第11話

 目を覚ましてからしばらく経っても、夢から現実になかなか帰ってくることができなかった。

 高校のころの夢を見ていた。自分が今何歳で、どこに住んでいて、何をしているのか、現実を整理する。夢との違いをすりあわせる。

 わたしはもう大学生。アパートに住んでいて、今日はお休みだからのんびりしていても大丈夫。


 夢の中の美術室の夕焼けは、思い出と遜色なくとても綺麗だった。もっと見ていたかった。なぜもう少し寝ていられなかったのだと自分を責めたくなる。


 夢はモノクロだと言う人もいるけど、わたしの夢は時に、現実よりも彩度が高く、臨場感あふれて見える。

 まほろが生きている夢の世界の方が、わたしにとっては現実よりも魅力的かもしれない。

 ずっと眠りつづけていたら、夢を夢だとも思わず生きていけるだろう。


 わたしははっとして、起き上がった。眠気はもう飛んでいる。


 まほろはどこにいるのだろう。


 昨日の夜は、意識だけの存在になったまほろにとってはじめての夜だった。電気を消す直前、ふと気づいた。


「まほろは、眠れるの……かな?」


 まほろはスイッチでも探すように自分のからだをぺたぺたと触り、うーんと首をかしげた。


「どうなんですかね? 今のところ眠気があるわけじゃないですけど……睡眠って身体だけじゃなく、意識にも必要なものですよね? 睡眠中は意識がないわけですし」

「ということは、眠れるんだろうね」

「でも、眠るのも怖いですね。起きられなくなっちゃったり、寝てるあいだに消えちゃったり……絶対ないとは限らないですよね」


 まほろは目を伏せるように笑みを浮かべた。わたしは何も答えることができず、あいまいな相槌を打った。


「なーんて、そんなことはないか。あたし、神さまからの太鼓判をもらってこの世に戻ってこられたんです。そう簡単に消えるわけないですよね。眠くなったら寝ようと思います。先輩は先にお休みください」


 まほろはそう言って、ベッドを背もたれにして床に座りこんだ。ひざを抱えるうしろ姿は、電気を消すとほとんど見えなくなってしまった。呼吸の音も、そこにいる気配も感じない。


 わたしはベッドにもぐりこみ、できる限り眠らないように意識を集中していた。まほろの存在を感じ取ろうと、息をひそめ、耳を澄ます。

 名前を呼んで返事を聞かせてほしい気持ちもあったが、はじめての夜をいちばん不安に思っているのはまほろ本人のはずだ。その不安を増幅させることにしかならないと思うと、一度もまほろに声をかけられなかった。


 そして、いつのまにか眠っていたらしい。いつもより少し寝不足に感じるが、何時まで起きていられたのかはよくわからない。

 部屋を見回すが、まほろはいなかった。もちろん、まほろがいたという名残もない。


 ベッドを出て、雨戸を開ける。朝のひんやりとした空気に頬を撫でられる。物干しだけでいっぱいになるベランダには、まほろの姿はなかった。


 窓を開けたままで、廊下へと走る。トイレ、風呂場のドアを開けるが、やはりまほろはいない。

 開けっ放しの窓から、冷たく新鮮な空気が流れてくる。昨日の夜、まほろがいたという記憶を洗い流すかのようだ。


 それとも、あれも夢だったのか。夢と現実との境界線を引き直さないといけないのだろうか。


「まほろ……どこ? いないの……?」


 廊下に立ち尽くし、つぶやいたときだった。


「あ、先輩。おはようございます。すっごくいい天気ですよ」


 玄関ドアのまんなかから、まほろの上半身がにゅっと生えてきた。ドアに空いた穴を通るかのように、全身が現れる。わたしはびっくりと安心で尻もちをついてしまった。


「大丈夫ですか、先輩。ごめんなさい、びっくりさせちゃって……」


 まほろはわたしに駆け寄り、ひざをついて手を伸ばしてきた。距離感を誤ったひざは、わたしの脚をすり抜けて重なっていた。


「わたしこそごめん。ちょっと、びっくりしすぎた」


 まほろは昨日と変わらない姿で目の前にいた。服は白いワンピースのままだし、くまや髪の乱れもない。

 わたしははっとして、自分の頭に手をやった。まほろとは違って癖毛のショートボブは、触っただけでもとっちらかっていることがわかった。まだ顔を洗ってもいない。寝起きの姿をまほろに見せるのははじめてだった。

 髪の毛を掴んであせるわたしに、まほろは目を細めた。ワンピースの胸もとを押さえて、小さくくちびるを動かす。


「よかった、今日も先輩に会えて……」


 わたしは自分の寝癖も忘れ、まほろの頭をぽんぽんと撫でた。まほろの髪のさらさらとした触り心地はない。ただ、わたしがまほろのぬくもりを感じているのと同じように、まほろにもわたしの温度が伝わっていればいいなと願いをこめた。


「昨日は眠れたの?」

「眠ったのかは……よくわかんないです。気づいたら朝になってました。夢を見てたような気もするし……でも、昨日先輩とまた会えたこと自体が夢みたいだったから、夢と現実の区別がつかないです」


 まほろはわたしが思っていたのと似たようなことを言った。同じことを思ってた、と打ち明けるのは恥ずかしいので黙っていたけれど。

 まほろは、よし、とうなずくと、いつも通りの明るい表情に戻った。


「先輩、昨日のお約束通り、買いものに行きますよ。朝はしかたないのでパンで済ませるとして……お夕飯は、あたしの得意料理を食べさせて差し上げます」

「え? まほろが作ってくれるの?」

「作るのはあたしじゃないです。先輩に作ってもらいます」


 まほろの衝撃のひと言に、わたしはぽかんと口を開けて固まってしまった。



 .*・.゚・*.・:*



 たまごサンドと野菜ジュースで朝食を済ませ、着替えをする。いつもは適当なシャツやパーカーにジーンズという、おしゃれの片鱗もうかがえない服装になるのだが、まほろといっしょとなると話は別だ。

 春らしいシフォン素材のブラウスと、サスペンダーのついたロングスカートを身につけた。こんなにどきどきしながら服を選ぶのは久しぶりだった。満を持して戸を開けて、廊下でわたしの着替えを待っているまほろに披露する。


「先輩の私服、久々に見ました。清楚な雰囲気がお似合いです。あたしの服はどうですか?」


 両手を広げたまほろは、白いワンピース姿じゃなくなっていた。めずらしくおしゃれをしたという高揚も吹き飛び、視線をまほろの頭からつま先まで、何度も往復させてしまう。


「まほろ……それ、どうしたの?」

「何か、せっかく先輩とお出かけできるなら、あたしもおしゃれしたいなーって思ったら、できました」


 まほろは買ったばかりの電化製品の新機能を発見したかのように、得意げにピースした。


 ゆったりしたサイズの桃色のカットソーに、タイトなデニムスカート。少し肌色が透ける薄めの黒タイツに、底の厚いスニーカーをあわせている。髪はふたつに分け、耳の下で輪っかを作るように結んでいた。


「似合ってますか?」


 まほろは腕を広げ、くるりとターンした。カットソーの背中側は肩のあたりがレースになっていて、変わったかたちのタンクトップの紐が透けていた。


「先輩のためだけにおしゃれしました」


 下駄箱を透かしているまほろのからだを眺めていると、少し胸がしめつけられる。おしゃれした姿があまりにも生き生きしていたせいだろうか。


「うん。すごく似合ってる」


 玄関のドアを開け、外に出た。ふたりで施錠を確認し、並んで歩き出す。


 空には雲ひとつなく、春にしては強い日差しが降り注いでいた。足もとには、輪郭のはっきりとした濃い影が落ちている。当然、わたしのものだけで、まほろの影はない。


 歩道が縁石で区切られていない、細い道だった。まほろが道路側を歩いているが、向かってくる車は彼女にかするくらいの距離を平気で通り過ぎていく。わたしはできる限り道の端に寄って、まほろを歩道の内側へと引き寄せようとした。しかし、まほろは何も気づかない様子で、線の真上を歩いている。


「先輩、サークルには入ってないんですか?」

「強制的に入らなきゃいけないものでもないし、そんなにやりたいこともないし……。人間関係はむずかしいし」

「ふぅん。何か先輩っぽいな」


 まほろは空を仰ぐように笑った。陽光に照らされて、まほろのからだはますます透明度を上げているように見えた。


「……この街をまほろと歩くなんて、思ってもいなかった」

「えー、先輩、あたしのことおうちに招待してくれるって言ってたじゃないですか。あたしはそれを楽しみに、毎日イメージトレーニングしてたのに」

「そういうことじゃないよ」

「あ、じゃあ、何でこんなからだになったのに飛ばずに歩いてるかってことですか?」


 まほろは真面目な顔で問いかけてくる。わたしは否定はせずにちょっと笑った。


 合格発表の日に閉ざされた夢。まほろと同じ道を、同じ歩幅で歩くことは、あの日以降思い描くこともできなかった。まほろの回復を祈りながら、それが叶わないことを、実は感じていたのかもしれない。

 まほろとこの街を歩けていることを、だれに感謝したらいいのだろう。ありがとうと言うだけじゃ足りないくらい、嬉しい気持ちにあふれている。


「あたし、ほんとは飛んで楽に移動もできるんですよ。でも、やっぱりそれって生きてる感じじゃないですよね。だから、こうして歩く動作をしたり、ベッドに座ったり立ったりして、生きてる気分になりたい……って、先輩、聴いてますか?」

「うん。ありがとう、まほろ」

「え? 先輩のためにやってるわけじゃ……まあ、いいですけど」


 交差点に差しかかった。ここを渡れば、ガードレールで区切られた歩道が現れる。わたしはまほろを促し、足早に横断歩道を渡った。




 まほろがあれこれ指示を出し、わたしがかごに食材を入れていく。

 スーパーの中では「わたしはひとりに見えている」と自分に言い聞かせながら買いものをした。ついさっき、まほろと会話を交わしてしまい、近くにいたおばさんに変な目を向けられてしまったのだ。これからわたしの生命線となるであろうスーパーだ。来店しにくくなったら困る。


 食材をレジ袋に詰めたら、三袋にもなってしまった。基本的な調味料すら部屋にはないので、一気に買いそろえることになってしまったからだ。徒歩十分とはいえ、なかなか堪えそうな量だ。


「せめて自転車があればなぁ。これを機に買おうかな」

「あたしがお手伝いできればいいんですが……」


 まほろはレジ袋の持ち手を掴めない自分の手を睨みつけている。


「大丈夫。何とか……する」


 わたしは両手に荷物を提げ、よろよろと歩き出した。まほろは何かの足しになればと言い、荷物に手をかざし、力みながらついてくる。

 しかし、袋はちっとも軽くならない。まほろは相変わらず車道側を歩きながら、手のひらを見つめている。


「やっぱりポルターガイスト的なのは使えないのか……」

「ポルターガイストって……触ってないのにものが動いたりする、あれ?」

「そのくらい使えるようになってたっていいですよね。ほんと不便なからだ……」


 まほろはこりずに、念を送ってくる。その健気ながんばりで、錯覚かと思う程度には軽くなったように感じた。


 部屋に帰りつき、荷物を床に下ろすと、長い筋トレを終えたあとのような、清々しい達成感があった。日当たりの悪い部屋の中では、まほろの姿が濃く見えるような気がした。


「さて、先輩。それでは、お料理はじめましょう」


 まほろはそういうと、すっと目をつぶった。一瞬、その姿がぼやけて見え、靄が晴れたようにくっきりと輪郭が整ったときには、まほろの服装は変わっていた。

 カットソーとスカートはそのままに、大きなポケットのついたエプロンを身につけている。水色とオフホワイトのギンガムチェックだ。同じ布地のバンダナを頭につけている。


 そして、タイツを履いていた脚は、なぜか素足になっていた。


「しまった。家で料理するときの格好を思い浮かべたら、はだしになってる」


 まほろは自分の足もとを見て、ぱたぱたと足踏みした。


「あたし、家では基本はだしだったんです。冬でも靴下をはいていられないくらいで……」

「別に気にしないよ。わたしだって、まほろがいなかったら、帰ってきてすぐ部屋着に着替えちゃうもん」

「あたしがいなかったら、ですよね。あたしはもうすでに、先輩の前でだらしない格好しちゃってるんです。手遅れです」


 まほろは頬に両手を当ててうつむいている。何もそこまで恥ずかしがることでもないと思うが、その尺度は人それぞれだ。小さなことで恥じらうまほろはかわいらしく、同棲をはじめたばかりの男女はこんな感じなのかな、などと思った。


 まほろは赤くなり、少し小さくなっていた。しゃがみこんだのではない。太ももの中ほどまで、床に吸いこまれているのだ。底なし沼に足を踏み入れてしまったかのようだ。


「まほろ、戻ってきて! わたしもいっしょにはだしになるから!」


 急いで靴下を脱ぎ捨てる。まほろはたけのこのように伸びて、もとの背に戻った。わたしの足もとをじーっと眺めている。

 はだしなんて本来恥ずかしいものではないし、風呂上がりのパジャマ姿も、寝起きの寝癖もまほろには見られている。

 だけど、私服にはだしというのは何となく恥ずかしいものだという気持ちがわかってきた。大事な秘密をひとつ、自分から明かしてしまったかのような、そんな恥ずかしさ。


「へへ、先輩もいっしょなら、恥ずかしくないかも」

「それなら……まあいいけど」

「先輩、エプロンはないんですか?」

「ない。そもそも調理実習以外でまともに料理したことないし」

「まあ、自分で食べるものだし、なくても気にならなければ大丈夫です。先輩のエプロン姿を見られないのは残念ですけど」


 まほろはそう言い、台所を見回した。二口のガス台、原稿用紙一枚分ほどの小さなシンク。作業台はまな板を置くのがやっとという狭さだ。


「さて、今日のメニューを発表します。かぼちゃのサラダ、ロールキャベツ、クリームシチューです」


 わたしはどんな顔をしていたのだろう。まほろは腰に手を当て、くちびるをとがらせた。


「先輩、はじめるまえから弱気になってどうするんですか。大丈夫です。超ビギナーな先輩にもできる、簡単メニューですから」

「まともに作れるのなんて、目玉焼きとゆで卵くらい……あ、あと卵かけご飯」

「それは料理には至ってないですね。大丈夫。手取り足取りはできませんが、ちゃんと見守っていますから。さて、まずは食材を切っていきましょう。包丁はありますよね」

「うん。ちゃんと自炊しろって、お母さんがキッチン用品はひと通り買ってくれた……んだけど……」


 口ごもるわたしに、まほろは首をかしげた。


「けど……どうしたんです?」

「あの……わたし、ほんとに料理したことないからすごく心配されて……」


 わたしはためらいつつ、シンクの下の戸棚から包丁を取り出した。セラミック製で、長い刃渡りでなければ、鋭い刃先でもない。しかも、持ち手は水色だ。


「お母さんが、普通のをひとりで使わせるのは不安だからって、子ども用の買ってきてさ……まほろが想像してる以上に、わたしほんとに何にもできないと思う……」


 まほろは小さな包丁を握りしめるわたしを見つめ、眉を下げてほほえんだ。


「素敵なお母さんですね。初心者が大きい包丁渡されたって持て余しちゃいますし、子ども用でも十分使えますよ。今度帰省したときに、おいしいごはんを作って、お母さんをびっくりさせちゃいましょう」


 まほろの指示を受け、わたしは野菜を切るところからはじめた。かぼちゃ、キャベツ、にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、ブロッコリー。まさしく山積みに見えた。描くのなら簡単なのにな、と思ってしまう。

 包丁を握って深呼吸したとき、まほろにストップをかけられた。


「先輩、その持ち方は危ないです」


 わたしは包丁を、完全にグーになるかたちで握っていた。


「もうちょっと力を抜いて、人差し指は添えるだけという感覚で……」

「こ、こう?」


 言われた通りに指を動かしているつもりだが、まほろは納得できない様子だ。自分の手を握ったり開いたりして、んん、とうなる。


「ちょっと柄の方貸してもらってもいいですか?」


 わたしは刃先をつまみ、まほろに包丁の持ち手を向けた。まほろの右手が包丁を受け取ったのを見て、わたしは手を離した。

 包丁はするりとまほろの手をすり抜けた。


「わ、ちょっ、先輩!」


 落ちる包丁を追ったまほろの手は空を切る。わたしは慌てて飛び退いた。

 包丁はまっすぐに落ち、持ち手の方から床に着地した。弾んだ拍子に、刃先はまほろの足の指と重なった位置で止まった。


「せ……先輩! 危ないじゃないですか! あたし生身じゃないんですよ!」

「ごめん! 忘れたわけじゃないんだけど、つい……」


 わたしは包丁を拾い上げ、傷ひとつつかなかったまほろの足を見た。見上げると、まほろは心なしか青ざめた顔をしている。


「先輩、はだしはあたしだけでいいので、スリッパを履いてください。恥ずかしいとか言いませんから」


 わたしは震えをおさえながら、重々しくうなずいた。

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