二人のダニエル

 その老人と出会ったのは、僕が彼女の息子と呼ばれることがなくなってしばらくした頃だった。


 久しぶりの大きな町で、僕は彼女からお小遣いを与えられ大通りを歩いていた。そして、僕は人混みの中で、薬を売りに行った帰りの彼女を見つけた。

 黒いドレスも相まって、彼女の髪はそこだけ月の光が落ちているようで見間違えるはずがなかった。


 僕が彼女に呼びかける前に、ひとりの老人が彼女の前にすがるようにひざまずいた。物乞いかと思ったが、あまりに身なりが良く、熱烈に何事かを話しかけている。


 彼女はいつも僕にそうするように、老人に微笑みかけ、その手を撫でた。


 口の動きだけで彼女が何を囁いたかわかった。数え切れないほど聞いたからだ。


――愛してるわ。ダニエル。


 彼女の微笑みは、手のひらは僕だけのものではなかった。彼女のダニエルは、僕だけではなかった。


 くらくらと目眩がした。僕の世界は逆さまになってしまった。


 二人はほんの少しだけ会話をした後、彼女は僕の存在に気づかずに宿の方へ立ち去った。老人は彼女の後ろ姿を見えなくなるまで眺め、僕の隣を通り過ぎようとした。


 僕は思わず、老人の服の袖を掴んだ。


「あの、その、あなたも、ココのダニエルですか」


 曖昧な呼吸で告げれば、老人はその目尻の皺を一層に深くした。


「ああ、君が今のダニエルなんだね」


 老人はそう言って、僕を簡単に家に招いてくれた。


「炭鉱を逃げ出してね。森で動けなくなっていたところを彼女が見つけてくれたんだ」


 そうしてかつてのダニエルは彼女と船で海を渡り、ラクダで砂漠を越える旅をした。

 旅の終わりはあっけなく、彼女は新しい幼いダニエルを抱いて、銀貨が詰まった小袋を渡し、別れを告げた。


「まさかもう一度、彼女と会えるとは思えなかったし、彼女が一目で僕だとわかってくれるとは思わなかった。これで、安心して死ねる」


 老人は満足げに旅の顛末を語り終えた。

 いずれ僕自身も新しいダニエルに取って代わられると思えば、平静でいられない。それなのに、老人の落ち着き払った態度が僕にはわからなかった。


「旅は好きじゃなくなったんですか」


 老人は穏やかに微笑んで、僕を見た。


「そういうわけじゃない。ただ僕はもう、彼女とは行けない」

「どうして、ですか」

「知っているだろう。彼女は老いないし、死なない。人ひとりが一生をかけても足りないような世界の端から端に行く旅を繰り返している。僕がこんな老人になっても、彼女は七歳の僕を拾った時のままだ。僕はもう、彼女を置いていくことしかできない」


 それは翻って、僕に対して言われていた。僕の人生の時間は彼女には遠く及ばず、彼女は死を見送ることしかできない。


 僕が何も話せないでいると、不意に扉が開かれた。


 驚く間もなく、部屋の中に野の花を胸いっぱいに抱えた愛らしい少女が駆け込んできた。

 少女は僕に気がつくと、すぐに頬を赤く染めた。


「まあ、ごめんなさい、おじいさん。お客様がいらしたのね」

「問題ないよ。お客様はもうお帰りになるから。その花を私の部屋に飾ってきてくれないか」

「ええ。ああ、お客様もよろしければ一輪どうぞ」

「ありがとう」


 僕が差し出された白い野花を受け取ってお礼を言えば、彼女は明るく笑った。


「いいえ。騒がせてごめんなさい。ゆっくりしていって」


 少女は身を翻し、ぱたぱたと階段を上っていく。

 真昼のような少女だ。しかし、少しだけ髪の色が彼女に似ていた。


「あの子は孫なんだ。だから、もう私は行けなくても大丈夫」


 それから老人はゆっくりと椅子から立ち上がり、僕に彼女の下へ帰るように促した。


「さようなら、ダニエル。君は若い。君とココが上手く旅を続けられることを祈っているよ」


 老人に見送られ、一番星の輝く夕闇の町を僕は走って行った。


 息を切らして宿の部屋に戻ると、彼女は心配していた様子で立ち上がって僕に近づいた。


「ダニエル、お帰りなさい。遅かったね」

「ココ、ココ、これをあげます」


 僕がしおれかけた白い野花を差し出せば、彼女は僕が思ったとおりに微笑んだ。


「ありがとう、ダニエル」


 彼女が受け取ろうと手を伸ばした瞬間に、僕は花を差し出していた手を引っ込めた。


「約束してください。僕とずっと一緒にいていくれるって」

「ずっとは無理よ。あなたは私よりも早く死んでしまうもの」


 彼女は宙に浮いた手を下ろした。


「不死者になっても?」

「ほんのちょっと指先が触れただけで崩れ落ちてしまうのに?」


 彼女は珍しく語気を強めて言った。


「じゃあ、僕が約束します。ずっとココのそばにいるって」


 負けじと僕が言い返し、彼女の手に白い野花を押しつける。彼女は野花をくしゃりと握りつぶした。


「違うの。私が弱いだけなの。だから、そんな約束はしなくていいし、できない」


 彼女はそのまま、部屋から出て行った。

 僕は追いかけられずにその場に座り込んだ。


 誰も彼女に添えない。彼女自身も、それを信じていない。

 老人は彼女を置いていくことを恐れ、彼女は置いていかれることを恐れている。ゆえに彼女は大人になる前に育てたダニエルを手放すことを繰り返す。


 彼女は孤独を恐れて孤独を深めている。


 彼女が僕を見つけてくれなければ、僕はきっと今でも親が吊られた刑死場の前から一歩も動けないままだった。


 僕を救った彼女の旅が孤独のままに終わることを僕は許せなかった。

 だから、僕は最後のダニエルになろうと決めた。

 

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