ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

第1話

 正直、大学受験には自信があった。


 受かっているだろうな、と思いながら合格発表を見に行き、予想通り自分の番号を見つけたときもわりと冷静だった。


 胴上げなんかしてる連中を横目に、自宅に電話し合格だったと伝えると、受験生本人よりも祖母の方が喜んでいた。

 今夜は赤飯だ、と言うから、どうせなら刺身がいいと返しながらも、わたしは別のことばかり気になっていた。


 今日、いっしょに合格発表を見に来る約束をしていた後輩が来なかった。


 茜谷あかねやまほろ。ひとつ年下、美術部の後輩だ。


 朝七時に駅で待ち合わせて、電車で三時間かけていっしょに大学に来る予定だった。


 しかし、七時を過ぎても現れず、ケータイに連絡を入れてもつながらない。一時間待ったところで諦めて、後ろ髪を引かれつつ、ひとりで来たのだ。


 わたしはもともとひとりで行けると断わったので、特別困ったわけではない。

 ただ、いつになく真面目な顔で頼みこんできたまほろが無断で約束を破るのは、どう考えてもおかしかった。


 約束をした日に寝坊したことはたまにあったけど、必ず起きた瞬間に連絡は寄越すのだ。昼過ぎまで音沙汰なしというのは気にかかる。


 電話の向こうは祭りのように騒がしい。母や父もわたしの合格を知り、浮き足立っているらしい。

 気にしないと言うわたしをよそに、両親は「滑る」や「落ちる」を禁句とし、三日に一回はカツを揚げ、合格祈願の御守りを買い集めていた。

 受験生以上に験を担ぎまくっていたので、相当肩がこっていたのだろう。わたし以上に開放感を味わっているに違いない。


 わたしは祖母に「あとはよろしく」と伝え、通話を切った。スピーカーから十センチも離して聞いていたのに、耳がびりびり痺れていた。


 十二時を回っていた。まほろから折り返しの電話はない。トークアプリで朝送ったメッセージも未読のままだ。


 ふと思いつき、受験番号が列記された掲示板を撮影し、まほろに送りつけた。

 いつもならすぐに既読がつくはずなのに、一分経っても五分経ってもメッセージは開かれない。


 わたしはケータイをしまい、門の方へと歩きはじめた。


 まほろは明るく朗らかなのが取り柄だが、少しふわふわと頼りないところもある。

 新三年生になるとはいえ今は春休み。あの子が三年になった瞬間、受験モードに切り替えられるとは考えがたい。きっと休みボケでまだベッドにいるのだろう。


 そろそろ起き出し、メッセージを開いて自分の失態に気づくはずだ。

 そして、慌てて電話をかけてくる。まほろは半泣きで謝り倒してくる。文句を言ってやろうと口を挟むすきも与えず、ひたすら「ごめんなさい」と「すみません」を繰り返す。

 その勢いに怒りも苛立ちも削ぎ落とされ、まほろを許してしまう。いつものパターンだ。


 朝が早くてあまり食べられなかったから、おなかが空いていた。

 あとは合格を祈ることしかできないというのに、昨日もカツ丼を食べさせられたから、あっさりしたものが食べたい。


 駅にどんな店があったかな、と考えながら、無意識にトークアプリを開いていた。いまだに既読のつかない吹き出しを眺める。


『いまどこ?』


『あと三十分は待つ』


『時間切れ

 ひとりで行く』


 そして、合格発表の掲示板の写真と、威張った顔をしたペンギンのスタンプ。まほろの好きなキャラクターだ。

 自分宛てに押してほしいからと、わざわざわたしに買い与えてきたのだ。わたしはあまりスタンプを使わない方なのだが、まほろが喜ぶから極力使うように努力していた。


 まほろから来た最後のメッセージは、昨日の夜。


『明日は先輩より早く着いて、びっくりさせちゃいますからね〜!』


 その下に、脈絡のないスタンプがたくさん連なっている。わたしがうさぎ好きだと知って、まほろが買い揃えたうさぎスタンプだ。


 意味などないスタンプの羅列を眺めていると、くすっと笑えていっとき不安を忘れられた。まほろの能天気オーラが、画面を通してしみ出てくるかのようだ。


 そのとき、未読のままだったわたしの吹き出しに、パパパッと既読のマークがついた。


 寝ぐせだらけのまほろの顔が青ざめていく光景が、容易に想像できる。すぐに電話がかかってくるはずだ。

 トークアプリを閉じ、着信に備えて咳ばらいをする。


 手の中でケータイが震え出した。画面には「茜谷まほろ」の文字。


 何から何まで予想通り。まほろの行動と心理は完全にお見通しだ。

 さっきまでわだかまっていた不安がきれいに消え去った。


 正午を越える大遅刻ははじめてだ。もはや怒る気も失せているし、やっと連絡がついたという安堵感もあり、なんにも身構えることなく通話ボタンをタッチした。


 ケータイを耳にあて、まほろの出方を待つ。怒ってはいないが、怒っているふりをする権利はあるだろう。


 息をひそめて黙っていると、ずずっ、と鼻をすする音がした。電話の向こうはとても静かで、その音がはっきり聞こえる。


 泣いている音が、途切れ途切れに聞こえてきた。いつにない大事な約束に限って、前代未聞の大遅刻。取り乱してしまい、言葉が出ないのかもしれない。


 仕方がないから笑い声を聞かせてやろう、と息を吸いこんだときだった。


梅若うめわか……佐保さほさん?」


 か細い涙声は、まほろのものではなかった。


 笑い飛ばしたらまほろはどんな反応をするかとか、お詫びとお祝いを兼ねて何をおごってもらおうかとか、浮き立った気分が一瞬で色あせた。


 脳を泡立て器でかき混ぜられたかのように、思考が形を失う。返事すらできない。


「まほろの母です。突然お電話して……ごめんなさい」


 お母さんが、どうしてまほろのケータイからわたしに電話を? まほろのお母さんとは、これまでに会ったことも話したこともない。


 嫌な胸騒ぎがしてきた。指が震え、喉がからからに干上がる。


 通話を開始してから、まだ発言していないことに気づいた。何か言葉を返さねばと思い口を開いたが、かすれたうめき声のようなものしか出なかった。


 まほろのお母さんは、震えるのどを押さえつけるような声でゆっくりと言った。


「まほろが……事故にあったんです」


 電話の向こうで、まほろのお母さんが嗚咽を漏らしはじめた。


 わたしはやっぱりひと言もしゃべることができず、その泣き声をただ聞いていた。

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