61 闇に横たわる影

 殺気さっき立つ甘い匂いに、みさぎは鼻を手でおおった。

 広場のある山へ一歩一歩近付くごとに、それは確実に強くなっている。


 何故そこへ行きたいのかさきに説明することができなかったけれど、根拠こんきょなんて何もない。ただあの場所にともがいる気がして、自分も行かなければならないと思った。


「やっぱり私はリーナなのかな?」


 がけから落ちる夢を見たことも、この匂いを感じることも、自分の都合良く「そうだ」と断言してしまえば、今のこの行動を「使命」だと言い切ることができる気がした。

 たとえそうだとしても、記憶も力もなくては何の意味もないけれど。


 坂の入口まで来て、みさぎは闇に包まれた坂道に目をらした。

 川沿いの小道にポツリポツリと並んだ古い電柱の灯りは、山道に届かない。


 踏み出そうとした足に一瞬躊躇ちゅうちょしたのは、山の深さよりも辺りが異常なくらい静かすぎると思ったからだ。

 もしそこで戦闘が起きているなら大きな音が聞こえてきそうなものなのに、祭の音も遠退いて、シンとした夜にバタバタと鳥の羽音がこだまする。


「ひえぇ」


 びっくりして数歩退しりぞくと、手の離れた鼻がまた甘い臭気を感じ取る。


「何があるの……?」


 智の放つ炎の色もない。彼等がそこにいる可能性は薄いのかもしれないが、みさぎは意を決して坂を上り始めた。


「行かなきゃ」


 咲の制止を振り切ってまでこの闇に入ろうとする衝動に、自分でも驚いてしまう。


 闇は深く、木と道の境目がぼんやりとわかるほどだ。

 足元を探りながら何度も転びそうになって進んでいくと、道の奥の闇が薄くなった。そこが広場だと理解した途端、急に強い匂いがいて、ゲホゲホとむせる。


 音を立ててはいけない気がした。

 慌てて自分の腕を抱きしめると、目指す先で何かがゴウンと低い音を響かせた。

 悪魔の咆哮ほうこうのようで、みさぎは急に怖くなって肩をすくめる。けれど来た闇を戻る度胸もなく、みさぎは前へと足を進めた。


 広場の入口に立つまで、そこはただの闇に見えた。あまりにも静かで、智やみなとが居るとはとても思えなかった。

 何の変化もないただの夜が広がっていたら、諦めて咲の所へ戻ろうと期待してしまう。


 なのに広場へ一歩踏み込んだ瞬間、急に息ができなくなって、反射的に後退あとずさった。そこに見えない壁があって、みさぎの侵入を拒んでいるような気がする。


 むせる呼吸を横に逃がして、みさぎは闇へと目を凝らした。

 雲間から欠けた月が顔を出して、黒一色だった視界が藍色に変わる。


 視界が開けてホッとしたのもつかの間、誰も居ないように見えた広場のすぐそこに、横たわる黒い影が見えた。

 何だと思うのと同時に、それが人の形をしていることが分かって、背筋がザワリと震える。


「湊……くん?」


 そうでありませんようにと祈りながら声を掛ける。


「智くん……?」


 しかし影は動かず返事もない。甘い匂いに混じる焦げ臭さを感じて、みさぎは頭上をあおいだ。

 広場を囲む木々のてっぺんが一か所だけパチパチと赤い炎をくすぶっている。燃え広がる様子はないし、辺りにそれ以上焼けた痕跡こんせきもない。


「智くん!」


 魔法は狙った対象物以外には影響を与えないと智が言っていた。だからこの不自然な炎が智の力によるものだと確信して、みさぎはもう一度彼を呼ぶ。

 衝動的に伸ばした手が、また見えない壁に弾かれた。


 「いやぁ!」と反射的に引いた手がジンと痛む。すぐそこに倒れる彼に駆け寄ることができない。

 口いっぱいに含んだ甘い臭気に、頭がグラグラした。

 「誰か」とささやいた声が湊を求めるが、本人には届かない。


 絶望に近い気持ちで仰ぎ見た闇に、みさぎは「えっ?」と息を呑んだ。漆黒の闇の奥に、どこかで覚えのある陰鬱いんうつな気配を感じる。

 ここで遭遇する『何か』は、湊たちが十二月に来ると言っていたヤツなのだろうか。


「ハロンなの?」


 そうでなければいいと思いながら闇に問いかけると、正解だと言わんばかりに地面が小さくきしんだ。






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