第13話

 わたしはすべての講義が終わったあと、急ぎ足で帰路についた。

 まほろがちゃんとアパートにいるか心配なのだ。昨日約束したとはいえ、まほろは相当落ちこんでいた。気の迷いを起こして急に帰ってしまう可能性はゼロではない。早く帰ってこの目で確かめなければ安心できない。


 わたしは講義のあいだずっと、まほろができることは何かと考えていた。

 ものには触れられない。念じて動かすこともできない。でも、服を着替えることはできる。

 わたしの私服はお世辞にもおしゃれとは言えないから、まほろの服装を漫画に生かせることができるかもしれない。むずかしいポーズをとってもらい、デッサンさせてもらうこともできそうだ。ポーズモデルは、高校のときにもやってもらったことがある。

 だけど、まほろはこれだけじゃ満足しないだろう。


「若狭あかね」というペンネームをつけてから、まほろはますます向上心を高めていった。教えたことをすぐ吸収して、どんどん上達していった。トーン削りに至っては、絵を描く以外は手先が不器用なわたしより、まほろの方がいつのまにか上手くなっていた。

 わたしは作画や背景の描きこみに集中することができ、ひとりで描いていたときより漫画の質は格段に上がっていた。


 わたしはまほろといっしょに漫画を描いている時間が好きだった。できあがった原稿は、それまでのものとは違って、恥ずかしげもなく好きだと思えた。

 まほろには自覚がないかもしれないけど、まほろはわたしを変えたのだ。


 大学と高校とで離れ離れになってから、またいっしょに漫画を描けるようになるとは思っていなかった。

 だけど、まほろと同じように、少しだけ夢を見ていた。まほろがもし同じ大学に入学して、近くのアパートに引っ越してきたら……。そんな叶うかも分からない未来を想像しながら、受験勉強をしていた。

 まほろが事故に遭ったことで、そのはかない夢さえも見られなくなってしまった。


 まほろをはね、逃げ去った犯人は、まほろのかけがえのない未来と、わたしのささやかな夢を奪ったのだ。


 そして、あの半透明の姿になってから、まほろは無力感に苛まれている。まほろがそばにいるだけで、わたしはとても大きな力をもらえているのに。


 アパートの錆びついた外階段をのぼる。隅にたまったわずかな砂に、小さな雑草が生えている。足音をひそめて部屋の前に立ち、鍵を開けた。

 閉め切って出かけた部屋の中は、空気が淀んであたたまっていた。部屋の引き戸をそっと開ける。床、ベッドの上、こたつの上……部屋じゅう至るところに並べた原稿が、沈みかけの太陽に照らされて金色に輝いている。収穫直前の麦畑のようだった。


 こたつには漫画を描く道具も並べてあり、部屋には漫画のにおいが充満していた。夕焼けと、紙とインクのにおい。今となっては遠い、懐かしい日々がよみがえる。


「まほろ……どこ?」


 原稿で埋め尽くされた部屋に、まほろの姿はなかった。呼びかけるが、どの壁からもまほろの上半身は生えてこない。心臓の動きがはげしくなる。


 わたしは順番も気にせず原稿を拾い集めながら、部屋の中を歩き回った。束ねた原稿をこたつの上に置き、押し入れの中やベランダ、風呂場を見て回る。まほろはどこにもいない。


 おとといの再会も急だったけど、二度目の別れもこんなに急だなんて……。わたしはしゃがみこみ、両手で口もとを覆った。荒い吐息が指に当たって砕ける。


 どうして今日一日、まほろを見張らなかったのだろう。大学なんか休めばよかったのだ。

 会えないことがどれだけ苦しいのか、わたしはわかっていたはずなのに。


 視界がぼやけてきた、そのときだった。視界の端で、何かが動くのが見えた。こたつの上に立てていたデッサン人形が倒れたのだ。原稿を置いたときに、バランスを崩してしまったのだろうか。でも、頑丈な土台に立てていたし、倒れるまでの時間差もおかしく感じる。


 まぶたを押さえて出すぎた涙を搾り取り、人形をじっと見つめる。木でできており、大きさは二十センチほど。人間と同じように関節が作られていて、それを曲げたり伸ばしたりして思い描くポーズに変えることができる。

 安物だから関節の滑りが悪く可動域も狭いが、正しい人体を描くための必需品だった。


 人形は台座ごと横に倒れていた。うつ伏せの状態だ。その人形の手足が、突然動いた。

 いや、動いたなんて生易しいものじゃない。意思を持っているかのように、ばたばたと暴れだしたのだ。


「ひゃああ!?」


 自分でもびっくりするほどのかん高い悲鳴が口から飛び出した。人形はどうやら起き上がりたいらしく、必死に腕を動かしている。こたつの天板をしっかりと踏みしめ、ひざを伸ばす。しかし、台座が邪魔して立ち上がることができず、またひっくり返った亀のようにじたばたしはじめるのだった。


 わたしは恐る恐る手を伸ばし、デッサン人形を起こしてやろうとした。人形に触れるのは怖かったので、台座をつまむ。

 そのときだった。人形は急に動きを止め、光の膜を脱ぎ捨てるように、人形から何かが飛び出した。


「あ、先輩……おかえりなさい」


 白いワンピースを着たまほろが、わたしの頭の高さに浮かんでいた。


「た、ただいま」


 わたしは呆然とまほろを見上げた。人形はもう動いていない。何度かまほろと人形を見比べ、まほろが恥ずかしそうに笑ったのを見て確信した。


「もしかして……これ、動かしてたの、まほろ?」

「はい。でも、動かしてたっていうよりは……うーん」


 まほろは天井を見上げ、そこに探していた言葉があったかのように口もとをほころばせた。


「それを着て動いてたって感じです」

「着る……これを?」

「あたし、服を着替えられるじゃないですか。それって、頭の中で服に袖を通して、ボタンをとめて、足を入れて、っていう動作をイメージするとできるんです。頭の中で着替え終わると、見た目も変わる、みたいな」

「それをこの人形でやったわけ?」

「そうです。腕に腕を通して、足を履いて、頭にはヘルメットをかぶるみたいに。着ぐるみを着る感覚、って言ったらいいかな。まあ着ぐるみなんて着たことないですけど」

「まほろ、そんなことできるようになったんだ」


 まほろはくちびるをとがらせて少し考え、いつもと同じようにへらっと笑う。


「ふと思いついてやってみたらできたんですが……もともとこういう機能があったのかもしれませんね」

「機能って」

「だって、このからだのままじゃ、また漫画を描きたいって夢が叶えられないじゃないですか。だから、神さまがつけてくれたのかも。着ぐるみを着られる機能」


 まほろはデッサン人形に目を向け、うーんとうなった。人形はまほろがじたばたしたときのポーズをとっている。


「でも、この人形すごく動きにくいんですよ。関節はぎしぎしするし、のっぺらぼうだからか目が見えないし、耳も聞こえないし……あ、先輩のものなのに文句ばっかり言ってすみません。デッサン人形としては問題ないんですよ」

「いや、そんなこと気にしなくていいから……」


 わたしはぼんやりと答えながら、頭では別なことを考えていた。

 着ぐるみを着るように、とまほろは言った。ということは、人のかたちをしていれば何でも着られるということだ。目や耳はないと困るようだけど、デッサン人形以外にそんな人形はないだろう。


「まほろ」「先輩」


 声が重なる。ちょっと見つめあい、目で探りあう。何となく、同じことを話そうとしてるような気がした。まほろが手のひらを向けてくるので、答えあわせをするような気持ちで口を開いた。


「まほろ、今すぐ帰るなんて、もう言わないよね」

「今帰るのはやめにします、って言うつもりだったんです」


 わたしたちはふたり同時に笑い出した。昨日、すぐにでも消えてしまいそうな顔をしていたのが嘘みたいに、まほろは晴れやかな表情を浮かべていた。


「先輩。あたし、人形を着てアシスタントの仕事できるように練習します。ペンを持てればできると思うんです」

「やっぱり……アシスタントとして、わたしのところにいたいって、いちばんはそう思うの?」

「先輩後輩でもいいですし、友だちでもいいですけど……やっぱりアシスタントでいた方がしっくりくるし……先輩も困らないと思うので」


 まほろはうつむいてはにかんだ。わたしはよくわからなかったけど、同意しているように見えるうなずき方をした。


「そしたら、あたし、がんばってこの身体に慣れないと。ペンはテープか紐で固定すれば……」


 デッサン人形をいろんな角度から眺めて思案するまほろ。わたしはまほろの目の前から人形を取り上げた。


「これじゃ目も見えないし耳も聞こえないんでしょ? そんな人形にアシスタントは頼めないよ」

「え……」


 まほろは人形に伸ばしかけていた右手を戻した。胸の前で、左手が右の手首を捕まえるように握っている。琥珀のように透き通った瞳が揺らぐ。


「買いに行こう。まほろの人形」


 まほろははっと息を飲み、まん丸の目で見つめてくる。長いまつげは瞬きのたびに、蝶々が羽ばたくように軽やかに上下する。


「まほろが着たい人形を買いに行こう。まだ六時だし、PARCOはやってるはずだから」

「えっ、今から? だめですよ、もう暗くなるんだから、先輩をひとりで夜道を歩かせるなんて」

「何言ってんの。まほろが自分で選ぶんだよ」

「そりゃあたしも行きますよ。でも、先輩以外には、先輩はひとりにしか見えないんですから」


 そうだった。まほろの新しい身体を探す話をしながら、そんな単純なことも忘れている。

 だけど、ここでは引き下がれない。まほろが人形を着て動くのが早く見たいのだ。そして、まほろに早く触れたいのだ。


「大丈夫。歩いて十分くらいだし、アパートの周りは人通りなくて暗いけど、アーケードを通っていけば明るくて人気ひとけもあるから」

「人気があるのもないのも危ないですけど……でも、あたしも……いても立ってもいられない気分になってきました」

「じゃあ行こう。早く」


 わたしは立ち上がり、鞄を引っ掴んで玄関へと急いだ。まほろはすうっと、浮いたまま平行移動してついてくる。その顔は冒険を前にした少年のように、強ばりながらも口もとはたまに笑みを堪えきれずにゆるんだりしていた。


 PARCOは、夜にも関わらずたくさんの人で賑わっていた。学校帰りの高校生や大学生らしきグループが、コーヒーショップを埋め尽くしている。わたしたちはそれを横目に、店内中央にあるエスカレーターを上がっていく。壁も天井もないようなものだろうに、まほろはわたしといっしょにエスカレーターを斜めに、上階へとのぼっていく。


「あたし、PARCOってはじめて来ました。地元にもこんなおしゃれなお店あったらいいのに」

「わたしも、引っ越してきて存在は知ってたけど、入ったのははじめて」


 二階から四階は、レディースファッションの店舗ばかりだった。五階にあがってようやく、雑貨店を見つけた。キッチン用品や文房具、ちょっとした家具などが、通路を広く保って並べられている。インテリアコーナーに、いろいろなぬいぐるみが置いてあった。


「動物はいっぱいあるけど、人型のものはないね」


 わたしはスーパーに行ったときと同じように、小声でまほろに話しかけた。あいにく、流れている音楽は静かなインストゥルメンタルで、階下の賑わいとは裏腹にひとり客が多いので、他に話し声もない。


「先輩、ケータイ。電話で相談してるふうにしてみてください」


 まほろは電話で話しているようなポーズをして、ひそひそと言った。まほろまで小声になる必要はないのに、少しおかしかった。

 わたしは、さも着信があったというような仕草でケータイを取り出し、耳に当てた。「もしもし」なんて芝居をしたら、まほろは声をひそめて笑った。


「そこまで厳密にやらなくても」

「わたしも今そう思ってる」


 気を取り直して、並んだぬいぐるみを眺める。猫、熊、うさぎ、アザラシ、クジラ……海も陸も関係なく、様々な動物が揃っている。リアルな造形のものもあれば、テディベアのようにデフォルメされたものもある。キャラクターっぽいものもあった。


「あっ、ペンナコッタ!」


 まほろが大きな声を上げ、棚のすみに飛びついた。きらきらした目で、ひとつのぬいぐるみを見つめている。

 それは、まほろが好きなペンギンのキャラクターだった。「あたしとしゃべってるときに押してほしい」と言って送りつけてきた、トークアプリのスタンプのキャラクターだ。パンナコッタとペンギンを足して二で割った見た目をしていて、プリンやゼリーなどの仲間も続々登場している。


「まほろ、それ着るの?」

「さすがにこれじゃ動きにくいですよ。かわいいけど……」

「やっぱりおもちゃ屋に行った方がいいかなぁ。着せ替え人形とか、そういうやつの方がいいんじゃないかな」


 まほろは勢いよく振り返り、えーっと口をとがらせた。


「あたし、着せ替え人形は見た目が苦手なんです。あれが動くってホラーっぽくないですか」

「いや、まほろが着てるんだからホラーではないでしょ」

「あたしはかわいいぬいぐるみがいいです。ほら、こういうのなら人間のからだに近いから動きやすそうですし……」


 まほろは服を選ぶみたいに、ぬいぐるみを見定めている。わたしははしゃぐまほろを微笑ましく眺めながら、何となく目についたうさぎのぬいぐるみを手に取った。ひょろりとした体型で、耳を含めなければ四頭身ある。リアルなうさぎからはかけ離れた、細長い手足をしているが、もしこれが着ぐるみ大になったら、人が入っても動きやすそうだなと思えた。


「先輩、それがいいですか?」


 いつのまにかとなりに戻ってきたまほろが、わたしが持っているうさぎのぬいぐるみを眺めていた。


「え、いや……ただかわいいなって思っただけ」

「それ、動きやすいかも。ゆるキャラの着ぐるみにありそうですよね」


 まほろはあごに指を当て、考えこむ表情になった。


「先輩、ちょっと……壁になってもらっていいですか?」

「か、壁?」

「試着したいんです」


 わたしはあたりを見回した。ちょうど、周りに他の客はいない。ただ、商品棚の配置の関係で、レジに立っている店員がこちらを向いたときの目隠しになるものがない。

 レジに背を向けてしゃがみ、うさぎのぬいぐるみを床に近い棚に置く。そして、なるべく存在感を消えるように息をひそめた。


「早く、今のうち」


 まほろはうなずき、目を細めてぬいぐるみを見据えた。まほろがどのようにぬいぐるみを「着る」のか気になったが、まほろが「着替えるのと同じ感覚」と言っていたのを思い出し、周囲に注意を払うふりをして目をそらした。もし一瞬でも下着姿になるとか、もしくは全裸になるとか、そういうことがあったら、見ては申し訳ない。


「あ、結構いいかも」


 わたしが見ていないうちに、まほろはぬいぐるみに着替え終わったらしい。さっきまで布と綿でできた、くったりしたぬいぐるみだったものが、しゃきっと首を起こし、腕を回している。立ち上がるのは難しいのか、よろけてほかのぬいぐるみに倒れこんだ。その大胆な動きに、わたしは焦って首を巡らせてしまう。


「先輩、似合いますか?」


 うさぎのぬいぐるみが……いや、まほろが見上げてくる。プラスチックの瞳は無表情のはずなのに、なぜかほほえんでいるように見えた。


「うん、似合うよ。それにする?」


 まほろは新しい服のフィット感をたしかめるようにからだをひねったり、スカートの丈を気にするように足もとを見たりした。


「はい! これがいいです。先輩もこれでいいですよね?」

「まほろがいいならいいよ」


 うさぎは見えない膜をはがされるようにくたっと倒れ、まほろが白いワンピース姿で現れた。そういえば、デッサン人形を脱いだところも見ていたのだ。戻ってきた瞬間ワンピース姿だったのだから、着るときも同じなのかもしれない。ぬいぐるみに入る瞬間も見てて大丈夫だったのだろう。


「じゃあ、買ってくるから。このへん見ててもいいよ」

「ありがとうございます。そのうちお金返しますから」

「いいよ、そんなの気にしなくて」


 わたしはケータイをしまい、ぬいぐるみを手にレジへと向かった。店員は愛想良く対応してくれた。怪しげな挙動を見咎められてはいないみたいだ。わたしはほっと息をつき、財布の小銭を数えた。


「お客さま、こちらはプレゼント用ですか?」


 わたしは十円玉を集める手を止め、顔を上げた。


「プレゼント用でしたら、無料でラッピングすることもできますが」


 わたしはちらりとぬいぐるみコーナーを振り返った。まほろはこちらに背を向けて、商品棚を眺めている。ペンナコッタとその仲間たちが並んでいるあたりだ。物欲しそうにペンナコッタの頭についているミントの葉っぱに触れようとしている。

 ラッピングしてもらっても、まほろにほどいてもらうことはできない。

 プレゼントはまたの機会にすればいい。わたしはラッピングを断って、ぬいぐるみを普通の袋に入れてもらった。


「まほろ、おまたせ。帰ろっか」

「はい。先輩……あたしの新しい身体を見つけてくれて、ありがとうございます」


 まほろはわたしの腕に抱きついてきた。絡められたまほろの腕は、やはり錯覚とは思えないほどたしかにあたたかかった。


「バイバイ、ペンナコッタ」


 ぬいぐるみに手を振るまほろを見て、またこの店に来ようと心に決めた。そのときはひとりで。今度はラッピングもしてもらおう。

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