#16 リアル人生ゲーム

 私は12歳の2月1日に、人生を間違えてしまった。

 いや、厳密に言えば3歳の時に既に間違えていたのだろう。

 決定的に踏み誤ったのが、みぞれの降った2月1日だった。


 小さな頃からたくさんの習い事をさせられた。

 歌はなんとか歌えるものの、楽器はからきしダメだった。ピアノの発表会で盛大なミスをした時に、“名前負け”という言葉を知った。

 ピアノもバイオリンもフルートも凡才未満に終わった“音ちゃん”こと私を見た母親は、天才音楽家モードを解除してエリート受験モードにシフトした。


「音ちゃん、いい? 音ちゃんはこの塾でいっぱいお勉強して、すっごく頭の良い子になって、とっても偏差値の高い女子校に合格して、薔薇色の人生を歩むの。音ちゃんは音楽では失敗したけど、まだチャンスはあるわ。……さぁ、頑張ってらっしゃい」


 勉強に嫌気が差すと、「薔薇色の人生を掴めないわよ?! また失敗してもいいの?!」と彼女は甲高い声を上げ、私をリビングのテーブルに連れ戻した。

 友達と遊びたいと言うと、「あぁ、最近ママによく話すあの子? ダメよあの子は受験しないんだから。音ちゃんとはレベルが違う。格下の子と付き合っても意味ないわ。桜ちゃんと遊びなさい」と低い声で諭し、なかったことにされた。

 その桜ちゃんと遊びたい、と言えば、「音ちゃん。この前のテスト、桜ちゃんより点数低かったでしょ? 一緒に遊んでたら追い抜く時間ないわよ。あなたは桜ちゃんをさっさと抜いて、もっと偏差値を上げなきゃ。桜ちゃんと薔薇色の人生、どっちが大事?」と言って私を透明な檻に閉じ込めた。


 “薔薇色の人生”が何かも分からないまま、私は母親が勝手に買ってきた過去問を何度も解かされ、母親が勝手に申し込んだ特別講習に参加させられ、母親が勝手に出願したお嬢様学校に連れていかれ、試験を受けさせられた。それが2月1日。本番にめっぽう弱い私は、完全に受験の空気に飲み込まれた。みぞれが降る中、校門前に陣取る様々な塾のスタッフ達。大きな声援を送る母親達。私を見るなり睨みつけてくる、隣の席の女の子。みんなの鉛筆の音がただただ怖くて。お弁当を吐くんじゃないかと思った。面接の待合室で、私はガタガタと震えていた。目の前にはヒーターが置かれていたから、きっと寒さのせいではなかった。


 母親には、「できたと思う」としか言えなかった。彼女は私の言葉ににっこりとして、翌朝の発表を待ち望んでいた。受験は親のためにあるものだと知った。

 翌朝も、私は“滑り止め”の受験のために早起きさせられた。その時にはもう、昨日の結果が出ていて。彼女は、呆然とした顔で私を送り出した。入りたくもない学校なのに、機械的に鉛筆が進む。いっそのこと全て投げ出して落ちてやろうかと思ったけれど、全落ちして公立に進学して、周りから笑われるのが怖かった。

 結局“滑り止め”に合格した。彼女は私の合格を「当然よ」と鼻で笑った。“薔薇色の人生”を掴むのに失敗した私は、中学に入学した途端、また塾に通わされた。部活に入りたいなんて、口が裂けても言えなかった。

 私は彼女の期待を2度も裏切った、“犯罪者”。そんな私に拒否権などあるはずもなく、ただ機械的に馴染めない学校に通い続け、塾に通い続けた。

 彼女は私を医学部に行かせようとした。でもこれだけは全力で断った。ピアノの発表も、中学受験も満足にこなせなかった私に、手術や投薬なんかできるはずがない。間違って頭脳だけで入学できても、何人殺して何件の訴訟を起こすか、分かったもんじゃない。

 この反応は想定内だったようで、彼女はダイヤルを回すようにして法学部に照準を合わせた。敏腕女医モードから、誇り高き法曹モードへ。


「いい? 音ちゃん、これが“薔薇色の人生”を歩むための最後のチャンスよ。ママは今の人生、後悔してるの。いい学校に入れなくて、最終的に専業主婦よ。……音ちゃんにはそうなって欲しくないから」


 まるで父親と結婚して私を産んだこと自体が失敗であるような言い方をして、彼女は私を大学受験のレールに乗せた。彼女の人生を失敗に陥れたのだから、拒むことはできなかった。それは、ブレーキも安全バーもないトロッコ。

 再び、私は勝手に用意された赤本を解かされ、勝手に申し込まれていた特別講習に行かされ、勝手にweb出願されていた大学に受験しに行かされた。

 中学受験の基礎が生きていたらしくて、私は彼女の望む大学に合格してしまった。


「音ちゃん!! おめでとう!! ママの子育て間違ってなかったのね……! さぁ、もう“薔薇色の人生”の始まりよ」


 大学生は人生の夏休みだというから、“薔薇色の人生”だというから、自由になれると心のどこかで思っていた。

 でも彼女に期待した私がバカだった。

 サークルもバイトも禁止。門限は21時。必修授業のせいで門限に間に合わないと分かった時には、怒り心頭の母親が大学に電話をかけた。しかしそんなんで時間割が変わるわけもなく、その日は両親揃って門の前まで車で迎えに来た。車に向かうまでの間、涙が出た。寝る前に母親に隠れてSNSを見て、私よりのびのびと育った桜ちゃんが難関大学に進んでサークルを楽しんでいるアカウントを見つけて、また涙が出た。

 私の入れられていた透明な檻は、信じられないくらいに頑丈だった。透明だから、外の世界が見える。みんなの笑顔が見える。なのに、出られなかった。どんなに強く拳で叩いても、開かなかった。どんなに出たいと叫んでも、檻の外の人間には聞こえないようだった。


 でもその檻は、ある時簡単に開いた。

 私というゲームのプレイヤーだった母親が、事故に遭った。“犯罪者”の私を育て上げた彼女は、あっさりと旅立っていった。


 ……あれ、おかしいな。

 心の底から憎んでいたはずなのに。何度も彼女の全てを奪ってやりたいと思っていたのに。バレないようにしながら、毎日彼女への罵詈雑言ばりぞうごんを日記に書き殴っていたのに。旅立つ日には、きっと笑みが浮かんでしまうと確信していたのに。


 涙しか出てこなかった。止めたくっても、ずっと流れて来た。

 ねぇ、ママ。

 私、どうしたらいいの? ママなしで、どう生きていけばいいの?


 分からない……分からないよ。

 いつも隣にはあなたがいた。どんなに嫌だと思っても、消えてくれと願っても、ずっとずっと、へばりつくように、あなたがいた。

 だから、あなたのいない世界が私には分からない。

 あなたのいない世界が存在するということ自体を、受け入れられずにいる。


 教えてよ。私はどうしたら、自由になれるの?


 もうあなたは何も指図をしてこないけれど、私の心にべったりと絡みついたままだ。掻きむしって取りたいけれど、そうすると勢い良く出血してしまいそうで、怖い。

 ママから離れたい。ママがいないと生きられない。


 どっちが真実なのだろう。


 今の私の人生は、何色なのだろう。


 ママがいない私は、ここで生きていていいのかな。

 期待を裏切った“犯罪者”の私は、生きる価値があるのかな。


 何が正解なの?

 教えてよ、ママ。


 プレイヤー不在のゲームは、どうしたらクリアできるのか。

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