17 彼女の友達は恋多き女子で?

 ふわりと漂うコーヒーの香りに、ツンとしたアルコールの匂いが混じる。


 みさぎがひざについた砂を水道で流すと、一華いちかはピンセットではさんだ丸い脱脂綿に消毒液をたっぷりとしみ込ませた。


 傷口にペタリとアルコールが触れて、みさぎは「くぅ」とその痛みをこらえる。じわりと染み渡る感覚は、数年ぶりな気がした。


「痛ぁい」

「ふふっ。みさぎちゃん、可愛い」


 一華は天使の微笑ほほえみを浮かべながら、消毒液を容赦ようしゃなく何度も患部に当てた。痛みにもだえるみさぎを見て、面白がっているようにも見える。

 傷口がびっしょりと消毒液にまみれたところで、


「このくらいかしら」


 じんわりと血のにじむ脱脂綿を捨てて、一華は大きな絆創膏ばんそうこうを貼り付けた。真ん中の白いガーゼをちょんと指で突く。


「これでばっちりよ」

「ありがとうございます!」


 みさぎは頭を下げると、膝を引き寄せてふぅふぅと息を吹きかけた。

 ふと柱の時計を見上げると、一時間目終了まではまだ十分も残っている。思ったより怪我は軽く、今戻れば再びハードルを飛ばなくてはならない気がした。


「戻りたくないなら、チャイムが鳴るまで休んでいく? あとちょっとだから構わないわよ」

「本当ですか! なら居させて下さい」


 みさぎの意をみ取って一華は「どうぞ」とにっこり目を細めると、隅にある冷蔵庫から麦茶を出してくれた。チラリと見えた冷蔵庫の中には、薬瓶に紛れてお菓子の袋や箱がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。


「ここ座るわね」


 一華は熊柄のマグカップを片手に、みさぎの向かいに腰を下ろした。さっき智が座っていた場所だ。

 みさぎはイチゴ柄のグラスに入った麦茶を一口飲んで、そっと彼女に聞いてみる。


「あの、先生」

「なぁに?」

「さっきの、本気だと思いますか?」

「転校生の長谷部はせべくんだっけ?」


 「はい」とみさぎはうなずく。

 一華とはこの間プールで会ったり何度か顔を合わせたことはあるが、こうして話すのは初めてだった。

 ともとのことを見られて気まずい気持ちもあったけれど、咲に相談すると大事おおごとになる気がして、まずは大人の意見を聞いてみたくなった。


「昨日会ったばかりでそんなこと言われても、私はよく分からなくて」

「ホント、みさぎちゃんも困っちゃうわよね。一目惚ひとめぼれなんて、彼よっぽど運命感じちゃったのかしら」

「本人はそうじゃないって言ってたんですけど、どうなんだろう」


 コーヒーにふぅっと息を吹き付けて、一華は「そうねぇ」と首をひねった。


「本人の気持ちなんて他の人には分からないことだけど、告白って相当なエネルギーを使うものだと思うの。勇気を振り絞って伝えた言葉なんだと思うから、嘘ってことはないんじゃない?」

「そう……なんですかね」

「うん。けど、そうやってみさぎちゃんが納得できないうちは、「はい」なんて答える義務もないのよ?」

「は、はい」

「自分の気持ちに整理がつかないまま、何となく「付き合います」って言っちゃったら、後で後悔するかもしれない。それは自分にも相手にも良くないわ」

「はい」


 一華の言葉を一つ一つ胸に刻み込むように、みさぎは返事する。


「けど、ちゃんと答えが出てるのに曖昧あいまいにしておくのもダメよ?」


 一華は一瞬何かを思ったようにムッと黙り、とあるエピソードを話してくれた。


「私の友達が、やっぱり二人の男子の間で悩んでたことがあるの」

「へぇ」

「どっちも好きで選べないとか言うのよ? 贅沢ぜいたくな話だと思わない?」

「そ、そうですね」


 ムキになる一華は、その友達に対して少なからず怒っているようだ。


「けど、本当はそうじゃないって分かってた。あの子はずっと片方の男の子が好きだったのよ」

「じゃあどうして、そのお友達はその人を選ばなかったんですか?」

「何でだろうね。みさぎちゃんはどう思う?」

「えっ」


 逆に聞かれて、きょとんとしてしまう。

 みさぎは目をパチパチと瞬いた。


「な、何でだろう……もしその二人のどっちとも普段から仲が良かったなら、関係を壊したくなかったとか……」


 ありきたりな答えだろうかと思いながら答えると、一華は小さなくちびるとがらせて、「そうなのかなぁ」と曖昧あいまいな返事をした。


「結局、その三人がどうなったかは、まだ分からないのよ」

「現在進行形ってことですか?」

「まぁそういうことね。見てるこっちがイライラしちゃう」


 ムッとする一華を、みさぎは何だか可愛いなと思った。

 あやとは真逆の柔らかな雰囲気は、一緒に居て安心できる。流石の人気も納得だ。


「ごめんなさいね、変な話しちゃって。色々アドバイスしてあげられたらいいんだけど、私も恋人いないから、他人の受け売りになっちゃうのよね」

「そうなんですか? 先生可愛いから、モテモテだと思ってました」

「ふふっ、ありがとう。私はね、昔好きだった人を忘れられないのよ。もっと良い人が現れてくれればいいのに」


 「ね」と肩をすくめる一華に、「すみません」とみさぎは謝った。


「私の事は気にしないで。今は貴女の話でしょ? みさぎちゃんは、自分の気持ちにもう一歩前へ進まなきゃ。一番大事なのは、好きな人にはちゃんと好きだって伝える事よ?」

「はい!」


 勢い良く立ち上がって、みさぎは頭を下げる。

 一時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。


「またいつでも麦茶飲みに来てね」


 一華はマグカップをテーブルへ放し、両手を振った。

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