第2話

 高校時代、わたしが所属していた美術部は、まじめに活動していたとは言えなかった。


 美術の教諭は高校時代、テニスでインターハイに出場するほどの実力の持ち主だったらしく、美術部とテニス部の顧問を兼任していた。

 いや、九対一の割合でテニス部に傾倒していた。

 大きなコンクールの前には作品の進捗を見に来てくれたが、テニス部の練習の合間だったのか、砂ぼこりのついたジャージを着ており、指導する声はやけに大きかった。


 顧問がいないことが当たり前なら、部員が毎日活動しないのも当たり前になっていた。

 ほとんどの部員は週に一度顔を出すかどうかで、最近見ないなと思ったらいつのまにか退部していたというのも珍しくなかった。


 わたしが二年になるころには、週一回すら姿を見せない幽霊部員ばかりになっていた。部員の顔などひとりも覚えていないくらいだった。


 自動的にわたしが部長になるしかなかったが、部員がいないので仕事はないも同然だった。どうせまともな新入部員も入ってこないだろうし、とたかを括っていた。


 そんな中、茜谷あかねやまほろが美術部に入部してきたのだ。


 わたしは単純に絵を描くのが好きだったから毎日活動していたし、まほろも四月に入部して以来、毎日顔を出していた。


 しかし、初夏が過ぎ、衣替えの季節になっても、まほろは一枚も絵を描こうとしないのだ。絵の具をさわったのは、活動初日だけだった。


「まほろってさ、何で毎日部室に来るの?」


 西陽の射す美術室で、わたしは絵の具を混ぜながら訊いたことがある。


 まほろは絵を描く訳でもないのに部室に来ては、課題をやったり小説を読んだりしているから、単に気になったのだ。


 咎めるつもりはまったくなかった。


「先輩は、あたしが部室にいない方がはかどりますか?」


 まほろは文庫本から目を上げて訊き返してきた。夕日に照らされて金糸のように輝くセミロングが、視界の端にあってまぶしかった。


 わたしはイーゼルに立てかけたキャンバスに向かったまま、まほろと会話をつづける。


「別にそういうわけじゃないけど。宿題とか読書なら、早く家に帰ってやった方が落ち着いてできるんじゃないかなって思って。ていうか、美術部に入ってなくてもできるし」


「だってここじゃないと、先輩が絵を描いてるとこ見てちょっとひと息ってできないじゃないですか」


 振り返ると、まほろは本に栞を挟み、腕を枕にしてこっちを眺めていた。今にも眠ってしまいそうな、ゆっくりとしたまばたきをしている。


「あんまり見られてると描きにくいっていうか……わたしは注目されてないときこそ実力を発揮できるタイプっていうか」


「またそれ。さすがに聞き飽きましたよ」


 まほろは口をとがらせて、足をばたばたと動かして音を立てた。


「大丈夫。あたし、いつもこっそり見つめてますけど、先輩、すっごく上手だから」


 まほろはへらっと笑い、口もとに流れてきた髪を払った。

 ワイシャツが夕陽でオレンジ色に透け、影になったまほろの胴体はびっくりするほど薄っぺらかった。肩から頬にこぼれ落ちた陽光が、呼吸のたびに大きくなったり小さくなったりしている。


 わたしははっとしてキャンバスに向き直った。


 なぜかまほろに目を奪われていた。


「ねー先輩。先輩って、彼氏いるんですか?」


「いないけど……いきなりどうしたの?」


 まほろの呑気な声にあわせて、わたしも緊張感を排除した声を心がけた。


 だけど実は、光と影がまほろの身体を奪い合うような光景が脳裏に焼きついて、胸の高鳴りは静まっていなかった。


「じゃあ、これからできそう?」


 わたしは筆を止め、またゆっくりとまほろを振り返った。うっすらと開いた目と、微妙に視線があわせられない。


「できないと思うけど……ねえ、わたしたち、すっごい暇でもこんな恋愛的な話なんてしたことないよね? 何かあったの?」


「じゃあ、好きな人はいますか?」


「いない。やめてよ、恋バナとかそういうのガラじゃないし」


 まほろはふふっと笑みをこぼし、おもむろに身体を起こした。指を組んで腕を上に伸ばし、一気に脱力する。


「よかったぁ。先輩が恋しちゃって、こうやって部活できなくなっちゃったらいやだもん」


「ちゃんと部活やってるのはわたしだけだけどね」


「あたしの活動は、先輩が描いてるとこを眺めることですから」


 まほろは威張ることじゃないのに堂々と言った。


「まほろは描かないの? まだコンクールまで時間はあるけどさ、あせって描くより今から準備しといた方がいいと思うけど」


「えっ、コンクール? それって絶対出さなきゃだめですか?」


「そのコンクールにだけは出さないと美術部に入ってたことにならないって、部活説明会のときに言ったんだけど」


「そうでしたっけ? そしたら、あたし……先輩が絵を描いてるところを描こうかな」


 次の日から、まほろは入部してはじめて、美術部員らしくキャンバスに向かい、筆をとった。


 慎重派のわたしには信じがたいほど、まほろは大胆だった。

 構想を練ることも、キャンバスに直接下描きすることもなく、いきなり絵の具を塗りはじめたのだ。


 適当に仕上げればいいやという、投げやりな姿勢ではないことは、真剣な目を見れば分かった。


 わたしはときどき、まほろの迷いのない筆運びに見入ってしまう。しかし、わたしが常々視線を気にしてしまうのとは裏腹に、まほろはまったく気にならないらしい。

 夕焼けのオレンジ色の中に緑色を使ってみたり、床に落ちる影を降り積もった花びらで表現してみたり、わたしがびっくりするようなことをまほろは堂々とやってのけた。


 そしてまほろは本当に、夕暮れの景色の中に、絵を描くわたしの後ろ姿を描いた。完成したものははじめてにしてはなかなか様になっていた。モデルがよかったということではない。


 まほろには普通の景色もこんなふうに見えているのか、と羨ましくなるような絵だった。


 まほろはその絵を出品したきり、また描かなくなった。


 わたしは描くのはもちろん、絵を見るのも好きだから、何とかしてまたまほろの絵を見たいと思った。

 しかし、なだめてもすかしても、まほろは描こうとしない。


「また来年、コンクールはあるじゃないですか」


「そのときにはわたしはもう退部してるんだよ」


「でも……退部してからも部室に入り浸ってる先輩の姿があたしの目には見えてます」


 まほろは腕を枕にしたお決まりのポーズで、目を細めるばかりだった。

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