第12話

 ひと騒動……どころじゃなく、十騒動はあったはじめての料理だったが、ようやく完成した。まほろはわたしの手際の悪さにも、手を貸せないことにももどかしそうにしていたが、根気強く教えてくれた。


 完成したのは昼を大幅に過ぎ、夕方にさしかかったころだった。味見が腹の足しになってはいたけど、さすがにおなかが空いた。積極的にごはんを食べたい、と思うのは久しぶりな気がした。


「先輩、できましたね……」


 まほろまでふらふらになっている。気持ちが見た目に影響を与えるのか、頭につけたバンダナが少し曲がっていた。


「うん……。もう遅いのか早いのかわかんないけど……ごはんにしよう」


 実家から持ってきた食器を総動員して、サラダとロールキャベツとシチューを盛りつけた。ロールパンも袋のままというのは味気ないので、皿にふたつのせて食卓に運んだ。

 こんなににぎやかな食卓は、引っ越して以来はじめてだ。


「すごい……これ、わたしが作ったんだ」


 並んだ料理を眺めると、山頂から景色を臨んでいるような気分になった。麓から見上げたときは途方もなく高い山だと思っていたのに、必死になって登っているうちに、いつのまにか頂上に辿り着いていた。無理だと思っていたのに、歩いてきた道のりを振り返ると、意外にきつくなかったと思えてくるのが不思議だった。


「案外完成させられたけど……見た目は微妙だね」


 かぼちゃの皮をむききれなかったせいでサラダのオレンジ色はくすんでいるし、ロールキャベツは崩壊寸前。シチューは一見うまくいっているようだが、実は鍋の底を焦げつかせてしまった。

 味にも自信はないし、こんなに空腹じゃなかったら進んで食べたいとは思えないかもしれない出来だ。


「そんなことないですよ。はじめて作ったんですから、むしろ上出来です」


 まほろに漫画を教えるとき、わたしは褒めて伸ばすタイプなんだと知ったが、まほろも褒め上手みたいだ。ダメだとわかっていても、褒められれば無条件で嬉しくなる。


「とにかく食べましょう。あたたかいうちに」


 まほろにうながされ、わたしはいただきます、と手をあわせた。おずおずとスプーンを手に取り、シチューをすくう。煮崩れたじゃがいもが、ほろっとスプーンからこぼれ落ちた。息をふきかけて冷まし、口に運ぶ。舌に広がる味に、つい背筋が伸びてしまう。


「おいしい……って、ルウを使ってるから当たり前か」

「ルウを使ったからって、百人作って全員同じ味になるわけじゃないですよ。おいしいなら、自分すごい! でいいんです」


 ロールキャベツも見た目のわりにはちゃんと食べられる。かぼちゃサラダも皮のかけらが点在するせいで舌触りが悪いが、それほどひどくはない。

 はじめての料理で食べられるレベルのものを作れたんだから、自分を見直してもいいかなという気分になった。


「まほろはすごいね。これをぱぱっと、もっとおいしく作れちゃうんだ」

「まあ、昔から料理してたので。あたしの家、共働きで……母も仕事で大変だから、あたしができることはやらなきゃって使命感があって」

「えらいんだね、まほろは」


 そう言うと、まほろは目を丸くして言葉を失った。それから、コップから水があふれるように、顔じゅうに笑みが広がっていく。


「最初のころはお母さんもお父さんもありがとうって言ってくれてたのに、いつのまにかあたしが家事をするのは当たり前になってて……もちろん、感謝されたいから手伝っていたわけじゃないですよ。でも、何か寂しくて……あたし、褒めてもらいたかったのかもしれない。すごいね、おいしいねって」


 まほろは体育座りをして、ひざに口もとをうずめるようにして言葉を紡いだ。

 わたしの手が止まっていることに気づいたのか、まほろは慌てて正座をし、明るい声を出した。


「や、そんな深刻な悩みではないですよ。両親の代わりに、先輩がいっぱい褒めてくれたから。はじめてトーン貼ったときも、背景のペン入れしたときも、いい感じだよって言ってくれたじゃないですか。今思い出してみると、ダメダメだったんですけど……でも、嬉しかったんです」


 まほろは顔を伏せ、あー、と言って頭を抱えた。髪のあいだからのぞく耳がほんのり色づいている。


「ごめんなさい、何か変な話しちゃった……。ほんとに、褒められたいだけでアシスタントをしてたわけじゃないんです」

「まほろはがんばり屋さんなんだね。向上心もあるし、上達も早いし、場の雰囲気を和ませてくれるし」

「褒め言葉の安売りはやめてください!」


 まほろは顔を手で扇ぎながらふうっと息を吐いた。頬の赤みは少し薄らいでいる。わたしが食べているのをちらりと見て、目を細めた。


「あたしも先輩が作ったごはん、食べたかったなぁ。あと、先輩にあたしのごはん食べてもらいたかった」


 わたしはスプーンですくいとったかぼちゃサラダを見つめた。

 まほろの得意料理だったかぼちゃサラダ。きっと、わたしが作ったものの何倍もおいしいはずだ。


「まほろ、食べてみて」

「え? 食べたくてもたべられないですよ」

「やってみないとわかんないよ。味覚は舌で感じるものだけど、意識でも感じるものなんじゃないかと思って……」

「まあ、たしかに……じゃあ、食べさせてもらっていいですか?」


 わたしはスプーンを差し出そうとし、自分が使っていたものだと思い出した。新しいものを持ってこようと立ち上がろうとしたら、まほろに引き止められた。


「そのスプーンでいいです。使いかけとか気にしませんから」

「で、でも……」

「どうせ実際に口に入れるわけじゃないです」


 わたしはためらいつつ、右手を伸ばした。まほろは口を開け、はくっとスプーンをくわえた。そっと右手を引き寄せる。もちろん、スプーンの上のかぼちゃサラダはそのまま残っている。


 しかし、まほろの表情で、何かが起きていることはわかった。まほろは目を見開き、口に手を添えた。咀嚼はしていないものの、頬は少しふくらんでいる。


「味が……します!」

「ほんと!? どう、わたしのかぼちゃサラダ。おいしい?」

「うーん……? 味はわかりますけど……やっぱり生身の人間じゃないせいか、うっすらとしか感じられないみたいです」

「それ……ただ単に味が薄いからだと思う」


 塩こしょうかマヨネーズが足りなかったのか、味に締まりがないサラダになってしまったのだ。

 まほろはあわあわと溺れかけているように手を動かしてから、その指をぐっと握りしめた。


「えっと、素材の味が生きてます……!」

「うん、ありがとう。あとでマヨネーズでも足そうかな」


 わたしは乾いた笑い声をもらして、スプーンをそのまま口に運ぼうとし……はっと気づいた。さっきまほろが口に含んだものだ。まほろもあっという顔をして、しかし何も言えずにくちびるを噛んだ。赤らんだ頬が少し震えている。

 わたしは迷いを振り切り、大きな口を開けてかぼちゃサラダを食べた。まほろは「あ……」と吐息のような声をこぼし、わたしの口もとを見つめている。


「味が……しない」


 わたしは口の中身を飲みこめないままもごもごとつぶやいた。かぼちゃのねっとりとした舌ざわりや、にんじんや玉ねぎの歯ざわり、アクセントで入れたアーモンドの食感もあるのに、味だけが感じられない。風邪をひいて鼻が詰まっているときの感覚に似ている。


「それって、あたしが食べた……と言うか、味だけを感じちゃったから?」

「そうなのかも」

「先輩、そんなのおいしくないですよね? すみません、変なもの食べさせて」


 無味無臭のかぼちゃサラダを飲みこむ。たしかに変なものではあるけど、不快ではない。シチューの具が全種類スプーンにのるようにすくって、まほろを見る。


「シチューも食べる?」

「食べたいです……けど、先輩、あたしが食べたやつは食べなくていいですからね。味がしないやつなんておいしくないし」

「食べるよ。食べかけとか……気にしないから。いや、まあ食べかけではないけど……えっと、気にしないし」


 まほろはあごを引き、前髪の隙間から見上げるようにわたしを見つめ、それからへらっと笑った。


「じゃあ、いただきます」


 まほろは目をつぶって、くちびるを開くと、早く、とせがむように顔を近づけてきた。



 .*・.゚・*.・:*



 風呂上がり、課題をやっているとまほろの視線を感じた。わたしはちらっと、しかも見たというよりは視線の先に偶然まほろがいたのだという体で、顔まではいかず肩のあたりを見返すと、まほろはすぐさま顔を背ける。ノートに目を戻すと、またまほろが視線を投げかけてくる。


 それを何度か繰り返した末に、リズムがあわなくなり、わたしたちは見つめあうかたちになった。まほろはあっと声を上げ、定位置となったベッドから腰を浮かせた。もじもじと足の指を動かしている。


「えっと……どうしたの、まほろ」

「いや、あの……課題が終わってからでいいです」

「でも、こっちも落ち着かないからさ。先に言ってみて」


 まほろは空気をこねるように指をぎしぎしと動かした。服装は、昨日の再会のときと同じ白いワンピースに戻っている。


「あの……先輩の漫画、見たいです」

「わたしの、漫画?」

「だって、去年の秋から、半年くらい見てないから……」

「でも進んではいないよ? まほろと夏休みに描いたところで止まってる」

「それでもいいです」


 まほろは思いのほか力強い声で言った。自分でもおどろいたのか、はっと口を押さえた。フローリングに正座をし、ひざに手を置き、いきなりあらたまった姿勢をとる。


「あたし、この姿じゃ漫画を手伝うどころか、ものを持つことも動かすこともできないって……先輩のそばにいても何もできないってわかりました。これ以上ここにいても、先輩の今の生活の邪魔になるだけじゃないかと思うんです」

「え……? どういうこと?」


 わたしはペンを置き、背筋を伸ばした。こたつを挟み、真正面から向かいあう。


「だから……天国に……帰ろうかなって」


 まほろは天井を見上げた。まほろには、少し黄ばんだ壁紙の向こうに、天国が見えているのだろうか。遠い目と言うにふさわしい瞳をしている。


「まほろ、思い残したことを……また漫画を描きたいからここに来たんじゃなかったの? それに、わたしに生活力つけさせるって……」

「そのつもりでしたよ。でも……、なんにもできないってわかっちゃったんですもん。荷物も持てなければ、料理のお手本も作れない。ペンもカッターも使えない。あたしなんて、アシスタント失格です」

「アシスタントは失格でも」


 意外なくらい大きな声が出た。まほろはおもむろに顔を上げ、まつげを揺らした。


「先輩後輩っていうか、友だちっていうか……そういう理由では、ここにいられないの? いっしょにいられないの?」


 まほろははっと目を見開いて、くちびるを震わせた。その表情を隠すように、またうつむいてしまう。


「先輩はそれでよくても……あたしは……」


 言葉がつづかず、まほろは口を閉ざした。わたしは長くゆっくり息を吐いた。まほろの肩がぴくりと動く。


「わかった。じゃあ、明日、わたしが大学行ってるあいだ、漫画を読んでいて。まほろが読めるように、一枚一枚並べて行くから。だから、約束して」


 そこで言葉を切ると、まほろはおずおずと目をあわせてきた。


「わたしが帰ってくるまではここにいて。ひとりで天国に帰らないで。きっと、何か方法があるよ。ベタ塗りとかトーン貼りだけが、アシスタントの仕事じゃない。ストーリーを考えるとか、話し相手になってくれるとか……」

「そんなの、アシスタントの仕事じゃないです」


 まほろは筋を曲げようとしない。わたしは迷いを振り切り、本当の思いを口にした。


「わたしは……理由なんてどうでもいい。まほろといっしょにいたい。まほろが帰りたいって言っても、帰さない」

「……先輩」

「だって、帰っちゃったら、もう会えないんでしょ? 身体には戻ってこられないんでしょ?」


 まほろはうなずきはせず、目をそらした。


「だったら、できる限りここにいてよ。まほろはわたしといっしょにいるのは嫌?」


 まほろははげしく頭を横に振った。つやのある髪の毛がやわらかく跳ねる。


「あたしだって、先輩といっしょにいたいですよ。ていうか、先輩があたしといたいと思ってる百倍、あたしは先輩といっしょにいたいって思ってます」

「だったら……帰らないでいてくれるよね?」


 まほろはこくんとうなずいた。目が潤んでいる。涙がこぼれてしまったらどうしよう。

 わたしはまほろの涙を拭うことができないのに。


「やっぱりあたし、先輩のとこに来てよかった」


 まほろは笑いながらも、ひと筋の涙を流した。頬から滴り落ちた涙は、まほろのひざに落ち……弾く様子もなく消えた。

 涙さえからだをすり抜けたのか、肌の内側に戻るように染みこんだのかはわからない。


「先輩、さいごにもう少しだけ……いっしょに生きさせてください」


 まほろは胸に手を当ててほほえんだ。わたしがうなずくと、まほろは頬をくすぐられたかのように肩をよじってはにかんだ。

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