第25話
灯台の急な螺旋階段を上り、犬吠埼から海と関東平野を一望したあと、わたしたちは細い町道を歩いて最後の目的地へと足を運んだ。
海沿いの町は、坂道が多いものなのだろうか。十分も歩けば、海が遥か下にある水たまりのように見えた。
「先輩、どこまで行くんですか? もう日が傾いてきてますけど」
まほろの心配はもっともだ。すでに午後五時を過ぎている。夜行バスの発車は深夜に近い時刻だが、はじめて訪れる街の夜を歩くのは不安があるのだろう。
「大丈夫。地図だって調べれば出てくるし、電車の時間も確認してきたし」
「そういう心配じゃないんだけどなぁ」
まほろはぶつぶつとぼやきながらもとなりに並んでついてくる。周りに目を配って、まるで肉食獣を警戒しながら移動する鹿みたいだ。
もちろん、穏やかな夕暮れの町には危機など欠片もないのだけど。
行く先に目当ての建物が見えてきた。タイル張りの外壁の、三階建て。一見すると、図書館のようだ。
一日中歩き回って疲れた足に、力が湧いてくる。大股でアスファルトを踏みしめた。道端の街灯が、弱々しく点滅しながら明かりを灯す。
まほろは玄関につづく階段の前で足を止め、看板を見上げた。日の光が弱くなるにつれて、まほろの姿は昼間よりは濃く目に映る。
「地球が丸く見える丘展望台……どういうことですか?」
「わたしもネットの写真を見ただけだから詳しいわけじゃないけど……地球が丸く見えるんだって」
「だから、それがどういうことかわからないんですけど」
建物の中に入り、入場料を支払う。遅い時間だからだろうか。わたしたちの他に人気はなく、店内放送の有線が静けさを際立たせていた。
店員の女性はカウンターの中に立ったまま、身を乗り出すようにしてフロアの奥のエレベーターを指さした。三階まではエレベーターで上り、屋上展望台へは階段を使うようにと言われた。
「先輩、展望台って高層ビルの最上階とか、何たらタワーの地上何百メートルとか、そういうとこにあるものじゃないですか? 三階建ての屋上って……地元の駅前の展望台ですら地上二十三階とか、そのくらいありましたよ?」
エレベーターに乗りこみ、階数ボタンがからっとしているパネルを見て、まほろは心もとない顔をした。
予備知識のあるわたしでも少し不安になってきた。大丈夫、と太鼓判を押すことができずに、黙って最上階のボタンを押した。
こめかみのあたりを巨大な指でつままれ、ぐいっと持ち上げられるような感覚は、あっというまに消え去った。展望台まではるばる上ってきた、という実感がないまま、エレベーターのドアが開く。
屋上への階段は外にあった。建物の丸みを帯びた壁に沿って、ゆるやかにカーブしている。アパートの、いつガタがきてもおかしくないような金属が腐食した階段とは違って、頼りがいのあるコンクリート製だ。
上りはじめは日陰だった階段が、数歩先から日向になっている。それと同時に、進行方向の視界が開けはじめた。
顔に西日を受けた瞬間。
わたしとまほろは、同じタイミングで息を飲んだ。
自然と駆け足になる。まほろなんて、今の今まで普通に歩くように足を動かしていたのに、それも忘れてすうっと飛んで行ってしまった。
先に屋上に辿り着いたまほろは、少しだけ床から浮いていた。景色に目を奪われて、細かいことを気にしていられないのだろう。
まほろのとなりに立ち、手すりの外へと目を向けた。ああ、と息が漏れる。
右手には海、左手には街。そして、街を分断する大きな川。
視界を遮るものは何ひとつない。陸地にはおうとつが少なく、スポンジケーキに生クリームを塗って平らにならしたかのようだ。
街へと沈む太陽は家々の屋根を照らし、金色のハチミツを流しこんだかのように海を輝かせ、長く伸びた飛行機雲を光の筋に仕立て直していた。
地平線と水平線は一本の線になり、綺麗な弧を描いている。その空と地球の境目を追いかけて、反時計回りにゆっくりとターンする。
山のない地平線。波など見えない静かな海。そこへ流れこむ大きな利根川。
まるで、自分を中心点にし、コンパスで円を描いたようだった。すべてが一本の線でつながっていた。
まほろも惚けた顔のまま、倒れかけのコマのようにくるくると回っている。二周、三周とするうち、遅れて感情が表出しはじめた。目を見開き、頬にはえくぼが現れる。大きく開けた口からは、こらえきれない歓声が飛び出した。
「すごい……すごい! 丸い。ほんとに丸いですよ! あたし、はじめて地球を見ました」
「はじめて見たって……いつも見てる景色だって地球じゃないの」
「え、そうだったんですか。あれが地球?」
まほろは大真面目に首をかしげた。冗談に決まってはいるが、まほろがそう言いたくなる気持ちもわかる。
わたしたちの地元には、地平線がなかった。もちろん、海辺の街じゃないから水平線もない。
街は盆地だった。四方を山々に囲まれ、そのうち名前を知っている山はひとつだけだったが、小さいころからそんな場所で育ったわたしたちにとって、太陽は山の向こうから昇ってきて、山の向こうへと沈んでいくものだった。
まほろがさっき言った駅前の展望台にのぼったって、景色は山々に縁取られていた。かろうじて地平線が見えたと思っても、その向こうには空と同化しそうなほどうっすらと連山が佇んでいる。
どうしても山からは逃れられないのだな、と途方もなくなってしまうような街だった。
地球が丸いことは当たり前のように知っていた。だけど、実感したことはなかった。衛星写真の、地球儀のようにまんまるの地球を見ても、他人事のように思っていた。
今、やっとわかった。
地球は本当に丸かった。
「先輩……あたしの姿、見えてますか?」
まほろが腕を広げ、四肢の先を順繰りに見ながら訊ねてくる。わたしは同じようにまほろの視線を追い、少し心もとない気分でうなずく。
「うん、見えてるよ?」
まほろはよかったぁ、と胸を撫で下ろした。
「何か、あたしのからだが景色に溶けこんじゃったような気がして、怖くなっちゃいました」
ただでさえ頼りないまほろのからだが、風に吹かれて煙のように散り散りになるのが脳裏に浮かんできて、わたしまで恐ろしくなる。
まほろだった煙は、すぐに透明で薄められてしまう。かき集めたくても指に触れる感覚はない。
しかしまほろは、肌寒いくらいの夕風に吹かれても姿を揺らがせることなく、じっと景色を眺めている。
さっきまでの不安を、わたしの弱々しい肯定でかき消せたのだろうか。横顔に憂いは見当たらない。
「あたし、自分のほんとの状況、たまに忘れちゃうんです」
まほろは海と陸地が半々に臨める方角を向き、手すりに腕を置いた。わたしもまほろに並び、同じ格好をする。もう夕日にまぶしさはなく、地平線と接しはじめている。
「ほんとの状況って……」
「ほんとのあたしは病院で眠りつづけてるってこと」
まほろのポニーテールは背景の海を透かして、金糸を織り交ぜたように輝いている。
後れ毛にくすぐられたように、首を縮め、肩を少し跳ね上げた。うなじをかく指の爪は、かたちがよく、意外に伸び気味だった。
「ほんとのまほろって何? ここにいるまほろだって、ほんとのまほろでしょ」
「だって、身体がないんですよ」
「でも……まほろの心なんだから、やっぱり本物のまほろだよ」
まほろの仕草や表情は、生きている少女そのものだった。今だって、痛みをこらえるような、切ない顔をしている。胸もとから何かがあふれるのを押し留めるかのように、タンクトップの襟ぐりを両手で握りしめている。
「わたしだって、正直……まほろが本当は入院中で意識不明なんだって、たまに忘れてる。ていうか、たまにしか思い出してなかった。だって、まほろはここにいるんだもん。しゃべったり笑ったり、漫画描いたり……前と何も変わらないんだもん」
まほろがぐずっ、と鼻を鳴らした。夕日で赤く色づいた頬に滴が流れ、通った道すじが海面のように光を乱反射している。
まほろが泣くと困る。ハンカチを貸すこともできなければ、指で拭ってあげることもできないのだ。
まほろの泣き顔から目をそらしても、泣き声だけは聴いていないといけない。まほろが涙を零す度、水たまりがどんどん深くなって逃げられなくなるような、息苦しさが積もっていく。
わたしは手すりを掴むまほろの手に、自分の手を重ねた。冷たい手すりを握っていて冷えた手に、まほろのぬくもりがいつも以上にはっきりと伝わってくる。
まほろははっと顔を上げて、くちびるをもぞもぞと動かした。涙で濡れた顔を見せられ、心臓が握りしめられたように痛んだ。
「ねえ、せっかくの旅行なんだからさ、泣かないで。いつもみたいに笑ってよ。まほろの笑った顔が見たい」
わたしは涙を拭けないのは承知で、まほろの頬に手を伸ばした。涙の跡が残る頬を手のひらで包みこむ。夕方の潮風に吹かれ、冷たくなっているかと思いきや、濡れた頬は思いもよらずあたたかかった。
まほろはわたしの手に触れようとするかのように、頬をすり寄せてくる。手の甲からまほろの頬がはみ出すので、少し腕を曲げて触れているかたちを保つ。するとまほろはまた顔を近づけてきて……と繰り返していたら、いつのまにかまほろの顔が至近距離にあった。
わたしより五センチ身長の低いまほろは首を伸ばして、薄くくちびるを開いて見上げてくる。頬に添えた手も相まって、これじゃまるで……。
涙が止まった目を見開き、まほろはぱっとわたしから離れた。ぐしぐしと乱暴に頬を拭い、濡れた手をショートパンツにこすりつける。前髪を気にするように梳きながら、鼻をずずっとすすった。
まほろとの距離がもとに戻っても、心臓はなかなか静かにならない。まほろの顔に息を吹きかけては申し訳ないと思ったのか、無意識に呼吸が浅くなっていたみたいだ。まほろにバレないよう、普通の呼吸を装って深呼吸をする。
先に沈黙を破ったのはまほろだった。
「すみません。何か、綺麗な夕焼けって、見てるとしんみりしちゃうんですよね。この壮大すぎる景色のせいなんです、ほんとに」
まほろは早口でそう言って、ひとりで笑った。わたしも納得した振りをしてうなずいて笑った。
太陽が完全に沈み、西の空が虹色のグラデーションに染まる。よく見れば、すみれ色の空の高いところに一番星が出ていた。
海は暗い青に落ち着き、東の水平線は空との境目が曖昧になりはじめていた。
「帰ろうか、まほろ」
「はい。あ、犬吠駅でぬれせんべい買うの忘れないでくださいね」
わたしたちは展望台を後にし、坂道を下って駅へと向かった。ちょうど、一両の列車が銚子方面へと走っていくのが見えた。今発車したのなら、次の電車まで余裕があるだろう。
わたしたちは慣れない海風を受けながら、ゆっくりと歩いた。空には星が増えはじめていた。
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