第26話

 まほろが見守る中、最後のページの最後のコマに、ペンでセリフを書き入れる。ふたり同時に息を漏らす。顔を見あわせ、うなずき、ほほえむ。久しぶりに味わう、静かな達成感が湧き上がってくる。


 まほろといっしょに、最後の漫画を描きはじめて二ヶ月が経っていた。取りかかったときに吹いていた爽やかな風は、本格的な夏に突入する前の、湿った温風に変わっていた。

 先に口を開いたのは、まほろだった。


「できましたね」

「うん。できた」


 インクが乾いたのを確認して、四十一枚の原稿を重ねてとんとんと叩いて揃える。ふたり並んで表紙を見つめる。

 長かったような、短かったような、制作期間。まぶたを閉じ、いろんなことがあったな、と思い返す。


 まほろはもう一度だけ、漫画を描くためにわたしのもとにやって来た。その願いが、今叶えられてしまった。

 漫画の完成がいつもより嬉しくないのは、まほろのこれからのことを考えてしまうからだ。


 ――身体に戻るのは諦めることにしました。


 思ってもみないかたちで再会したあの日、まほろは軽い声音で言った。まほろはすでに、自分の行く先を決めていたのだ。そこには強い覚悟がある。わたしが止めてもどうにもならない……いや、まほろはきっと止めてほしいとは思っていないだろう。


「先輩」


 まほろに呼ばれて、まぶたを開く。まほろは原稿を見つめたまま、いつもより小さな声で言った。


「この漫画、どこに投稿しますか?」


 わたしははっとしてまほろを振り返った。まほろはわたしの左隣で、目を細めてこちらを見上げていた。その瞳はまぶしそうにも、笑っているようにも、寂しそうにも見えた。


「そうだな……考えてなかった」

「先輩はいっつもそうですね。漫画を描き終わったあとのことには無頓着」

「だってずっと、漫画を描きたいって思いだけで描いてきたから。読者がほしいとか、仕事にするとか、考えられないし」


 原稿を封筒にしまい、こたつに置いた。時刻は午後十一時を回っている。

 帰宅してから仕上げ作業をはじめ、休憩ついでに夕食と風呂を済ませ、また数時間作業をつづけていた。ゴールが見えていたため、一気にラストスパートをかけたのだ。


 夕食は、冷蔵庫に残っていた食材で適当に作って食べた。まほろから料理の手ほどきを受けたおかげで、料理名もないような簡単なものならひとりでも作れるようになっていた。


 ――あたしがいるあいだに、先輩に生活力をつけてもらいます。


 漫画を描く以外に、まほろが掲げた目標が急に記憶の底から浮かび上がってくる。

 まだ完璧というレベルには至っていないものの、ひとり暮らしをはじめた当初と比べると差は歴然としている。少なくとも、健康な生活を送れるくらいの生活力はついているはずだ。


 これで本当に、まほろの思い残すことはなくなってしまった。この世に留まるだけの理由がない。


 ますます不安が募っていく。まほろから目を離していられない。

 ここにやってきたときと同様に、いなくなるのも突然かもしれない。


 まほろの右肩に自分の肩を押しつけた。暑い季節になってはいたが、まほろから伝わってくる温度は不快ではなかった。

 むしろ、漫画が完成に近づくにつれて、まほろのぬくもりが恋しくなっていった。漫画を描いているとき以外は、いつでもからだのどこかが重なった状態でいないと落ち着かなかった。


 布団を取り払ったこたつの下にまほろの脚が伸びている。わたしはその滑らかな素足に添わせるように、折っていた脚を伸ばした。まほろの方から脚を絡めてくる。胸が締めつけられるほどあたたかいのに、触れている感覚はない。

 慣れたはずのふたりの触れあいに、今さら絶望を感じている。


「先輩……漫画描くの、やめちゃいますか?」


 まほろの言葉に、心臓が跳ね上がる。まほろは水に脚を浸すかのように、わたしの脚の中でぱたぱたと足首を動かした。ぬくもりがからだの中で波を作り蠢いている。くすぐったいような、受け入れがたいような感覚に、ぴくっとかすかにひざが跳ねた。


「何でそう思うの?」

「特に根拠はないですけど……さっき、原稿が完成した瞬間の先輩の顔を見て、もしかしたらって思っただけです」


 まほろはおもむろに立ち上がり、ベッドに向かった。まんなかより少し左側に寄ったところに腰かける。わたしも追いかけるようにまほろの右隣に座った。

 まほろはうつむきがちに頬をゆるめ、からだをななめにしてわたしを見つめてきた。

 潤んだ瞳、華奢な鎖骨の線と、滑らかなくぼみ。白いワンピースはからだのラインを透かし、からだもろとも背後の景色を透かしている。


 息を飲むほど儚い姿だった。


「先輩、漫画やめないでください。ずっと描きつづけてください」


 ひざに置いた手が、ふんわりとまほろの手の温度に包まれる。まほろの顔は至近距離にあるのに、吐息は感じられない。


「もう描けないよ。まほろといっしょじゃないと」

「そんなことないです。今まではずっとひとりで描いてきたんでしょう。あたしがいなくたって、大丈夫じゃないですか。作業が分担できない分、ちょっと時間がかかるようになるとは思いますけど……」

「なんで……」


 わたしのかすかなつぶやきに、まほろは言葉を止めて目を伏せた。指が震えながら折り曲げられていく。


 わたしは泣いていた。

 視界がぼやけはじめたと感じたときには、すでに手遅れだった。

 頬がまんべんなく濡れると、あごから滴り落ちた涙は手まで濡らしはじめた。まほろの手をすり抜けて、手の甲に水玉模様ができていく。水玉がつながって、ひざに流れて、また新しい水玉ができる。


 まほろは静かにずっと手を重ねてくれていた。 涙の冷たさが伝わっていないといいなと思った。


「なんで、わたしの心配ばっかりするの? 今考えないといけないのはまほろのことでしょ? まほろはこれからどうなっちゃうの? 夢を叶え終えて……天国に、戻っちゃうの?」


 わたしは声を震わせながら言った。まほろは深呼吸するように何度か胸を大きく動かしたあと、顔を上げてくちびるをほころばせた。

 どうしてそんな顔ができるのかと思うほど、穏やかな笑顔だった。


「天国に帰りますよ。そして、今度こそ門をくぐります。神さまとの約束ですから。もう決まっているあたしの予定より、先輩の未来の方が大事な話じゃないですか」

「ほんとにもう、戻ってこられないの? まほろの身体は……病院にいるまほろは、もう目覚めないの?」


 まほろの決意を止めない、止めてはいけないと言い聞かせていたのに。

 吹き荒れる感情を抑えることができず、まほろを責めるような言葉を吐き出してしまう。


「目覚めません。それが約束なので」

「まほろは怖くないの? なんで笑っていられるの?」


 沈黙を避けたい一心で、もはや揚げ足取りみたいな問いすらぶつけてしまう。

 ブレーキはもう壊れていた。それもこれも、最初の涙のせいだった。泣いてさえいなければ、もう少し冷静でいられたはずだ。


 ぼやける目をこらして、まほろをまっすぐに見つめる。泣き顔なんて粗末なものを見せてでも、まほろの瞳をわたしに向かせたかった。どこか遠いところなんて見てほしくなかった。


 まほろはくちびるを少し歪め、それでも涙は見せずに頬を引き締めた。眉根に寄ったしわにだけ、本当の気持ちをこめているかのようだ。


「怖いですよ。先輩に会えなくなるのが。忘れられちゃうかもしれないのが。思い出してもらえなくなるかもしれないのが」


 まほろは早口で言い募った。半開きの口から、熱い吐息が吐き出されるのが見えるようだった。


「絶対忘れない。毎日思い出すよ」

「うーん、でもそれも、先輩の未来を閉ざすようで心苦しくもあるんですけど」


 まほろは打って変わって、軽い口調で言った。肩透かしを食らったように、一瞬頭を真っ白にされた。涙も止まった。


 まほろはわたしのそんな反応を狙ったのか偶然なのか、へにゃっと笑ってみせた。つられて笑うところまではいかないものの、軽い吐息が漏れ出て、ぱんぱんだった風船から空気が抜けたような余裕ができた。


「先輩。あたしはもうちょっとだけこの姿でここにいられると思います。帰るまでに、もうひとつだけやりたいことがあるんです」


 声を出したらまたみっともなく震えることはわかり切っていたので、瞳でつづきをうながす。


「あたしを、あたしが入院してる病院に連れていってください」


 まほろはわたしを見つめ返して、ますます透明に近づいたように見える頬に、うっすらとえくぼを作った。

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