第23話

 六月に入り、じめじめとした季節がやってきた。

 盆地である地元の夏は、湿度の高いサウナのような暑さだったが、ここの夏はどうなのだろう。

 市街地だから、空気を冷却してくれそうな緑がほとんどないのが心配だ。とはいえ、田んぼだらけの地元に吹く風も、絡みつくような生ぬるさだった。


 原稿は四十一ページのうち、三分の一ほどが仕上がっていた。その他の三分の一も、ペン入れは進んでいる。

 受験勉強のためペンを置いた去年の夏休み明けから半年以上経っているのに、身体は忘れていないらしい。ペンを握ると、気持ちいいくらい思い通りに腕が動く。

 まほろとの連携も、高校のころと遜色ない。受験勉強で繰り返し頭に叩きこんだ三角関数の方が、記憶の遥か彼方に追いやられている。


 しかし、わたしの本職は大学生。六月の中ごろに、はじめての試験が迫っている。わたしは勉強にそれほど不安を持ってはいないのだが、まほろが黙っていない。


「漫画を描きたいって言って、先輩をその気にさせたのはあたしです。先輩が単位を落としたり、留年したりなんてことになったら、先輩の親御さんに顔向けできません」


 まほろはそう言って譲らなかった。わたしが原稿に向かおうとすると、止めにかかるのだ。


「気分転換だよ。息抜きくらいしてもいいでしょ」

「まあ、先輩がそう言うならあたしには止められないですけど……」


 まほろを言いくるめて一コマだけペン入れをする。終わったら勉強に戻り、一時間テキストと格闘したら、またペンをとる。一ページを二日ほどかけて線画を完成させる、という作業スピードだった。

 その間、まほろはペン入れ済みの原稿に取りかかる。消しゴムかけ、ベタ塗り、簡単なトーン貼り。ゆっくりとだけど、まほろの作業がわたしの進捗具合に追いつきつつあった。


 わたしは勉強の合間に、コーヒーを飲みながらまほろの作業を眺めていた。クッションや布団を重ねて、こたつとほとんど同じ高さにした座椅子に腰かけたうさぎのぬいぐるみが、ペンを握って器用に髪の毛を黒く塗っていく。

 そのペンをカッターナイフに持ち替えても、まほろの作業はスムーズだ。さすがにまほろ本人の身体よりスピードは落ちるが、完成度については劣ることがなかった。いつ見ても感動してしまう。


「どうかしましたか、先輩」


 まほろは原稿を見つめたまま訊ねてきた。意外と視線は感じ取られてしまうものだ。

 ばつが悪くなり、中身が半分くらいになったマグカップに視線をそらす。気まずいついでにコーヒーをひと口飲み、口の中を苦みで満たした。


 わたしは床に置いてある鞄を引き寄せ、中から封筒を取り出した。銀行の名前が印刷されたものだ。

 まほろはただならぬ雰囲気を察知したのか、おもむろにペンを置いた。ふたりの間に現れたことのない類の封筒に、たじろぐような間があった。


「何ですか、それ」


 封筒を開き、中身を抜き出す。張りついたまっすぐな一万円札を、トランプのマジックをはじめるかのように一枚ずつずらしていく。ぜんぶで五枚。まほろは少し身を引いている。


「今日銀行行ってきたら、振り込まれてた。新人賞の佳作の賞金」

「あ、あのときの!」

「引っ越しとか進学とか、いろいろバタバタしててすっかり忘れてたけど、振り込まれてたのは先月だった」


 十代にとって、五万円は大金だ。まほろがぼーっとしてしまうのもわかる。

 しかも、これはわたしたちが描いた漫画で得たお金だ。わたしはまだその実感を得られていない。実物を手にしているというのに。

 まほろも今は喜びというよりは、驚きの方に感情が偏っているみたいだ。


「それ、先輩の漫画で、もらったんですよね」

「わたしの漫画じゃない。わたしとまほろの漫画だよ」

「すごい……すごい! あたしたち、ほんとに賞もらったんですね」


 まほろはするりとぬいぐるみを脱ぎ捨て、わたしの首に飛びついてきた。まほろのぬくもりを受け止める。わたしたちのからだは、半分以上が重なりあっていた。


「先輩、このお金、どうするんですか? 新しい画材? 美味しいものを食べに行くのもいいですね。それとも、ご褒美にちょっといいお洋服でも買いますか?」


 からだを離したまほろは、上気した頬でわたしを見つめてきた。

 わたしたちの高校は、アルバイトが禁止だった。自分の力でお金を稼いだという経験がはじめてだから、まほろはわかりやすくはしゃいでいた。それを見ていたら、ようやくわたしの心にも実感がわいてきた。


「それじゃあまほろが楽しめないでしょ。この賞金は、わたしとまほろのもの。半々で使わないと」

「でも……あたしは美味しいものも綺麗な服もいらないし、もうすぐいなくなるのに、先輩の部屋にものを増やす訳にもいかないし……。そもそもあたしはアシスタントだし、あたしの分も先輩が使ってくれたらそれでいいです」


 まほろは遠慮しているのではなく、本当に欲望がないようだった。それは意識だけのからだになったせいではない。まほろはきっと、今とは違う未来だったとしても、同じように賞金を山分けするのは固辞しただろう。まほろはそういう子なのだ。


「いつまでも『アシスタントだから』って言わないでよ。まほろはわたしにとって、わたしの漫画にとって、いなくちゃいけない相棒だよ。それに、ペンネームをつけたときに決めたでしょ。ふたりで若狭あかねだって」


 まほろはまだ戸惑った顔をしている。わたしは思い切って、話を切り出した。


「わたしね、まほろといっしょに行きたい場所があるの」

「あたしといっしょに……?」

「取材旅行。前にも行ったでしょ」


 まほろははっと息を飲み、胸をふくらませた。


「先輩、また行きたいって話したの、覚えててくれたんですか?」

「うん。ほんとは去年の夏休みにでも誘いたかったんだけど……今さらでごめん」

「……ほんとですよ。先輩は受験生だし、それなのに漫画と絵に没頭してて……その上旅行に連れ出す訳にもいかないと思って、あたしからは誘えなかったんですよ」


 まほろはわざとらしくくちびるを尖らせて、文句を言った。


「そのときはさ、今じゃなくてもまだまだチャンスはあるって……いつでも行けるって思ってたから……」


 まほろは突き出していたくちびるを横に薄く引き伸ばした。そして、最初から決めていたかのような自然な動きで、まほろはくちびるを横に薄く引き伸ばした。まつげで瞳が見えなくなるほど、目を細くしている。


「それで、先輩。あたしをどこに連れて行ってくれるんですか?」


 わたしの立てたひざに頬づえをついて、まほろが顔をのぞきこんでくる。その無邪気な仕草にわたしの頬もゆるんだ。


「まほろに見せたい……ううん。まほろといっしょに見たい景色があるんだ。わたしもまだ見たことがない景色」

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