読み取ったのか、駿河さんは言い直した。


「先生、と言えば、分かりますか」


 体が凍りついた。なんで。なんで、ここにいるの。


 私の勘は正しかった。どこかですれ違った、どころではなかったが。

 彼は私の、教え子だ。



 高校生の頃の彼と、今の彼は雰囲気が全く異なっていた。ついでに言えば、苗字も変わっていたので、すぐには気づけなかった。「親が離婚したんです」と彼は言葉を続ける。

 家庭教師として彼に英語を教えていた。彼は第一志望に落ちて、浪人を決めた。私がどう言葉をかけていいか迷っていると、「来年まで教えて下さい」と言った後、彼は続けて言った。

「一旦受験終わったから、先生に告白してもいいよね」と。

 さらに返答に迷っていると、「俺の告白断ったら、落ちたのは先生のせいだってネットに晒すよ」と脅された。予備校で周囲に人がいるならまだしも、ここは彼の家。逃げ場なんてなくて、私より体格の大きい彼が途端に怖くなって、要求を飲んだ。もちろん、家庭教師として遵守事項に反する行為だった。でも私は彼に逆らえなくて、半年くらい経った頃にバレて、バイトをクビになった。

 告白を受け入れて3ヶ月くらい経った時には、彼の父も“共犯”になっていた。

 怒りと情けなさと羞恥心の全てを封印して、何とか普通の会社員の道を歩いていたのに。

 彼によって、封印は解かれた。……ナイフを入れたハンバーグの肉汁のように、じわりじわりとあの時の感情が全身に染み込んでいく。


「先生のせいで、母親がヒステリー起こして、離婚したんです。先生が、親父までたぶらかしたから」

「そ、それは……」


 突然のことに、未だに頭が追いつかない。また彼が目の前に現れた。それだけで呼吸が難しくなる。酸素と二酸化炭素の区別がつかなくなる。


「だから先生、責任取ってよ。加藤さんが言ってた今の条件で契約して欲しいの。あの部長さん、説得してくれませんか」

「わ、私は秘書ですから、そんな権限は」


 すると彼は急に距離を詰め、私の二の腕を掴んだ。彼の爪がブラウス越しに食い込んでくる。彼の父と2人で私を押さえつけていた感覚が蘇る。……痛くて、重かった。


「そうか……なら、契約できる方法を教えてくれませんか」

「そ、それだって私には……」

「先生は何でも教えてくれるから、頼りにしてたんですよ? 俺が現役の時に落ちたのは、数学ができなかったから。先生の英語は分かりやすかった。俺の大好きな樹菜先生なら、きっとどうにかしてくれる。……そうですよね?」

「む、り、と、言ったら……?」


 彼の顔が一気に近づく。彼の唇が、少しだけ私の耳に触れた。


「殺すよ先生。……でも、この場で俺にキスしたら許してあげようかな」


 怖かった。甘い声色と裏腹に狂気に満ちた目は、今も昔も変わらない。本気で殺されそうな気がして、人がいないのを確認してから、私は目をギュッとつぶって彼の唇に触れた。


「あれ、相楽さん、今俺にキスしましたよね? 大胆だなぁ、初対面なのに。一目惚れにも程がありますってば」


 唇を離した瞬間、彼は大きな声でそう言った。先程の部屋から清原部長と加藤さんが、そして他の部屋からも社員がわらわらと出てくる。

 悪夢だ。悪夢であって欲しい。目の前の彼が、誰にも見えない存在であって欲しい。

 羞恥と恐怖と焦燥が、ゆっくりと憤怒に変わっていくのを私は自覚し始めていた。



 とうとう彼に、“制裁”について教えなければならない時が来たようだ。

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