片側のキャラメルは空を覗く

ねこK・T

片側のキャラメルは空を覗く

「じゃーん、けーん、ぽんっ」

 わたしと彼女はかけ声に併せて、同時に右手を出した。わたしの右手はパーで、視線を移動させた先、彼女の出していたそれは、はさみの形。

 負けたあ、そんな風にわたしが口を尖らせる一方、彼女は嬉しそうに、誇らしげに胸を張ってみせた。えへへ、勝ったよ、じゃあサイコロ貸してね。そうやって、サイコロを持っているわたしを促すように、右手をひらりと躍らせた。

「分かったよう、ほら」

 わたしが彼女の掌に乗せた、赤いサイコロ――赤地に白抜きの円。白い文字が、お菓子会社の名前を伝えている。そうそれは、正確にはキャラメルの箱だ。蓋を開ければキャラメルが二つ入っているはずのそれを、わたし達はいつも本物のサイコロ代わりに使っていた。こうやってじゃんけんをして。勝った人がサイコロを振って。出た数だけ歩を進める。

 紙上でなくて、現実で行なうすごろく。

 それが、わたし達の日課、学校からの帰り道に行う事だった。

「やったあ、六つね!」

 そんな嬉しそうな声が彼女から上がる。赤いサイコロは彼女の掌から道路へと転がり、彼女の進むべき歩数を伝えていた。

「六つもなんてずるいーっ」

 そんなわたしの声に、彼女は自慢げに笑むだけで返し、道路のサイコロを摘み上げる。そしてスキップするように歩を刻みだす。いーっち、にーぃ、さーんっ、しーっ、ごーぉっ、ろーくっ。大きな一歩で、出来る限り遠くへ、遠くへ行けるように。彼女の背の赤いランドセルが、足とアスファルトとがぶつかるたび、かたかたと音を立てた。

 大きく六歩分、差が開いてしまったわたしと彼女――その間を、春一番の風が、ざああと派手な音を立てて流れてゆく。強すぎるほどの風は、周囲の畑や庭の砂を巻き上げるものだから、痛くて、痛くて。わたしはついつい目を閉じてしまう。

 一瞬の暗闇。耳は、ざあという音が占めるだけだ。


 ――まるで、それは。

 ここにたった一人、取り残されてしまったような、そんな錯覚を覚えるようで。


「――ようこちゃん!」

 投げられたその大きな呼び声に、わたしははっと目を開ける。つむじ風は疾うにこの場から去り、道の向こうには彼女の姿が見えた。――そう、わたしだけではなくて、彼女の姿がそこには見えていた。わたし一人ではなくて。彼女と、二人だ。

「だーい、じょうぶ?」

「大丈夫!」

 六歩先の彼女に、わたしはそう言って大きく手を振って答えた。多分、笑顔で。わたしが浮かべているであろう表情に安心したのか、見つめ返してくる彼女もまた、ほころぶような笑顔を見せた。

 わたしの視線の先で、彼女の腕が、掌が、肩の上へと上げられる。

 わたしも一つ頷いて、腕を上げて。瞳を併せて。

「じゃーん、けーんっ……」


 わたし達はそして、サイコロを振って、振られてを繰り返す。ゴールは赤い屋根の家が見える、曲がり角。そこまで先に辿り着いた方が勝ちとなる。残りの帰り道は、特にじゃんけんも、比べることなんかも無く、一緒に肩を並べて帰るのだ。

「ほら、ようこちゃん、手出して?」

 そして今日は、彼女の勝ち。曲がり角へと先に辿り着いた彼女の手には、最後に振って拾い上げた時のままに、赤いサイコロが乗っていた。そのサイコロの――箱の蓋が、ぱくんと開けられる。

 箱の中からつまみ出されたキャラメルの片方は、わたしの掌に。そしてもう片方は彼女の口元へと運ばれる。二人一緒にそれをころころと舐め始めると、どちらからともなく、ふふふ、という笑みを含んだ声が漏れた。

 甘いねえ、美味しいねえ。

 そんな、当たり前にも似た言葉がひとしきり交わされて。――わたし達は、さっきと同じくどちらともなく、一緒に空を眺めていた。上に向けられた口から零れるのは、青いねえ、なんて。やはり当たり前にも似た言葉だったのだけれど。

 わたしは、それでも良いような気がしていた。

 そしてわたしは、目に染みるような雲一つ無い薄い水色を、ぱちんと瞬きで区切って、視線を道の向こうに戻して。ころりころ、口の中でキャラメルを転がし続けた。


 それが、幼い頃のわたし達の日課だった。


  * * * * *


「――来たよ」

 白いカーテンを横に引き、そっと内側を覗きこむようにしてわたしは言う。わたしの視線の先、ベッドに横になっていた彼女は、その姿勢のまま、とろりとしたやわらかな目をこちらに向けた。今まで眠っていたの? ――そんなわたしの視線を受けてか、彼女は小さく頷く。

「そっか、ごめん、起こしちゃった?」

 壁に立てかけられていたパイプ椅子を組み立てて、腰を下ろして。そして、彼女の負担にならないよう、小さな声でわたしは重ねて問いかけた。呟くような声だったのにもかかわらず、それは予想以上に部屋の内側に反響する。ぶつかって、ぶつかって――また、元の場所、自分の唇のところに言葉が返ってきた。起こしちゃった? と。

 そんなこだまがわたしのところに返って来た頃に、ようやく彼女は返事をした。首を左右に振ることで。水色の酸素マスクをした内側では、もどかしげに唇が揺れていた。言葉を上手く発せなくて、悔しい、悲しい、伝えられない――そんな彼女の思いがそんなところからも伝わるようで、わたしは急いで表情を作る。

 彼女を安心させられるよう、笑顔を。――上手く出来たのかどうかは分からないが。

「いいよ、無理しないで。何年の付き合いだと思ってんの、そんくらい、分かるってば――あ、わたしのこのセーター? 良いでしょうー?」

 わたしはわざとおどけるように、椅子の上でうっふん、とポーズを取って見せた。着ている薄手の黒いセーターが、彼女に良く見えるように。ふっと、彼女の視線がわたしの胸元の方へと向けられたのに応えて、だ。うふ、昨日買ったのよ、なんて言葉を。ほろっとそこには添えた。

 わたしの表情なのか、ポーズのせいなのか。彼女のマスクの向こうで、くつくつと、篭ったような笑い声が小さく聞こえた。

 彼女のベッドの向こう側にある窓は、細く細く開けられていて。そこから入り込んだ、あたたかで涼やかな初夏の風が、ふわりとわたしの鼻の頭を撫でてゆく。

「良いでしょ? 春物セール、来月頭までやってるんだって。行こうね、一緒に」

 ほら、指きり。

 わたしが小指を差し出すと、一瞬彼女はひるんだような、怯えたような色を、その瞳の奥に見せた。――わたしはそんなものには気付かない振りをして、強引なくらいの勢いで彼女の指を取り、自分のものと絡め合わせる。

「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたら、はーりせんぼん、のーますっ」

 絡め合わせた彼女の小指が、自分のものに比べて酷く細い事にも。

 わたしは必死で気付かない振りをした。

「ゆーびきったっ」

 ――約束ね?

 指を解きながらわたしが重ねて呟いた言葉に、彼女は確かに、頷いて見せた。

 わたしはそんなささいなことにまで、心の内側で安心のため息をついてしまう。普通ならば当たり前の彼女の動作にまで、過剰に反応してしまうのだ。――そんな風になってしまったのは何故なのか。その理由にも、わたしは気付かない振りをした。

「あ、そうだ。今日ね、これ持ってきたの」

 なぁに、ようこちゃん。

 不思議そうに首を傾ける仕種を見せる彼女に、わたしはポケットの中から「これ」を取り出し、良く見えるようその顔近くまで持っていって見せた。懐かしいでしょ? と。

 ――さいころきゃらめる。

 わたしの指先から、彼女の細い指がそっと、その赤い箱を受け取る。懐かしそうな、遠くを見つめるような瞳を、彼女はそれに合わせて――小さく、声にならない声で、そのお菓子の名前を唇に乗せた。

 その遠い目が見つめるのは何なのか、その薄い唇が内側に秘めた言葉は何なのか。

 その心の内側では、何を思っているのか。

 何も告げようとはせず、ただ、ずっとその赤いサイコロを眺め続ける彼女を、わたしは見つめ続けていた。

 見つめる細い指先が、くるりとサイコロを回す。くるりくるりと――いつか行なったすごろくの時のように、その出る目を楽しむように、どきどきと待ちわびるかのように。

 くるり、くるり、くるり――あの時のランドセルと同じ色が。

 あの時のすごろくのように、転がされる。道路の上ではなくて、彼女の指先で。

 ――ああ、そして。


 あの時と同じように、わたしと彼女の間を、風がさあと通り抜けてゆく。あの時は埃をまとったつむじ風で、今は、やわらかく細い初夏の風だけれど。決して痛くはないのだけれど。

 何故だろうか、わたしは、ふっと瞳を閉じていた。――あの時と同じように。

 そして、


 ――ようこちゃん。


 マスクの内側から、微かにそんな呼び声が聞こえた気がして、わたしは目を開ける。そこには、箱を転がすのをやめた彼女が居て、やわらかな笑みを浮かべていた。――そう、確かに名前を呼んだのだと、わたしに対して告げるかのように。

 彼女の指先が、わたしの見つめる前で、ゆるゆると上げられる。

 左手で小さな箱を持って、右手でぱくんと、サイコロの蓋を開けて――小さなキャラメルを、一つ。摘み上げる。

 ――ほら、ようこちゃん、手出して?

 わたしを催促するかのように、キャラメルを持つ手が揺れる。それは、小学生のあの時と同じように。わたしは、一つ頷いて、その言葉に添うように彼女の方へと右手を出した。その掌の震えをどうしても止められないのは、やはり、必死で見ない振りをして。

 細く開けられた窓の向こうには、夏へと向かう、色を濃くし始めた空が広がっていた。


  * * * * *


「風、強いなぁ……」

 吹き抜けてゆく風は強く、それでいて粘度を持ったかのような。ぐるぐるとわたしの周りを何度も回っては、ようやく諦めたかのように空へと帰ってゆく。その風につられて見上げた先には、ペンキをぶちまけてしまったかのような、青い、青い空。

 雲一つ無い快晴のくせに、薄いなんてとんでもない、濃く、じっとりとした色合いの空だけが広がっているのだ。空にあるのは唯一、白く輝く太陽で、今日もまた痛いほどの熱と光とをこちらに届けている。

 アスファルトから照り返される熱が、露出した肌を焼き焦がしてゆくようで、わたしは痛くてたまらない。

 しかもまた、風が。湿り気を帯びて、わたしが吸うための空気すら奪ってゆくように、わたしを取り囲んでゆくものだから。思わず瞳を閉じずには居られなくなってしまう。


 瞳の内側の、取り囲まれるような暗闇――けれど。

 いくら待っても、そこから助け出してくれる呼び声はもう、無い。

 ようこちゃん、と。かけてくれる声はもう無いのだ。

 彼女はもう、風に伴われてこの空の向こうへと帰ってしまった。――こんな安っぽい絵の具のような空が、彼女に似合うなんて意地でもわたしは思いたくなかったが。


 しょうがなく、わたしは一人で目を開けた。

 瞳を空けたその先――アスファルトの向こうには、やはり誰も居ない。ここにはわたし、たった一人なのだ。瞳を開けた先に誰の姿も見えないことで、どうしようもなくそれを、気付かされてしまう。

 わたしは、ポケットの内側から赤いサイコロを取り出す。ぱくん、と蓋を開くのは、彼女の指先ではなくて、見慣れたわたしの指先だ。箱に詰まったキャラメルは二つ、わたしは片方を摘み上げて口の中へと放り込む。

 ころりころ、キャラメルを口の中で転がしながら。ころりころ、取り残されたもう一つを、赤い箱の中で転がす。ころりころ、ころりころ。ころころころ。いつまでもその音は止むことなく、ずっと、音を立て続ける。

 もう一つの彼女のキャラメルが、この箱から無くなることはもうありえないのだと。そう、わたしに大きな声で告げるかのように。


 残されたもう一つのキャラメル、それは彼女の分なのだけれど。

 その残されたキャラメルは、わたしなのだと、告げるように。

 たった一つ残されたキャラメルは、ただ、箱の中から、空を見上げるしかないのだと。残されたここから、ただ一人で。片割れが既に向かってしまった空を、見つめているしかないのだと。


 ころりころ、いつまでも箱の中から消えない音は、そうわたしに告げるのだ。アスファルトを巡る風と遊びながら。

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