18 お兄ちゃん好みの彼女

 更衣室に着くと、もうクラスメイトは誰も残っていなかった。

 休み時間は残り五分。じんわりと暑い空気と制汗剤せいかんざいの匂いを窓の外へ逃がし、急いで制服に着替える。


 先生の目を盗みながら駆け足で教室へ戻ると、ともが自分の席で「お帰りなさい」と迎えてくれた。

 平静を装ったみさぎの「ただいま」に重ねて、二時間目の始業ベルが鳴る。


「ギリギリセーフだね」


 何もなかったように前を向く智の背中を見つめながら、落ち着かない心臓の鼓動をぎゅっと押さえつける。向こうからこっそり手を振ってきた咲に振り返すのがやっとで、みさぎは授業が半分も頭に入らなかった。


 その後、放課後になるまでに智とは何度か話をしたけれど、保健室でのことが夢だったかのように、お互いその話題には触れなかった。



   ☆

 昇降口を出たところで、咲が突然ピタリと足を止めた。

 のんびり教室を出てきたせいで、周りに他の生徒の姿はほとんどなかった。

 智や湊ももう駅に居る頃だろう。


「みさぎ……」


 彼女はかばんを持つ手に力を込めて、何故か深刻な表情でうつむいている。


「どうしたの? 咲ちゃん」


 もしや保健室でのことがバレているんじゃないかと息を呑むが、咲の悩みは全く別の事だった。

 そういえば朝も似たようなシチュエーションが起きた事を思い出す。


「みさぎは、みさぎのお兄ちゃんの事が好きなのか?」

「えぇ?」


 この時を待っていたかのように改まった顔をして、咲は目をうるませる。

 彼女にとってれんの話が何故地雷なのか、みさぎにはさっぱり分からない。


「お兄ちゃんって、そりゃ兄妹だから嫌いじゃないよ。けど、咲ちゃんが考えてるのとはちょっと違うと思うんだ」


 それこそ湊たちの話を思い出して、妹にベタベタしていたというリーナの兄を重ねてしまう。

 リーナの気持ちがどうだったのかは分からないが、蓮が自分にベタベタしてきたら、やっぱり気持ち悪いなと、みさぎは思った。


「やっぱり、お兄ちゃんの事が好きなんだな?」


 オーバーな解釈をして、咲は「うおぉ」と咆哮ほうこうする。そして悲劇のヒロインにでもなったように、二宮金次郎像の台座に片手をついた。


 絶望に打ちひしがれる彼女の背中に何と声を掛けていいのか分からない。


「けど、みさぎにお兄ちゃんが居るのは、仕方のない事だもんな」


 みさぎの困惑に気付いて、咲は「ごめん」と身体を起こした。自分のほおを両手でパチリと叩いて、「よし」と気合を入れる。


「じゃあみさぎ、今度そのお兄ちゃんに会わせてくれないか?」

「へっ? 咲ちゃんが、うちのお兄ちゃんに?」


 何故そういう話になるんだろうか。

 女友達に蓮を見られたことはあるが、紹介して欲しいなど一度も言われたことはない。

 困ったなと顔をしかめたところで、みさぎは入学式に撮った集合写真に写る咲を見て「可愛い」と言った蓮を思い出した。

 その途端、みさぎは咲の気持ちが何となく理解できた気がして、


「お兄ちゃん、今彼女いないと思うよ!」

「そうじゃない!!」


 けれど、わめくように否定されてしまう。


「そういう話じゃないの?」

「違うよ。とにかく一度、会わせてよ。どんな人なのか見てみたいと思ったから」


 「お願い」と手を合わせる咲に、みさぎは「分かった」とうなずいた。


「そんなに期待すると、がっかりするかもしれないよ? でも咲ちゃんがウチに来るなら、そのままお泊り会でもしちゃう? そしたら、お兄ちゃんにも会えるし」

「お泊り会するぅ! ありがとう、みさぎ。大好きだよ」


 やったぁとはしゃぐ咲。

 お泊り会の計画は前からあったのに、ずっと実行しないままになっていた。

 興奮した勢いで、咲がぎゅうっとみさぎに抱き着く。柔らかい彼女の匂いに、みさぎは今日一日の緊張が解けた気がして、ホッと息を吐いた。



   ☆

「うふふ、楽しそう」


 保健室の窓から昇降口の端が見えて、養護教諭の佐野一華いちかはみさぎたちの様子をそっと見守っていた。

 両手に握り締めた熊柄のマグカップからは、甘いココアの香りが立ち上っている。


「先生も楽しそうですね」

「はい、とっても楽しいです」


 一時間目にみさぎが座っていたソファで優雅にコーヒーを飲んでいるのは、一年担任の中條明和めいわだ。


 テーブルの上にはシュークリームやスナック菓子やおせんべいといったおやつがびっしりと置かれていて、もう一つのコーヒーカップが三人目のメンバーを待ちわびている。


 生徒たちが下校した後の、放課後のティータイムだ。


 今日クラブ活動をしているのはテニス部と合唱部のみで、校庭には遊具で遊ぶ近所の子供たちの姿が見えた。大会の近い合唱部がコンクール曲の練習を始めて、歌声が校舎中に響き渡っている。


 そんな中、中條がチョコチップのぎっしり詰まったクッキーをつまんだところで、騒々しい足音とともに三人目のメンバーがやって来た。

 ガラッと開かれた扉の奥に現れたのは、まさに鬼の形相ぎょうそうと言わんばかりの顔をしたあやだ。


「絢さん、いらっしゃい」


 一華がにっこりと彼女を迎える。

 絢は一時間目のブルマとは違い、今度はテニス部顧問バージョンのシャツとスコート姿で、ドカドカと中條に詰め寄った。


 すまし顔で見上げた中條をにらみつけ、絢はテーブルから自分のカップを取り上げてゴクリとコーヒーを飲み込んだ。それが予想より相当熱かったらしく、「ううっ」と短くうめく。


「ああっ、絢さん大丈夫ですか?」


 心配する一華に絢は「平気よ」と強がってのどを押さえた。

 そして再び中條を睨む。


「貴方、私に恥をかかせてくれたわね」

「はい?」


 冷めた顔で首を傾げ、二枚目のクッキーを食べる中條に、絢は苛立いらだちをつのらせて声を張り上げた。


「こっちの世界じゃ、体育の時はブルマはくのが最先端だって言ったのは貴方じゃない。それなのに、生徒たちの反応はおかしいし、ヒルスになんて誰かに入れ知恵されたのかって聞かれたわよ? お店でもなかなか手に入らなかったから、流行りで売り切れてるだけかと思ったのに……」

「お兄さんも容赦ようしゃないですね」


 一華は苦笑いしながら「失礼します」と中條の横に座った。目の前のチョコをつまんだ手が、二個、三個と続く。


 中條は短く溜息ためいきをついた。


「嘘は言っていませんよ。そうだった時代もあったんです。数十年前の事ですけどね。ルーシャ、貴女はもっとこの世界を知ろうとした方がいいと思いますよ」

「ギャロップ、貴方……もういいわ」


 絢はフンと鼻を鳴らし、彼の向かいに腰を下ろした。



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