ハッピー・マイライフ・エンド

@yuichi_takano

第1話

 齢七十にして恋をした。何年も前に夫を亡くしてから、年齢なんてものは数えていない。だから正確に言うなら、およそ七十歳で、私は恋をした。フワッと心が舞い上がり、何十年もの間 止まっていた時計が動き出す。生涯付き添ってきた夫との間に築かれた、安定した感情とは違う。風がなくとも立ち消えそうで、だけれど、薪がなくとも轟々と燃える、そんな炎のような感情。「何歳になっても『恋』は変わらないのね。」私はそう思った。

「どうか、しましたか。」

 右手側に座るヘルパーさんの声で、ハッとしました。久しぶりの感覚に、私は暫くぼうっとしていたのです。

「いえ、雰囲気があの人に似ていたからね。びっくりしちゃって。」

 顔に火照りが差したのを、私は夫のせいにして誤魔化しました。

「あぁ、旦那様ですか。確かに目元とか、似てるかな?」

 ヘルパーさんは、遺影と、私の正面に座る県(あがた)さんとを見比べて、そう仰いました。私が惹かれたのは見た目じゃなくて、雰囲気なのだけれど。

「ーーーそれじゃあ、はい、こんな感じで、これからもサポート致しますので、よろしくお願いします。えーと、これで引き継ぎは終わるんですけど、何か不安なこととか、聞いときたいこととか、ありますか。」

 ヘルパーさんは、一通り話し終えるとお尋ねになりました。「いいえ、大丈夫よ」とお応えすると、「それじゃあちょっと、本部の方に電話してきますね」と仰ってヘルパーさんは部屋を出ていかれました。

 意中の方と二人きり。年のせいかは分かりませんが、さほど緊張はしていません。

「これからよろしくお願いしますね。」

「はい、よろしくお願い致します。」

 お声がけをしても返ってくるのは一言だけ。それでも不思議と、癪に触る無愛想さではないのです。

 最近、私の周りには「よく喋る人」しか居ませんでした。老人は喋らせると長くなるし、話が通じない。それは分かります。ですが、老いていたって話の一つくらい聞いて欲しいのです。県さんの口数の少なさからは、「あなたの言葉に耳を傾けますよ」という温かみが伝わってくる気がします。

「お若そうに見えるけど、おいくつなの?ってこんなこと聞いたら失礼かしら。」

「いえ、失礼なんかじゃありませんよ。私は今、二十三歳です。」

 冗談まじりでお伺いすると、誠実な返答をしてくださいました。

「やっぱりお若いのね。二十三と言えば、私が主人と出会った時も二十三だったわよ。とは言っても二十三だったのはあの人なんだけれどね。私はその時、二十六か七だったわ。」

 そこまで話して、言葉が続きませんでした。私の思考が止まってしまったのです。想い人の前で他の男性の話をしてしまうなんて…しかも過去の相手のことを(もちろん夫のことを「過去の人」と割り切っている訳ではないのですが)。

「内藤 清士(ないとう きよし)さんでしたよね。」

「え?」

 唐突の質問に、私は素っ頓狂な声を出してしまいました。

「旦那様のお名前です。内藤 清士さんだと記憶していたのですが。」

「え、えぇ、清士さんね。そうよ。いつも『あなた』とか『あの人』とか呼んじゃってるから、『清士さん』なんて呼ぶこと、なくなっちゃったけれどね。」

 驚きやら、恥ずかしさやらで、あの人の話をしてしまっていることになんて、気を配っていられません。

「そうですか。それなら、今からでも下の名前でお呼びしたら如何でしょう。きっと清士さんもお喜びになると思います。」

 県さんは遠い目をしながら、そう仰います。ついさっきまでの気持ちの昂りは、すっかり治ってしまいました。

「すみません、ただいま戻りました。」

 そこでヘルパーさんがお戻りになりました。そしてそのまま

「えーと、そしたらそろそろお暇させて頂きます。次回からは県さんが来てくれますので、はい。それじゃあ、県さん、ちょっと先に車に戻ってて。」

 と仰り、県さんと代わるように、私の前にお座りになりました。最後のご挨拶かと思い、背筋を正しましたが、そうではないようです。

「どうですか、県さんは。」

 私はその質問の意図を理解できませんでした。いえ、本来であれば理解できるのですが、ヘルパーさんの表情がどこか神妙さを孕んでいらしたので、理解ができなかったのです。

「えぇ、とてもよい方だと思ったけれど。どうかしたのかしら?」

 なんの捻りもなく、単刀直入にお尋ねしてみました。こういう所は、年を重ねて図々しくなったと思っています。

「いや、ねぇ。ちょっと不安な噂がありましてね…。」

 ーーー心が揺れる。鳩尾の辺りを押し上げられているような感覚と共に、軽い吐き気が込み上げる。これは、不安。それも、片思いが拗れた故の。ほぼ半世紀ぶりのことに、思わず本当に嘔吐してしまいそうになりました。それを空咳をすることで堪えたのですが、ヘルパーさんに大層ご心配をおかけしてしまうこととなってしまいました。

「ごめんなさいね、もう大丈夫よ。それで、県さんの噂っていうのは。」

「いや…。ただの噂ですから。気にしないでください。」

 ひと段落ついてからお伺いしたのですが、やはり簡単には教えてくださいません。いつもなら「そうですか」と受け流すのですが、県さんのこととなるとそうは行かないのです。このままお聞きすることができなければ、たちどころに衰弱して、きっとそのまま死んでしまうでしょう。

 少し強く、しかし不審に思われないよう、再度お尋ねします。するとヘルパーさんもどなたかに零したかったのか、錆びて少し固くなった蛇口ほどの重い口を、開き始めました。

「いや、ねぇ。こんな眉唾物、『ある訳ない』って一蹴したいんですけどね。本部が『注意して見ててくれ』ってうるさくて。なんかその、あれみたいです。県さんが付いた方は一ヶ月以内に亡くなるってことらしいです、はい。まぁでも、あり得る訳ないじゃないですか。それに和子さん、お元気ですから。気にしないでくださいね。ただの噂ですし。」

 なるほど、そんなことか、と私は思いました。もう十二分に生きながらえた、そう思っている私にとって、それは悪い噂などではありません。先程までの切迫感は綺麗に消え去り、後には「どうしてこんな事で追い詰められていたのだろう」というあっけらかんとした心持ちだけが残っています。あぁ、これが恋たる哉。もしかしたら、恋が変わらないのではなく、私がいつまでも変わらないのかもしれません。

 その後、ヘルパーさんとお別れの言葉を交わし、マンションの一室で一人きりになりました。気付くと、すっかり疲れ切ってしまっていたみたいです。今日は色々ありましたから(実際には県さんにお会いしただけなのですけれど)。

 次にお会いするのは四日後。待ち遠しくもあるのですが、緊張で体調を崩してしまう可能性を考えると、このまま時が止まって欲しいと思う部分もある、なんて考えながら。ベッドで横になると、微睡に吸い込まれて、お夕飯を頂いていないなぁ、と思っても、もう遅くて。




「四日に一遍、必ずお会いできる」というのは思いの外、残酷でした。

 一日目は焦がれる思い、二日目はそれが収まってきたことへの罪悪感、三日目は明日への期待による過度な高揚。そんな調子で、気分は上下し、私の体は上から下まで疲労でいっぱいです。明日は県さんにお会いできるのに…。涙を零しかけて、またくたびれてしまいました。

 五日に一回なら、休息の日もあっただろう。お会いできないかもしれなければ、少しは現実的に考えられただろう。そう思いながら、今日も長い一日を終えました。




 朝起きて気がついたのですが、ヘルパーさんが来てくださっていたのは午後でした。意気消沈しながら朝食を頂いて、何もする気力が湧かないのでベッドで天井を眺めることにしました。眠いにも関わらず寝付けない、そんな状態のまま、インターホンの呼び出しを迎えました。

「こんにちは。お邪魔致します。どうかなさいましたか、お元気がなさそうですけれど。」

 お若いとはいえ、さすがに介護員さんです。勘付かれてしまいました。

「い、いやねぇ、最近ちょっと元気が出なくてね。大丈夫よ、きっと暑いせいだから。」

 実際に今年の夏は暑いので、まるっきりの出まかせということにはならないはずです。

「なるほど。すみません冷蔵庫の中を拝見させて頂いても構いませんか。」

 予想だにしなかったご質問に、深く考えずに承諾していました。

「お買い物も行かれていないようですね。分かりました、少し買い物に出てきます。後で掃除等は行いますので。」

 ご依頼していないことなので大丈夫です、とお伝えしたのですが、「和子さんが心配ですから。行ってきます。ベッドでお休みになっていてください。」と仰って、聞いてくださいません。

 そのまま私がベッドで横になるのを見届けて、県さんは出ていかれました。再び天井を見つめます。今度はすぐにでも寝付いてしまいそうでした。なんだか昔も同じようなことがあったような。あれは確か、私が風邪を引いた時のことのはず。そう、体調の悪い私を寝かせて、清士さんが看病してくださって。




 ぱちりと目を開くと、部屋が暗くなっていました。ゆっくりと起き上がると、既に十八時を回っています。ただ瞬きをしただけのつもりですが、数時間も寝てしまっていたようです。県さんはどうなさったのかしら、と部屋を見回そうとすると、食卓にお皿が並んでいることに気が付きました。見ると、美味しそうな料理と、走り書きされたメモのようです。

『申し訳ありません。お休みになっている所を起こしてしまうのは忍びなかったので、勝手にお暇させて頂きます。いくつか料理しましたので、お夕飯に召し上がってください。次回からはお買い物をしてから向かうことにしますので、お伺いする日の十一時までにご一報お願い致します。連絡先は以下に記載しておきます。』

 そこには電話番号が書かれていました。心臓の鼓動が早く、そして、強くなっています。ただただ番号を教えて頂いただけ。しかも仕事として。なのに、どうしてか気持ちがはやってしまいます。それを紛らわそうとお夕飯を頂いたのですが、これがとても美味しくて更にときめいてしまいました。眠ってしまおうと思っても、先程まで寝ていたのですからできるはずもありません。どうしたら良いのだろう、そう思っていた時に、ふと思い出しました。

 お会いできるのは、また四日後。その事実だけで、私の興奮は沈鬱に変わっていました。




 それから幾度も激しい感情の移り変わりを経ながら、県さんとの時を過ごしていったのですが、いつも部屋の中で少しお話をするだけでした。このままで良いのかと思い、私はある日、県さんを買い物にお誘いしました。せっかくのことですから、お洋服の買い物に(本来ヘルパーさんにご依頼できることではないのですが、この時の私は面の皮が厚くなっていました)。

 車で送り迎えしてくださるとのことでしたので、いつもより少し身を整えて、県さんをお待ちしていました。

 予定時刻まであと一時間。忘れ物等がないかの確認は既にしてしまっています。どうしようかと考えていた時に、県さんの噂を思い出しました。「一ヶ月以内に死んでしまう」。確かに私の場合は、気分の乱高下に伴って体調も良くなったり悪くなったりを繰り返しています。それでも死に至るほどではありません。

 きっと心無い方が流した陰口のようなものなのでしょう。そう思っていると、呼び鈴が鳴っていました。もうそんなにも時間が経ってしまったのかと驚きつつ、時間を確認するともう出発の時刻。私は急いで外へ飛び出し、県さんと共に駅前の百貨店へと向かいました。

「車なんて乗るの何時ぶりかしら。」

 助手席に乗せて頂いて、思わず窓を開けてはしゃいでしまいました。何十歳も若返った気分です。何でもないような話をいくつもしました。光に包まれたような感覚で、何を話したかは覚えていません。ですが、楽しかったことは覚えています。運転席に座る彼の横顔、流れていく風景、髪をたなびかせる風。これは記憶?それとも現実?どちらともつかないまま、二人きりの時間を過ごしました。

「着きました。さぁ、行きましょう。」

 彼の言葉で車を降り、いつも通り差し出された左腕に私も腕を組みかけます。お洋服のお店から、小物類のお店、宝石のお店まで、本来の目的でない場所も見て回りました。「これは似合うか」と伺って恥ずかしくなり、「あなたにはこれが合いそう」とお伝えしては彼が照れる、そんなことの繰り返し。そんな在り来たりなやりとりが、今の私にとってはこれ以上なく楽しいのでした。

 そのまま私たちは軽食のためにレストランへと入り、彼がお手洗いに行くと言って席を立つ、そこまでが私の記憶です。




 ここは公園でしょうか。なぜ私はここにいるのでしょう。彼はどこにいらっしゃるの。霧に包まれたように思い出せません。ひとまず家に帰れば良いのでしょうか。そもそも今日は違う日かもしれません。でももし彼をどこかで待たせてしまっていることがあったとしたら…。

 不安、恐怖、焦り。それらに負けてしまいそうになりながら、辺りを見渡してみます。何か、何か、手がかりはないのでしょうか。ベンチ、自動販売機、そしてあれは、公衆電話?私は走ります。この歳ですから、走っているつもりでも小走りにもなっていませんが。

 躓いて、派手に転んでしまいました。痛みと孤独感で泣きそうでも、それでも立ち上がります。なぜ、そこまで焦っているのでしょう。今思えば、自分の死期を悟っていたのかも。

 受話器を取り、お金を入れ、番号を打ちます。着信音の中で、考えました、この番号はどなたのでしょう。身体が覚えていた番号だったのですが。もし繋がらなかったら。その時はその時だ、そう思っていたら、繋がりました。

『もしもし、もしかして、和子さんですか。今どこにいらっしゃいますか。』

 彼のまくし立てる様子とは裏腹に、私は安心していました。良かった、声が聞けて。落ち着いたら、涙が出てきてしまいました。

「ごめんなさいね、私、何も覚えていなくて。気付かない内に、ボケちゃってたのね、私。ごめんなさいね。」

『そんなの大丈夫ですよ。どこにいらっしゃるか、分かりませんか。』

「ここは、ここは。ゆうぐれ公園。」

 そこで再び記憶が途切れました。今度は思い出せないのではなく、倒れてしまったから。原因は分かりません。頭に腫瘍でもあったのかしら、それとも熱中症かしら。虚な思考の中で私は、今日したことを思い出していました。

 ゆうぐれ公園、ここは清士さんがプロポーズしてくださった場所。その前に訪れた神社は、清士さんと初めてデートした所。その前は、その前は…。ここもさっき行ったかしら。これは今日のことじゃないのかも。あぁ、きっとこれは走馬灯。色々なことが混ぜこぜになって、何が何だか分からなくなる。それでも幸せなことだけは分かって。清士さんと出会えて本当に良かった。






 私の家系である県家は代々、口寄せを生業にしています。私は嫡子ではないので、口寄せ師としてお家を継ぐ訳ではありません。少しでもこの県家として生を受けたことを活かしたいと考えて、訪問介護員として働いています。

 死別と近い場所に居る以上、覚悟はしていましたが、降霊を利用した介護員というのは非常に苦しいものです。特に今回の場合は。

『お気になさらないでください。和子さんが招いたことですから。』

 清士さんはそう仰ってくださいました。ですが私は、憑依させていた清士さんの、最愛の方を殺してしまったのです。どう謝罪、贖罪すれば良いかも分かりません。

『気に病まないでください。私は大丈夫ですし、和子さんも気にしちゃあいませんよ。県さんも、和子さんの最期をご覧になったでしょう。とても幸せそうだった。あんな顔、私が死んでからは見ていませんでしたよ。』

 和子さんのことを思い出しました。私がゆうぐれ公園に着いた時には、既に意識はありませんでした。しかし、それでも確かに、とても、とても幸福そうなお顔をしていらっしゃいました。

『県さんは真面目ですね。まぁまだお若いから、悩めるだけ悩みなさいな。だけれど、一つだけ言わせて頂きたい。私はあなたのおかげで、生きた和子さんにもう一度お会いできたんです。これほど至福なことはありませんよ。心から感謝しております。ありがとうございました。申し訳ありませんがそろそろ和子さんがいらっしゃる。もう行かなくては。では、失礼いたします。』

 気付いたら、嗚咽をもらしていました。

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