第28話
漫画を完成させた日から三日が経った、土曜日の朝。
わたしとまほろは、電車に乗って地元へと向かった。早朝の下り列車は人がまばらだった。わたしは車内のわずかな視線からも逃れるようにして、ボックス席のひとつに収まった。まほろは向かい側ではなく、となりに腰かけている。もちろん、わたし以外には見えないが。
こっちに戻ってくるのは日曜の夕方の予定だ。一泊二日の帰省になるとは、実家に伝えてある。ゴールデンウィークにも短くはあったが帰省したし、六月末といえば夏休み直前だ。
まめに帰っていることについて、家族は大げさに喜んだり心配したりはしない。まほろのことを知っているからだろう。むしろ、必要以上に干渉せずそっとしておいてくれる。
荷物は少なかった。まほろのご両親への手土産と、着替えがひと揃い。
それから、うさぎのぬいぐるみ。
病院に持っていってほしいという、まほろたっての願いだった。
まほろを病院に連れていくだけなら、日帰りでいいだろうと思っていた。しかし、まほろが一日病室に泊まりたいと言い出したのだ。だから、一泊二日ということになった。
しかし、まほろの目的はよくわからない。そもそも、まほろはいつこの世界から、その半透明の姿さえ消さなければならないのだろうか。
昨夜はなかなか寝つけず、今朝は早く目が覚めてしまったからろくに寝ていないはずなのに、電車の心地よい揺れに目を閉じることもできない。まほろから目を離すのが怖かった。
朝、まほろが同じベッドで、わたしの腕の中で眠っているのを見た瞬間、安堵で泣きそうになった。心なしかからだの透明度が増したようにも見えたが、考えすぎだということにした。
わたしの焦りや恐怖など露知らず、まほろはいつも通りのんきな表情を浮かべ、車窓を眺めている。ときどき話しかけてくるので、わたしはケータイのメモ帳機能を使って返事をする。
いくら人が少ないとはいえ、何もない空間に話しかけるところを見られるかもしれないし、ケータイでのカモフラージュも電車内のマナー違反に見えてしまうので使えない。
少々手間だが、わたしはトークアプリを通して会話するように、ちまちまと文字を打って言葉をやりとりするのだった。
「先輩、病院に行く前に、学校に寄ってもらっていいですか?」
『何か用があるの?』
文字を打ちこむと、まほろは画面をのぞきこんでうなずいた。
「美術室のロッカーに、まほろカフェの道具が置きっぱなしなんですよ。鍵かけてるからそうそう見つからないはずですけど……念のため、回収しておきたいなぁと」
まほろの言葉が心に引っかかる。まほろはまだ在学しているのだから、私物くらい……とは、学業にも部活にも無関係なものだから胸を張って言えることではないが、そのままにしておいたっていいのではないか。
それを回収してほしいだなんて、そんなのまるで……。
この世からいなくなる準備のようではないか。
『まだ置いといたっていいじゃん』
「でも、先輩がいなかったらまほろカフェは開きませんから。で、そのまほろカフェの道具は先輩に引き取ってもらいたいんです。だって、先生に見つかって親に届けられたら困るじゃないですか。学校に何しに行ってたんだって話になっちゃいます。あ、もちろん、先輩がいらないと言うなら、無理強いはしませんけど……迷惑じゃないですか?」
キーボードの上で指をさまよわせるが、結局適切な言葉が見つからないので、仕方なくうなずいた。
まほろはあげる方なのに「ありがとうございます」と言った。
『ねえ、まほろ』
入力した文字をぜんぶ消して、真っ白になった画面にゆっくりと文字を打っていく。
まほろは画面から目を離し、わたしの顔を見て首をかしげた。わたしの指が動きはじめると、まほろはまた手もとに注目した。
『明日は何時に迎えに行けばいい?』
今度はわたしの顔ではなく、通路を挟んで反対側の車窓に視線を流した。ゆっくりと瞬きをしている。
閉じたまぶたには二重の重なりはなく、しわだけがうっすらとついている。まぶたが開くと、りんごが重力に引っ張られて地面に落ちるのと同じくらい当たり前に、綺麗に折りこまれる。そんな当然の現象に、どうしようもなく見入ってしまう。
『明日も会えるんだよね?』
すがりつくように入力した文字を、まほろは見ていない。入力したことに気づいていない。画面を突きつけるのも躊躇われるような横顔だった。
わたしは急に電車を降りたくなった。あのアパートに帰りたかった。ひとり暮らしのアパートじゃない。まほろとふたりで暮らす、ふたりだけの小さな世界。時機を逃せば、その世界が壊れてしまうような気がした。
まほろはようやく顔をこちらに向けた。ケータイの画面をちらりと見ると、髪の毛で目もとを隠した。
「それは、明日にならないとわかんないです。もしかしたら早い時間になるかもしれないし……昼過ぎになるかもしれないし」
電車の揺れの影響を受けないまほろのからだは、隣に座っていながら遠い別世界にいるかのようだった。
明日も会えるんだよね?
まほろはその問いには答えなかった。答えなかったことが、答えだったのかもしれない。
それからは無言のまま二度乗り換えをし、十時半ごろに地元の駅へと到着した。切符を一枚だけ通し、まほろと連れ立って改札を出る。
改札前を、中高生と見える私服姿のグループが行き交っている。二階まで吹き抜けになった壁はガラス張りで、リノリウムの白い床も相まって、駅構内は外と変わりないくらい明るかった。
雨が降る前の湿ったアスファルトのようなにおいと、改札前の石鹸屋から漏れ出てくる人工的な甘いかおり。新幹線の案内放送が反響し、ほどなくして三階の新幹線ホームを通り過ぎる列車の振動と轟音が駅全体を揺さぶる。
一瞬、突風に吹かれたように目を細めて肩をすくめたまほろは、ゆっくりと首を伸ばすと相好を崩した。
「ただいま」
ぽつりとつぶやくまほろに応えられるのは、わたししかいない。
「おかえり、まほろ」
まほろはわたしの目を見上げて歯を見せて笑うと、もう一度「ただいま」と言った。今度は大きな声だった。もしその声が空気を震わせることができたら、駅にいるすべての人が振り返っただろう。
生き生きとしたざわめきにからだを薄められないよう、精いっぱいの抵抗をするかのように見えた。
土曜日だったが、部活動に励む生徒たちで学校は活気にあふれていた。
グラウンドにはランニングのかけ声や熱のこもった叱咤激励が飛び交い、敷地内のどこからか吹奏楽部が練習する不揃いな音色が聞こえてくる。卒業から四ヶ月も経っていないのに、もう懐かしく感じられた。
正門から入り、三階にある美術室を見上げる。ここから見えるのは廊下の窓だけだ。その窓に人影は見当たらない。
第二校舎最上階の北端という辺鄙な場所にあるから、パート練習のためにスペースを探してさまよい歩く吹奏楽部員ですら寄りつかないのだ。
わたしは昇降口ではなく正面玄関へと向かい、入ってすぐの事務室をのぞいた。私服姿のわたしに、訝しむ気持ちを押し隠したような表情で、女性の事務員が近寄ってくる。
昨年度の卒業生であること、部室に忘れものをしたことを話すと、彼女は納得したようにうなずいた。来客用のネームカードを渡され、帰るときも事務室に顔を出すように言われた。カードを首に提げ、よく滑るスリッパで階段を上り、三階へと向かった。
美術室には、やはりだれもいなかった。戸を開けた瞬間、止まっていた空気が動き出し、ほこりが舞い上がった。
今は授業でしか使われていないのだろう。教室の後ろにある美術部員用のロッカーは、使われていない証拠に、一ヶ所を除いて鍵がささったままになっている。
「そういえば、鍵は?」
だれもいないことを一応確認してから、まほろに話しかける。まほろはすすすっと机のあいだを通り抜けると、ロッカーの上に置いてある花瓶を指さした。季節感のない造花が年中差してある、ほこりのかぶった無骨な花瓶だ。
わたしはそれを持ち上げ、まほろのジェスチャーにならって造花を抜き取り、花瓶をさかさまにした。飾り気のない鍵が転がり出てきた。
「何でこんなところに」
「あたし、こういう小さいものって、ポケットに入れたり鞄に入れたり、決まったところにしまえなくてすぐ見えなくなっちゃうんですよね。だから、自分で持っているより安全かなーと。先輩、気づいてなかったんですか?」
「だって、まほろがロッカーの鍵を開けるとこなんていちいち見てなかったし」
鍵を手に取り、まほろのロッカーの鍵穴に差しこむ。引っかかることなく奥まで届いた。鍵を回して、扉を引く。
中には使いこまれた小さなケトルと、紅茶や緑茶のティーバッグ、インスタントコーヒーなどが詰めこまれていた。いつも使っていたカップが、ふたつ並べて伏せられている。
「先輩。これ、お部屋で使ってください。ティーバッグとかコーヒーとかも。あたしの代わりに使ってください」
わたしはロッカーの中のものを、ぬいぐるみを入れてきた紙袋に移していく。ぬいぐるみは机に座って、わたしの作業を眺めているみたいだ。
まほろは今日のために、ぬいぐるみに施した改造をもとに戻していた。綿を寄せて縫いつけた関節や、ペンを持つために空けた穴は、もと通りとまではいかないけど、プレゼントという口実で病室に置いてくるのに問題ないくらいには仕上がっている。まほろが作った白いワンピースを着せているおかげでごまかせているとも言えた。
まほろカフェの道具を詰め終わり、ロッカーを閉める。鍵はかけた方がいいのだろうか。
「鍵はさしておいていいですよ。たぶん、この前と違うなんて、だれも気づかないです」
幸い、紙袋がぬいぐるみに対して大きすぎたくらいだったので、荷物が増えてもさほど問題はなかった。ケトルの上に、そっとうさぎを横たえる。ワンピースの裾を直してから、ふと自分のスカートに目を落とす。まほろがリメイクしてくれた、パッチワークのスカートだ。
ワンピースだったときは一度も袖を通すことがなかったのに、作り替えてもらってからは、週に二回は身につけている。これを着る度、まほろが嬉しそうに目を細めるから、できるだけたくさん着たくなるのだ。
「先輩、片づけてもらってありがとうございました。それ、大事にしてくださいね」
まほろはにっこりと笑うと、美術室から出ていった。わたしも急いで後を追う。まほろは振り返ることなく、廊下を進んでいく。
まほろがいなくなる準備をひとつ終えてしまった。
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