第27話

 高校の卒業式は、三月一日に行われた。


 旅立ちの春、出会いと別れの春、と校長祝辞やら来賓挨拶で繰り返し聞かされたが、三月なんて春にはほど遠く、その日の最低気温は氷点下だった。


 卒業生は全員点呼されるが、卒業証書を受け取るのは代表者一名だけだった。

 在校生の送辞や卒業生の答辞もあっさりしたもので、式は一時間ちょっとで終了した。


 むしろ、卒業生にとっての本番は式のあと、教室に戻ってからだった。

 担任から改めてひとりひとり名前を呼ばれ、卒業証書を渡される。保護者が壁沿いにコの字型に並んで、カメラを構えたりハンカチで目もとを押さえたりしている。

 着物姿の担任ははじめこそ淡々としていたのだが、次第に声が震えはじめ、しまいにはまともに声が出ないほど泣いていた。それにつられるように教室中で、鼻をすする音やおさえこんだ嗚咽が上がりはじめた。


 わたしは「梅若」で出席番号が七番なので、最初の方で出番は終了していた。

 泣き声に満ちた教室……わたし以外の全員が泣いている空間にいるのは居心地が悪く、ばつも悪く、なるべく髪で顔を隠してやり過ごした。


 結局、最後のホームルームは式と同じくらいの長時間に及んだ。

 ホームルームが終わったあとも、別れを惜しむクラスメイトたちは卒業アルバムを眺めながらおしゃべりに興じていた。メッセージを書きあったり、写真を撮ったりもしている。


 わたしはだれとも言葉を交わさないまま、両親には先に帰っていいと伝え、美術室へと向かった。

 午後四時を回っていた。式が終わってからは一時間半も経っている。在校生のほとんどは、すでに下校しているはずだ。


 式が終わったあとのことは、何も約束していない。だけど、まほろはきっといるはずだと思って疑わなかった。

 校舎はやけに静かだった。廊下には教室の中に満ちた西日が溢れてきていて、空中を漂うほこりがきらきらと光っていた。まるで、ハチミツ色の絵の具を塗ったかのようだ。


 美術室の戸を開けるとき、どんな顔をしようかと少し迷った。わたしはひと粒も涙を流しておらず、目は赤くもなっていなければ腫れてもいない。

 寂しいというよりは晴れやかな気分で、すっきりした顔をしているだろう。ちょっとくらい涙を浮かべた方がいいだろうか。


 わたしは首を振り、飾らないそのままの顔で取っ手に手をかけた。窓から差しこむ太陽の光の中に、小柄な人影があった。

 セミロングの髪は傾きかけた陽光の色に染まり、色白の頬は産毛が光を纏ってなめらかに輝いていた。


 まほろはいつもの席に座り、頬づえをついていた。ついさっきまで眠っていたかのように、まほろはゆっくりと首を伸ばし、腕を下ろした。ぼんやりと、遠くを見るような視線をこちらに寄越す。

 半開きのくちびるが、花の開く瞬間を早送りで見るように、ふんわりとかたちを柔らかくした。


「ごめん。待った、よね?」

「待ちましたけど、もっと待っててもよかったです」


 わたしはいつもの、まほろの右隣の席へと歩を進めた。まほろは椅子から立ち上がって、わたしが机の間を縫って近づいていくのを見つめてくる。

 真正面から向かいあうと、まほろはくすぐったそうにはにかんだ。わたしも少し肩をすくめる。ブレザーの胸につけた紙の花飾りが、かさりと音を立てた。


「先輩、ご卒業おめでとうございます」

「ありがとう、まほろ」


 三年生の二月は授業がなく、自由登校の期間になっていた。二次試験を二月末に控えていたわたしは、自宅よりも美術室の方が勉強がはかどるため、放課後になる時間を見計らって通っていた。試験を終えてからは家でのんびりしていたので、まほろと会うのは五日ぶりくらいだった。


「先輩、二年間お世話になりました」

「わたしの方こそ、ありがとう。まほろといっしょに部活ができてすごく楽しかった。漫画で賞ももらえて……まほろと出会えてよかった」

「やだ、やめてください。今生の別れみたいじゃないですか」

「そういうつもりじゃないけど……卒業するのが寂しいのは、まほろと別れることだけなんだ、ほんとに」


 まほろの顔には、逆光で濃い影が落ちていた。まつげが蝶の羽ばたきのようにゆっくりと動く。琥珀色の綺麗な瞳にも影がかかり、暗い色に見えた。


「あたしだって、先輩と離れたくないです。あたしが部長なんていまだに自覚できてないし、新入生が入ってきても教えられるほど絵描けないし、不安しかないです」

「大丈夫。大所帯の部活でもないし、部長の仕事なんてぜんぜんないよ。それに、絵なんて教えられるものじゃないし。わたしなんて、自分が部長だったってこと、今思い出したくらいだし」


 冗談混じりにそう言うと、まほろはふふっと吐息をつくように笑みをこぼした。それほどおもしろいことを言った訳でもないのに、まほろは静かに笑いつづけていた。


 その頬に、光の粒が転げ落ちた。


 両方の目から、次々と溢れ出てくる。まほろは頬を拭った手のひらを、不思議そうに眺めている。


「あれ……あたし……」


 まほろは泣いていた。音も立てずに泣いていた。

 教室では不快なほど泣く音が渦巻いていたのに、まほろは吐息すら乱していなかった。ただ泉から水が湧くように、さらさらとまぶたの縁から流れ出てくる。

 涙の伝った跡が頬に残り、かすかに光っている。淡い色のくちびるが少しだけ震えていた。


「ごめんなさい。先輩より先には泣かないって決めてたのに……」

「いいよ、別に。わたし、こういうとき滅多に泣けないからさ、ちょっと申し訳なくなっちゃうんだよね。ほんとに悲しんでても涙はなかなか出なくて。だから、まほろが代わりに泣いてくれてありがとうって感じ」


 まほろは濡れた瞳でわたしを見上げ、息継ぎをするような間を空けたあと、そっと首に腕を回してきた。まほろは身を寄せようと一歩近づいてきたが、ふたりの隙間でかさりと音がしたせいか、動きを止めた。

「卒業おめでとう」と印刷されたリボンがついた花飾りが、わたしとまほろの胸に挟まれてかたちを歪めているのが、見なくてもわかった。

 わたしたちは花飾りに阻まれた分の距離を空けて、不器用に抱きしめあった。


 左の耳たぶにまほろの頬が当たっているのか、しっとりした感触がする。まほろの首すじが纏う柚子のようなシャンプーのかおりは、わたしの鼻腔をかすかにくすぐり、胸を熱くする。


「……離れたくない」


 まほろの声は、少し潤んでいた。ブレザーの肩に顔を押しつけられる。

 そっとまほろの頭に手をのせると、身を震わせて硬直した。髪を撫でると強ばった身体からは力が抜け、か細い嗚咽を漏らしはじめた。あたたかい吐息を吹きかけられる首すじが泡立つような感覚がした。


「もし大学受かってて引っ越すとしても、隣の県だよ。電車で行き来できる距離だから、そんなに遠くならないよ」

「でも、先輩があたしのことを忘れちゃったら……」

「忘れないよ。まほろのことは忘れたくても忘れられないよ」


 まほろはわたしの首に頬を触れさせてから、そっと腕をほどいた。花飾りを胸に押しつけられていた感覚がなくなる。

 まほろは手を後ろで組むと、ほんのりほほえんだ。もう新しい涙は流れてこなかった。


「ごめんなさい。あたし、ちょっと考えすぎてたみたいです。そうですよね。東武ワールドスクウェアにだって日帰りで行けたんですもん、もっと近いはずですよね」

「ずっと近いよ。……って、合格してるかもまだわかんないのに、気が早いかな」

「先輩は合格してます。絶対受かってる」


 まほろは何故か、わたしよりも自信があるように断言した。それから「あっ」と声を上げて手を叩いた。


「先輩、あたしも合格発表について行っていいですか?」

「え? わたしの?」

「他にだれがいるんですか」


 まほろは目をすがめて口を尖らせた。


「合格発表、いつでしたっけ?」

「十日だけど……」

「てことは……土曜日ですね。よかった。平日だったらさすがに行けないですもんね」


 まほろはすでに同行する気満々だ。わたしは少し焦った。

 自分で言うのも何だけど、たぶん合格しているとは思う。安全圏の大学を受けたから。

 だけど、万が一というものがある。もし落ちていたら、帰りの電車がどんな気まずい空気になるか……まほろとの関係がそれっきりになる恐れすらあるのではないだろうか。そんな危険を犯すわけにはいかない。


「合格発表はひとりで行くよ。まほろ、年度末のテストもあるでしょ? わたしのことはいいから、勉強して」

「ええー。先輩の合格をこの目で見届けて、テストのモチベーションを上げたいと思ったんですけど。それに……」


 まほろは言葉を切り、次の声を出すために息を吸ったが、くちびるを噛んで黙りこんでしまった。スカートのひだを摘んで、その指先を拭くように動かしている。

「それ、に」と繰り返した声は、少しかすれていた。


「先輩とお別れする前に……もう一日だけ、先輩のことひとりじめしたい……」


 まほろはブレザーのいちばん上のボタンをいじりながら、あごを引いて見上げてきた。わたしはたじろぎ、一歩後ろに下がる。まほろと目をあわせられなくなる。


「合格発表、先輩といっしょにいちばんに喜ぶの……、あたしじゃダメですか……?」


 まほろは吐息のようなか細い声でささやいた。熱を帯びた瞳で見つめられては、それ以上突っぱねることはできない。

 不承不承うなずくと、まほろは「やったあ」とスカートを揺らしながら飛び跳ねた。


 太陽は山際まで迫ってきていた。熟れたほおずきのようなどろっとした橙色の夕日。美術室は静かな水面のように、ぼんやりと夕焼けの色に染まっている。

 わたしは窓に近づき、目を細めて夕焼けを眺めた。この場所から太陽を山の向こうへ見送るのは最後になるだろう。いつのまにかまほろは隣に立っていて、同じ景色を見ていた。


「先輩、もう学校には……来ないですよね」

「合格発表の結果は知らせに来ないといけないから、最低一回は来るよ」

「じゃあ……美術室には?」

「さすがに卒業生が入り浸ってたらまずいでしょ」


 まほろは「ですよね」とかすれ声でつぶやき、熱心に夕日を瞳に浴びている。

 じっと見つめていると、太陽は本当に動いていたのだと実感できるくらい、意外と速く沈んでいく。実際に動いているのはわたしたちの方なのに、そうとは感じられない。がんばって意識を矯正しようと試みても、やはり動いているのは太陽の方。自転を感じようだなんて無理がある。


 わたしは飽きて、まほろの横顔に目を移した。まほろはまぶたを閉じて涙袋の上にまつげの影を作っていた。頬にもくちびるにもオレンジ色のチークや リップを塗ったかのように色がついている。耳のおうとつを際立たせるように、濃い影がいろんなカーブを描いていた。

 まほろはやがてまぶたを開き、ぼんやりとわたしを振り返った。胸もとの花飾りを見て、力なくほほえむ。


「やっぱり、時間は巻き戻らないですよね」


 二年前……出会ったばかりのまほろを思い出す。いや、思い出そうとしてもうまくいかなかった。

 わたしは人とコミュニケーションを取るのが苦手だし、だれかと親しい仲になりたいと思ってもいなかった。美術部も一年生のころからほとんどひとりで活動してきたのだ。今さら部員が増えても仲良くしたいとは思わなかった。


 わたしからではなく、まほろの方から距離を縮めてきたのだ。まほろは飽きもせず、わたしが絵を描くところを眺めていた。そこから、わたしとまほろはお互いの領地を現す見えない輪を、少しずつ交わらせていった。今や、それはほとんど重なっている。


「巻き戻らなくていいよ。これが永遠の別れじゃないんだから。わたしはまほろとずっと友だちでいる気あるし、あとは……まほろ次第なんだけど」


 わたしは、二年前には想像もしなかった……きっと、漫画のセリフだとしても思いつかなかったであろう言葉を口にした。

 こんなにわたしを変えたのは、他ならぬまほろだ。


 丸くなったまほろの目が、ゆっくりと細くなっていく。まぶたに押しやられたのか、目じりにはほんのちょっと、涙がにじんでいた。


「あたしだって……その気でいましたよ」


 わたしたちは、夕日が沈み切る前に美術室をあとにした。いつものように並んで学校を出て、分かれ道で手を振りあって別れた。

 わたしは振り返ることはせず、つけっぱなしだった花飾りを取りながら歩いた。


 その日が、まほろと会う最後の日になるとも知らずに。

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