62 お前がリーナだよ

 その闇がハロンだとに落ちた理由は分からない。


 田中商店でともたちにハロンの話を聞いた時に思い描いたのは、特撮映画に出てくるような恐怖の大怪獣だった。

 なのに実態の見えない闇にハロンだと呼び掛けて、みさぎは横たわる影を一瞥いちべつする。


 彼は本当に智なのだろうか。

 生きているのだろうか――と懸念けねんして、少しずつ闇に慣れてきた目を凝らすと、カサリと小さな音が鳴った。腰の横に伸びた手が、地面の砂をそっとかく。


 ほんの少しだったが生きていると確信して、みさぎは声を張り上げた。


「智くん! 死んじゃダメ! みなとくんが来るまで頑張って!」


 広場全体がハロンに浸食しんしょくされて、智はその腹の中に居る状態と言っても過言かごんではない。

 大体、この魔物はいつからここに居るのだろう。

 湊と来た時に感じた匂いは、ガスが充満するように少しずつ濃くなったのかもしれない。


「けど……これと戦うって、どういうことなんだろう」


 敵はみさぎに対して攻撃してくる素振そぶりは見せない。気付いていないとは思えないけれど。


「私がもしリーナだったら、智くんを助けられるかな」


 彼に、勝手に動いては駄目だと言われたけれど、ここから逃げ出すわけにもいかなかった。

 みさぎは人差し指を立てて、弾かれた境界線にもう一度手を伸ばした。

 来た道と広場の境目で、指先にまたバチリと痛みが走る。


「クッ」


 歯を食いしばってこらえると、痛みは次第に麻痺まひしていった。

 いけると思って、みさぎは柔らかく生温い感触にそのまま指を押し込んでいく。

 けれど手が半分ほど闇に飲まれた所で、今度は痛みが全身を貫いた。


「嫌ぁぁあ!」


 慌てて手を抜いて、患部を強く押さえつける。

 このまま闇雲やみくもに手を出すのは無謀むぼうでしかない。何もできないまま命を削られてしまうことを恐れて、みさぎはスマホを取り出した。


 湊から『どこ?』とメールが来ていた。

 表示時刻からすると、この山に入る前くらいだ。マナーモードになっていて、全然気付くことができなかった。


 彼はまだこの状況に気付いていないのだろうか。

 返信を打とうとした指を、みさぎはコールボタンへ移動させる。電波を探って少し間を置いた後に、呼び出しのコールが鳴った。


「湊くん、出て……」


 スマホを両手に握り締めると、来た道の向こうから小さく着信音が聞こえ出す。


「え? 湊くん?」


 後れて複数の足音がバタバタと近付いてきて、「はい」と出た返事が闇から現れた彼の声と重なった。


荒助すさのさん、良かった」


 濃い藍色あいいろの闇から現れたのは、湊とさきだ。


 突然「おい」と咲が湊をにらむ。「いいから」と聞き流す湊の意味深なやりとりを挟んで、二人はみさぎに「良かったぁ」と安堵あんどを広げた。


 駆け寄って来た湊をさえぎって、咲が「みさぎぃ」とみさぎに抱き着く。


「咲ちゃん、湊くん。どうしてここが?」

「お前がここにいると思ったからだよ。智はいないのか?」


 ぎゅうっと抱きしめる咲に「ありがとう」と言って、みさぎは不安顔を湊に向ける。


「湊くん、智くんがそこに……」


 闇を振り向くみさぎの視線を追って、二人は息を呑んだ。


「智!」


 闇の中に影を見つけて、湊が「おい」と呼びかけるが反応はない。


「私が来た時にはもうこうなってたの。さっき少し動いたから、まだ生きてると思うけど」


 みさぎは早口に説明して、咲を離れた。広場を背に両手を大きく開く。


「そっちは行っちゃ駄目。広場に入ると、闇に拒絶されるから」

「荒助さん、どういうこと?」

「湊くんは、この匂いを感じないの? もうずっと甘い匂いが漂ってるんだよ」

「匂いって……ルーシャが言ってたやつか」


 「えっ」と怪訝けげんな顔を見せる二人に、みさぎは再び背後の闇を一瞥いちべつした。


「私が言うのもおかしいのかもしれないけど、この闇がハロンだと思うんだ」


 湊は広場をぐるりと見まわして眉をひそめた。


「これが……?」


 絞り出すように呟いた湊と顔を見合わせて、咲が「そうなんだろうな」とうなずく。


「けど湊、お前には感じるか? 僕にはさっぱりだよ」

「俺だってそうだ。俺たちが戦ったハロンは、もっと分かりやすい形だった。同じ名前で呼んでたけど、アレとは別物なのか?」

「僕は後のハロンも遠目にしか見てないけどね」


 自分を「僕」と言って湊と話す咲が、みさぎには別人のように見えた。

 咲はもう一度湊と顔を見合わせると、みさぎの前に出てその肩に両手を乗せる。


「みさぎ、智を助けたいと思うか?」

「もちろんだよ」


 咲はどこか悲しい顔を浮かべて「わかったよ」と頷いた。


「みさぎはそう言うと思ってた。僕も今はそう思える。だから、全部戻してあげるからね」

「えっ……咲ちゃん?」


 彼女は何を言っているのだろうか。高校に入って知り合った親友の咲は、過去なんてない普通の日本人だったはずだ。


「戻す、って」

「みさぎ」


 咲がまたみさぎを抱きしめた。辺りに漂う甘い香りに、彼女の匂いが混じる。


 入学式に「会いたかったよ」と言って抱き着いてきた彼女を思い出した。

 「どうしたの?」と戸惑うと、咲はみさぎの耳元にくちびるを寄せて、その事実を口にする。


「お前がリーナだよ」


 その後に咲が口にした言葉は呪文のようで、みさぎには聞き取ることができなかった。






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