第22話
五月十七日は、わたしにとって何でもない日だった。
まほろと出会ってから……いや、まほろと仲良くなってから、その日は特別な日になった。
わたしは講義が終わるとすぐ大学を出た。アパートにつづく細道を無視し、アーケード商店街を早足で歩き、PARCOへと向かった。学校帰りの高校生や大学生が、飽きもせずコーヒーショップでひしめきあっている。北極のペンギンのようだ。
わたしはエスカレーターへと足を進め、五階を目指した。まほろといっしょにぬいぐるみを探しに来た雑貨屋だ。
そこでの用を済ませ、意外と大きくなった荷物を手に、アパートへと逆戻りする。
途中でもうひとつ大事なものを思い出し、商店街を少し外れたところにある洋菓子店に立ち寄った。入ったことはないが、通る度に気になっていた店だった。
蔦の絡んだ店舗はレンガ造りで、看板を電飾で光らせていた。見るからに洋菓子店で、実際にそれは当たっていたのだが、ケーキ屋ではなくシュークリーム屋だった。
小さなホールケーキでも買うつもりでいたから戸惑ったが、店員と向きあったからには黙って帰ることもできず、プリンののったシュークリームと、白鳥を模したシュークリームを買った。ケーキに見劣りしない見た目だから、まほろはきっと喜ぶだろう。
雑貨屋でラッピングを施してもらったプレゼントを、紙袋の上からのぞきこむ。ピンク色の袋に、白のリボンが結ばれている。まほろが好きそうな組みあわせを選んだつもりだ。
まほろがどんな顔をするか楽しみで、アパートに着くまで頬がずっとゆるみっぱなしだった。
シュークリームの箱を揺らさないように階段をのぼり、ドアを開ける。電気のついた部屋が、磨りガラス越しにぼんやりと見える。
ひとり暮らしは暗い部屋に帰らないといけないのが辛いとよく聞くが、わたしはまほろのおかげでまだ一度も実感したことがない。
シュークリームは取りあえず袋のまま冷蔵庫にしまい、プレゼントを紙袋から取り出す。
まほろはいつものように、こたつで漫画の作業をしているだろう。まほろの手を止めさせ、何事かと考える隙を与えず、すぐにピンクのラッピングを差し出す。きっとびっくりするに違いない。そして、中身を見てもっと驚くだろう。
プレゼントを後ろ手に、戸を開けた。まほろはこたつにはおらず、ベッドの上にうさぎのぬいぐるみを脱ぎ捨ててうつ伏せで寝ていた。枕に顔を押しつけるような体勢だ。
柔らかそうな素材のワンピースが、背中から腰にかけての滑らかな曲線を露わにしていた。
起こそうとして声を出しかけたが、途中で口を閉じた。こんな状況は二度とない。手渡しよりもサンタクロース方式の方が、よりサプライズ感があるだろう。
足音を立てないようにベッドに近づき、枕もとにプレゼントを置いた。カサカサの袋が意外と大きな音を立てるので、慎重に手を離す。
廊下からこっそりまほろの反応をのぞこうかと思い、踵を返したときだった。
まほろがもぞもぞと動きはじめた。ワンピースが一瞬ごとにしわのかたちを変える。わたしは今さら逃げも隠れもできず、まほろが起き上がるのをただ眺めることしかできない。
ベッドにぺたんと座ったまほろは、わたしがうしろに立っていることに気づいていないのか「ふわあ」と大きなあくびをした。目をこすり、乱れた髪を整える。
しかし、眠気はまだ覚めないのか上半身はゆらゆら揺れ動いている。ついに前にくたっと倒れむと、また枕に顔を埋めた。柔軟体操みたいな格好でぐりぐりと枕に顔をこすりつけたかと思うと、すぐにぴたりと動きを止めた。
ばっと音がしそうなほど勢いよく顔を上げ、枕もとのピンクの袋を見つめている。眠りについたときと、目を開けたあとの辻褄があわないことに気づいたらしい。辺りを見回したまほろと目があい、ちょっと気まずい空気が流れる。
「た、ただいま」
「えっ……えっ? いつのまに? あたし……ええっ!」
まほろは両手で顔を隠し、ベッドから飛び降りた。
「ごめんなさい、勝手にベッド使ってて……あの、どうしても眠たくて」
「別にいいよ。むしろ、眠いときはちゃんと寝てくれた方がいいし。眠たいまま作業しても、効率悪くなるだけだよ」
まほろはか細く「はい……」と返事をし、へなへなと床にへたりこんだ。
夜、いっしょにベッドで寝ることが多くなったのだが、そのときのまほろは堂々としている。わたしはいつまで経っても慣れないのだが……。ひとりで寝ているのを見られる方が恥ずかしいとは、まほろの感覚はよくわからない。
「あのさ、まほろ。そろそろ、それに反応してくれない?」
わたしはすっかり置いてけぼりにされているプレゼントを指さした。まほろはさっき目にしたことも頭から飛んでしまったのか、あらためて驚いた顔をした。立ち上がり、触れられない手でその表面を撫でている。
「これって……普通に考えて、プレゼントですよね」
「そうだよ」
「先輩への?」
「どうしてわたしのなの」
まほろはまったく心当たりがないというように、目を白黒させている。
「今日は何月何日?」
「えっ、今日は……」
まほろは部屋に目を走らせた。カレンダーを探しているのかもしれないが、どこの壁にもない。これじゃ気づかないのも当然か、とゲームでちょっとしたズルをした気分になった。
わたしはプレゼントを手に取り、あらためてまほろに差し出した。
「まほろ、誕生日おめでとう」
まほろの目が大きく見開かれる。口もとを手で覆い、少し震えている。みるみるうちに、目には涙が浮かんできた。まほろは濡れた頬を手のひらでぬぐいながら、わたしを見上げている。
「誕生日なんて……あたし、もう死んだつもりだったから、そんなのすっかり忘れてた……」
「まほろは生きてるよ。誰が何と言おうと……まほろが何と言おうと、まほろは生きてる」
まほろの目と鼻は、すでに真っ赤になっていた。それでも、口もとにはかすかに笑みが浮かんでいる。
「先輩、ありがとうございます。やっぱりあたし、先輩のとこに来てよかった」
「わたしだって、まほろが来てくれてよかったって思ってる。ありがとう、まほろ」
まほろはプレゼントに手を伸ばし、ぬいぐるみを着ていないことに気づいておずおずと指を折った。
うさぎのぬいぐるみを一瞥するもすぐに目をそらし、わたしの目を見上げて小さく首を傾げた。
「先輩、代わりに開けてくれますか?」
「え、まほろに自分で開けてもらいたかったんだけど……」
「だって、うさぎを着てたら、先輩にあたしの顔見えなくなっちゃうから。何となくは伝わってるかもしれないけど……あたしの顔、見てほしいんです」
まほろの願いとあっては、断ることができない。わたしは自分でほどく予定ではなかったリボンに手をかけた。
袋の口を広げると、まほろが上からのぞきこんだ。黒い頭にミントの葉っぱがのっているのが見えたのだろう。まほろの顔には驚きと喜びが入り交じった表情が弾けた。
「ペンナコッタ!」
にわかにソワソワしはじめるまほろ。わたしはぬいぐるみをそっとすくい上げるように袋から取り出した。
以前いっしょに雑貨屋を訪れたとき、まほろが物欲しそうに見つめていたペンギンのぬいぐるみだ。ペンギンとパンナコッタを合体させたキャラクターは、まほろのお気に入りだった。
まほろはペンナコッタの頭に手のひらを置いた。その手に布のふわふわとした感触は伝わらない。
だけど、まほろは全身をやわらかな風で包まれたかのように、ふんわりと笑みをこぼしたのだった。細めた瞳にはキラキラと、無数の光が輝いている。
「まさか今年の誕生日、先輩にお祝いしてもらえるとは思ってなかった。天国から病室を見てたときから……ううん。事故にあわなかったとしても」
「どうしてよ。会ってお祝いはできなくても、メッセージ送るか、電話するかはしてたよ」
「そうですよね。先輩は優しいですもんね」
ペンナコッタを、うさぎのぬいぐるみのとなりに座らせる。自分の部屋にぬいぐるみが二体もあることなど、今までになかった。眺めていると可愛らしく、どうしても頬がゆるんでしまう。
「あ、そうだ。シュークリーム買ってきたんだ。ケーキ屋さんだと思って入ったらシュークリーム屋さんでさ。でも、ケーキと同じくらい豪華だから。まほろも食べるよね?」
わたしはまほろの返事を聞く前に廊下へ出て、冷蔵庫を開けた。ビニール袋ごと箱の取っ手をつまみ、水平に保ったまま取り出す。
部屋に戻ると、まほろは立ち上がり、お腹を抱きしめるようにワンピースの生地を握りしめていた。くちびるを噛み、足の指をもそもそと動かしている。
スイーツの登場を楽しみに待っている顔ではなかった。
「まほろ? どうしたの」
こたつにシュークリームの箱を置き、まほろと向かいあう。まほろはちらちらこっちを見るものの、まともに目をあわせてくれない。
結局、まほろはわたしの左右の手首の辺りで視線を行ったり来たりさせながら、重たそうにくちびるを開いた。
「先輩の誕生日って、三月……でしたよね。三月二十八日」
「覚えててくれたんだ。うん。そうだよ」
今年の誕生日は、引っ越しの準備に奔走していたころだったから、家族からもまともに祝われずに終わってしまった。
誕生日が来て嬉しい歳でもないけど、これからは毎年こんな感じなのかな、と思うと少し寂しくもあった。
「あたし、先輩の誕生日のために、用意してたものがあったんです。先輩はきっと受験に合格してるって信じてたから、合格祝いも兼ねてました。でも、事故にあって渡せないままで……あたしの部屋にあります」
まほろはぎしぎしとぎこちなくベッドに腰かけた。わたしもとなりに座る。指先があたたかいと思ったら、まほろの手のひらに少し重なっていた。
わざわざ手を引っこめるのも変だと思い、気づかないふりをして自分のひざに目を移した。
「あたし、そのプレゼントを渡したかったような、渡せなくてよかったような、よくわかんない気持ちなんです。でも、あたしの意志では、もうそのプレゼントを渡すことも、捨てることもできません。先輩の手に渡るかどうかは、そのうち、両親が見つけてくれたときにかかってます」
「そのうちって……」
「あたしがほんとに死んだとき」
まほろは軽い口調で言った。全身に鳥肌が立ち、息の仕方も忘れたかのように呼吸が止まった。
「そんなこと……言わないでよ」
肺に残っていた空気を絞り出すように、言葉を吐き出した。語尾が震えたのが恥ずかしく、咳ばらいをした。
「だって、いずれはそうなるんです。両親が遺品整理してくれれば、プレゼントは見つかります。交友関係を探って……いや、探るまでもなく、あたしがプレゼントを渡すような相手は先輩しかいないから、たぶん、間違いなく先輩のとこに渡しに行くと思います。もしくは、あたしの部屋はそのままにしよう、となって遺品整理されなかったら、プレゼントは半永久的にあたしの部屋のクローゼットの中。どっちになっても、あたしは受け入れるしかないです」
まほろは自分の死後を、重大な問題ではないように話した。
まほろはすでに、覚悟を決めているのだ。だから、こんなふうにわたしにも話せるのかもしれない。
わたしはまほろの覚悟を折ってしまわないように、そして、まほろの覚悟を少し分けてもらいたい気持ちで、なるべく軽い声音で言った。
「渡したかったような、渡せなくてよかったようなプレゼントって……中身は何なの?」
「エプロンと、あたしが遊びに来たとき用のマグカップと……それと、手紙です」
「手紙? 内容は覚えてないの? せめて手紙の中身だけでも教えてよ」
「ええ、ダメですよ。渡さなくてよかったと思う原因が手紙なんですから」
いくらお願いしても、まほろは口を割らなかった。わたしは諦めて、プレゼントが届くのを待つしかない。もちろん、まほろの手から直接渡されることを願って。
「変な話してごめんなさい。先輩、シュークリーム食べましょう」
まほろに急かされ、小さな箱を開ける。のぞきこんだまほろは、ペンナコッタのときと同じか、それ以上に目を輝かせた。
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