第29話
事務室でネームカードを返し、靴に履き替えて外に出る。わたしは玄関の前で振り返って校舎を見上げたくなったけど、まほろがどんどん先へ進んでしまうのでそんな暇はなかった。紙袋に足をぶつけながら、まほろの隣に並ぶ。
「これからまっすぐ病院に行きましょう」
「そしたら……駅前の大通り辺りからバスに乗ろうか」
まほろはうなずき、正門前の交差点で立ち止まった。歩道の信号は赤だ。
わたしはまほろのからだを避けて、押しボタンを押した。車道側の信号はすぐに反応し、黄色、赤と変わり、車は停止線で止まった。
歩行者信号が青に変わった瞬間、わたしは歩き出そうとしたが、足を踏み出したところで動きを止めた。まほろが立ちすくんで歩き出そうとしないからだ。まほろの視線を辿って見ると、ひとりの女子生徒がこちら側に渡ってくるところだった。
紺色のジャージ姿で、肩にはバットのケースをかけている。健康的に焼けた肌に、涼しげなショートカット。勝気な瞳と引き結んだくちびるには、見覚えがあった。
彼女は、信号が青にも関わらず渡りもしないわたしに怪訝そうな視線を向け、それからはっと目を見開いた。横断歩道のまんなかで、一瞬足が止まる。
わたしはまほろをちらりと見た。去年の春先、クラス発表のときと同じように、目を伏せて少し震えている。
わたしはふたりの壁になるように背筋を伸ばして立ち、女子生徒に視線を据えた。勝手に「同級生A」と名づけたことを思い出す。
同級生Aは横断歩道を渡りきったところで足を止め、口もとをもぞもぞと動かしながら向きあってきた。青信号が点滅し、やがて赤に変わる。信号待ちをしていた車が走り出したころ、相手が先に口を開いた。
「あいつの……茜谷まほろの先輩、ですよね」
それは質問というよりは確認する口調だった。わたしは「はい」と返事をした。
「学校に用があったんですか?」
「ちょっと……忘れものをしてしまったから」
彼女はバットケースの肩ひもをいじり、ああ、としてもしなくてもいいような返事をする。話したいことはぼんやりとしたかたちで心の中にあるのに、ちょうどいい言葉が見つからないのだろう。ひとりで顔をしかめ、奥歯を噛み締めている。
わたしは彼女をまっすぐ見つめ、荷物を持っていない手を背後に伸ばした。少し間があってから、あたたかい空気に包まれる。まほろは「ごめんなさい」とささやいた。
わたしはまほろの存在を感じながら、彼女に向かって口を開いた。
「まほろのこと、知ってますよね」
同級生Aはびくりと肩を震わせ、枯れかけたヒマワリのようにうなだれた。気の強そうなつり目が、涙であふれそうになっているのを見て、彼女への警戒心を少しだけゆるめた。クラス発表のときに見せた軽蔑するような笑みからは想像もつかない表情だった。
「先輩は……お見舞い行ってるんですか」
「県外に引っ越したから、頻繁にとはいかないですけど。今日もこれから行くところです」
「あいつは……、大丈夫……なんですか」
彼女は顔を上げ、鋭い視線を突きつけてくる。わたしはすぐに言葉を返すことができず、うつむいた。そのとき、背中にあたたかいものが触れた。まほろの手が添えられているのが目に浮かぶ。
あんた、まだなおってなかったんだ。
彼女がまほろに吐きかけた言葉が、記憶の底から浮かび上がってくる。
中学のときからの同級生というふたりのあいだに何があったのかはわからない。ただ、今の彼女の苦しげな表情には、嘲笑したことを後悔する気持ちもにじみ出ているように感じた。わたしの考えすぎだろうか。
「あいつのクラスメイトに訊いても、みんな知らないって言うんです。だれもお見舞いに行ってないとかって……先生も回復を待っているところだってしか言わないし……」
「大丈夫……って、軽々しく言える状態ではないってことは言えます。でも、わたしの言葉では、あなたにまほろの本当の状態を伝えられない。だから……いっしょに行きますか? これから、まほろに会いに」
えっ、と背後で驚きの声が上がる。まほろが不安げな表情で、わたしの肩越しに顔をうかがってきた。反応を見せられないわたしは、懸命に表情を取り繕う。
同級生の彼女も、まほろと同様に戸惑っていた。わたしの発言の裏に何かあると疑っているのだろうか。あごを引き、改めてわたしを見定めるように頭からつま先まで無遠慮に眺め回した。
「わたしはあなたがどんな人か、まほろからは全然聞いてません。ふたりのあいだで起こったできごとも。でも、意地張ってても……いいことはたぶん、そんなにないですから」
「やっぱり、難しい状態ってことなんですか」
「わたしにはよくわかりません。意識は……ないみたいですけど、聞いてくれてると思って話しかけるとまほろの意識にとっていいみたいだから、いつも話しかけてきます。あなたも、言いたいことがあるんじゃないですか?」
彼女はしばらく苦い顔で考えこんで、口を開きかけては閉じる、というのを何度も繰り返した。わたしたちがここで向きあってから、もう三度も横断歩道の信号は青になっている。運動部らしき生徒たちが、大きく避けながら通り過ぎていく。
「私はお見舞いになんて行けません。あわせる顔がないし……。だから、伝えてもらえますか? でも、あの、本当にまほろには伝わるんですかね」
まほろがはっと口もとを手で覆った。わたしも気づいていた。「あいつ」でも「茜谷」でもなく、彼女が「まほろ」と呼んだことに。きっと、昔はそう呼んでいたのだろう。
「今までごめんって、伝えてください。何のことかは……まほろにはわかるはずなので、それだけ、伝えてください」
横目で見ると、まほろは複雑な表情で彼女を見つめていた。ワンピースの胸もとを握りしめ、溢れそうなものをこらえているみたいだ。
彼女はわたしに伝言を託すと、表情を少し和らげた。相当な重荷を、つぶされそうになりながら背負っていたのだろう。
しかし、完全に許されたとか、忘れてしまおうとか考えている表情ではなかった。きっとまほろには許してもらえない、それでも悔やみつづけなければならない……そんな覚悟のうかがえる瞳だった。
「すみませんでした。呼び止めてしまって。失礼します」
彼女はていねいにお辞儀をして、足早に校門をくぐった。わたしは適切な別れのあいさつが思い浮かばず、浅く会釈をして背中が見えなくなるまで見送った。
信号に向き直って、また押しボタンに手を伸ばす。赤になったばかりだったのか、すぐには信号は変わらない。
「先輩……あたし、迷惑かけてばかりですね……すみません」
まほろはたどたどしく謝罪の言葉を口にした。彼女との再会にいちばん驚き、いちばん戸惑っていたのはまほろだ。まだ緊張が解けないのか、まほろは頬をこわばらせ視線を泳がせている。
「別に、迷惑じゃないよ。それより、わたしの方こそ、余計なこと言ってなかったかな」
「大丈夫です。むしろ……ありがとうございました」
信号が青になる。わたしたちは街路樹の日影から、横断歩道の日向へと歩き出す。
「あたしも……ごめんねって言いたかったな」
まほろは後ろを振り返りながら、ひとりごとのようにささやいた。クラス発表のとき、彼女が一方的にまほろを毛嫌いし、まほろは歯向かうことなく完全に怯えきっていたので、そりがあわないふたりなのかなと思っていた。だけど、まほろからも謝りたいというのであれば、やはり原因がお互いにある喧嘩だったのか。
わたしは訊ねてみたい気もしたが、あまり部外者が深入りすべきではないと自制した。
しかし、知りたい気持ちも、それを抑えていることも、まほろにはバレてしまったらしい。まほろは「まあ、何て言うか」と顔を背けながら口にした。
「あたしはちょっと人と違うところがあって、彼女はそれが気に食わなくて……ううん、気持ち悪かったんだと思います。そう思っちゃうのは仕方ないんですけどね。さっき謝ってくれたのも、理解した訳じゃなくて、嫌悪することも嫌になったから関係を真っ白にするため、って感じかなって思います」
「それじゃあ、まほろが謝る必要ないじゃん」
「いえ、あたしが普通を知りもせず、人と違うところを見せたのが、いちばんいけなかったんです」
クラスメイトがひとりもまほろのお見舞いに訪れていないという話が、心に突き刺さっていた。まほろはだれにも心を開かずに過ごしてきたのかもしれない。わたしにもきっと、開いていない部分がある。
唯一、秘密の場所を見せた人に拒絶され、軽蔑されつづけてきたのだ。まほろは脳天気な笑顔の裏で、いつも捕食される側の草食動物のようにびくびくしていたのだろう。
普通じゃないところをおくびにも出さず、感じ取られるような行動も巧みに避け、ずっと綱渡りをしているような日々だったのかもしれない。
わたしはまほろと踏み出す足の左右をあわせて、歩幅もあわせて、ぴったりと横に並んだ。
「わたしは、まほろのことならぜんぶ受け入れるよ」
何に張りあいたいのかもわからないまま、わたしは強い口調で言った。特別な覚悟を決めたわけじゃなく、ただ、まほろの味方だと伝えたかった。
まほろは足もとに目を落としたようだった。つられてわたしも顔を下に向ける。影を引き連れるわたしの足と、地面を踏むこともできないまほろの足。
わたしは一定のリズムで歩いているのに、ふたりの歩調は少しずつズレていき、右も左もバラバラになっていく。まほろは眉を下げ、彼女にしか見えない底なし沼を眺めるような笑みを浮かべた。そんな表情を見せたのは一瞬だった。頭を振って薄暗いほほえみを払い除けると、わざとらしく下手なスキップをして見せる。
「先輩には、もう十分受け入れてもらってます」
まほろはそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
バス停がどこまでも遠ざかっていけばいいなと思った。バス停についても、いつまでもバスが来なければいいと思った。世界が動きを止めるなら、今この瞬間がいいと願った。
頭のどこかでカウントダウンがはじまっていた。
本当の別れのことなど、考えたくもないのに。
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