第9話

 十一月最後の週の土曜日。待ちに待った、アキラ先生とのデート当日。朝の七時に目覚ましをセットしたが、六時五十五分に自動的に目が覚めた。それが近年まれに見る爽快な目覚めで、眠気がまったく残っていない。我ながら単純な構造をしている。

 外に出るとぞっとするほど寒いけれど、その寒さに立ち向かっていくような、出所不明な勇気が湧いている。自転車のペダルをグイグイ踏み込む。寒さで頬がヒリヒリするけれど、それも不思議に心地よい。調子に乗りすぎている。

 一時限目のドイツ語の授業では、四年生の学生が、ドイツビールについての研究発表をした。バイト代をはたいてドイツのビールを五種類仕入れ、みんなに飲ませてくれる。ドイツ国内では地ビールが主流で、数え切れないほどの種類があるのだそうだ。日本みたいにメジャーなブランドは無い。飲ませてもらったビールも、聞いたことのないような名前だった。しかし非常においしい。暖房の効いた部屋の中、冷たいビールが胃にスルスルと入っていく。つまみはドイツチーズひとかけら。

「みんな二十歳以上だよな? 堕落するのは、二十歳まで待てよ!」

 ドイツ語の北野先生がそう言って、学生に年齢確認をしていた。それを尻目に、みんなうまそうに飲んでいる。朝ビールも悪くない。ますます僕のテンションは上がる。

 一時限目が終わって、いつものように学食に行く。朝飯を食べていないので、とてもお腹が空いている。見本の並ぶガラスケースの前で、いつもは長時間迷ってしまうのだが、今日は決まっている。飲んだ後はラーメンしかない。自分としては大盤振る舞いなのだが、四百五十円、チャーシュー麺を注文する。

 まだ十一時にもなっていない。図書館で一眠りしようか。外に出たら太陽の日差しがじんわりと温かい。少し日向ぼっこをしたいと思う。校舎に戻ってエレベーターの最上階のボタンを押す。旧校舎の屋上は、いつもはカップルでにぎわっているけれど、今の時間帯はさすがに人がいなかった。ベンチに座ってお日様を見上げる。

 ビールの酔いが少しずつさめて行くのが分かる。気持ちが、とても落ち着いている。今のこのときが、今年のハイライトかも知れないと思ったりする。冷たい風が吹いて、屋上のベンチに座っている僕は凍えている。眼下に見えている植え込みの大きな木のように、ずっと風にさらされていたい。空を見上げて、太陽はとても遠くにあるんだなと思う。宇宙のはるか遠くから僕の額に、太陽の熱がほんのちょっぴり届いている。

 気分はいいけれど、いい加減寒くなってきたのでベンチから立ち上がった。寒さで筋肉が固まっていて、足が上手く動かない。体を引きつらせながらよろよろ歩く。ようやく温かい校舎に戻ったら大きなくしゃみが一つ出た。風邪を引いたかな、と思ったけれど、くしゃみはその一つだけだった。


 2時半ごろまで図書館にいて、ようやく自転車で浅草に向かう。ほぼ道は直線なので快調に飛ばす。いつもの中華料理店に自転車を止めたら、二時五十分。ペース配分もばっちりだ。

 部屋に入ったらアキラ先生がいない。いつものように遅刻だ。待っている間、タマキ先輩と大学受験について話し込む。大輔君はお年よりグループに顔を出しているようだ。

 ようやく3時半ごろに現れたアキラ先生は、ばっちりお化粧を決めて、なんだか高級な服を着ている。

「いやー、支度に手間取っちゃった。ごめんごめん」

 しゃべり方はいつもと同じ。だけどずいぶん雰囲気が違う。

「アキラ先生、すてき」

 タマキ先輩がそう言って、まぶしそうにしてため息をついた。

「なんというか……圧倒されました。きれいだなあ。ほんとにアキラ先生ですか?」

 馬鹿なことを言ってしまう。

「ね? わたしらしくないでしょう。これはいわゆる、ディフェンスのスタイルなのよ」

 アキラ先生が言った。

「ディフェンスって、何に対するディフェンスですか」

「外の世界よ。具体的に言うと、電車に乗って浅草を離れたときから、戦いは始まるわね」

 アキラ先生が鼻息荒く言った。戦いか……。

「先生、これワンピース? 変わってる」

 タマキ先輩が、アキラ先生の服をじっと見ている。

「そう? 変じゃない?」

「ううん。すてき」

 タマキ先輩が言った。僕もたいそう素敵だと思った。いつもはヒッピーみたいな格好なのに、今日はどこぞのお嬢様と言った感じだ。

 大輔君が戻ってきて、アキラ先生の姿を見て一瞬固まった。それからとても嬉しそうな顔をした。

 五時ごろ練習を切り上げて、僕とアキラ先生はいよいよ池袋に向かう。商店街の入り口で、大輔君とタマキ先輩が手を振ってお見送りしてくれた。二人にはほんとにお世話になっている。ありがとうございます。

「アキラ先生、バスでもいいですか? バスだと乗り換え無しなんですよ」

「え? ほんとに? じゃあ、バスで行きましょう。てっきり地下鉄とか乗るもんだと思ってた」

「バスで行けば、外の世界と戦わなくて済みますか?」

「そうねー。平和的にいけるといいんだけどねえ。勝負勝負」

 アキラ先生が力強く頷いて言った。あまり平和的な感じではない。 

 池袋まで一時間ぐらい。バスに揺られてたどり着いた。僕らはバスの中で、ずっと馬鹿な話をして笑っていた。

 池袋の街に降り立つと結構な人ごみで、アキラ先生の顔を見たら梅干を食べた子供みたいに顔がゆがんでいる。しんどいと言うことだろう。力の抜けたアキラ先生がとぼとぼ歩くので、思い切って手をつなぐ。アキラ先生を引っ張るようにして、映画館を目指して歩く。

「アキラ先生、お腹空いてないですか」

 僕は言った。

「空いてても、食べる気がしない……」

 ぼんやりした感じでアキラ先生が言った。弱ってるなあ。

 映画館にたどり着き、時計を見ると六時半。映画は七時からだ。映画館のロビーは狭いけれどなかなかいい雰囲気で、アキラ先生も少し復活してきた様子。コーヒーが飲みたいと言うので、僕は近くのスタバまで走った。

 映画の前の回が終わって、お客さんがパラパラ出てくる。土曜の夜だというのに、お客が入っていない。ドイツ語訳のちょっと古い映画なんて、あまり見る気にはならないだろう。僕もどちらかというと見たくない。採算が取れてないだろうな……。好きだけど、こういう映画館。

 予想していなかったのだが、映画は字幕が無かった。つまり、ドイツ語の音声のみ。「オペラ座の怪人」という名前は知っているが、ストーリーまでは知らない。なんとなく三角関係なのは分かった。しかしそれ以上は分からなかった。終盤、やたらと盛り上がっているが、なんで盛り上がっているのかが分からない。ただ、確かに歌は良かった。アキラ先生の歌を思い出すような迫力だった。

 二時間見て、映画館の外に出る。外はもう真っ暗だ。

「アキラ先生、どうでしたか」

「うん。よかったー。ほんとよかった。でもドイツ語だと、ちょっと言い回しが窮屈だよね」

「アキラ先生、ドイツ語のリスニング出来るんですか?」

「うん。主に歌はね。守山さんも勉強してるんでしょ?」

「いや、僕はこのまえ、学校で受けさせられたドイツ語検定三級落ちましたから」

 しゃべってればすぐ覚えるわよ、とアキラ先生が言ったが、そんな環境あるはずも無い。 

「この喜びを失わないうちに、早く帰ろうよ」

 げ、もう帰るのですか。

「アキラ先生、お願いが。池袋に、おいしいモツ煮込みのお店があるんですよ。ちょっとだけ付き合ってもらえませんか」

 デートが終わってしまう。

「……池袋で飲まなくてもいいんじゃない? 浅草に戻って飲もうよ」

 アキラ先生が懇願するように言う。

「……分かりました。アキラ先生に、ちょっと食べさせたい味だったんですけどね……」

「また今度ね?」

「本当かなあ」

 嘘っぽいなあ。

 またバスに乗って一時間。浅草に帰ってきた。バスを降りて、途端に元気になるアキラ先生。

「よーし、今夜は飲むぞー。朝までコースで」

 今度はアキラ先生が、僕の手を取ってぐいぐい引っ張って歩く。人気のない商店街の中。なぜだか急にドキドキしてきた。

「アキラ先生」

 立ち止まって僕は言った。アキラ先生が振り返る。

「大丈夫。夜は長いわよ。人生も、長いんだから」

 そう言ってアキラ先生が、僕にキスしてくれた。一瞬だったけど、頭の真ん中が痺れるようなキスだった。

「ほら、いくよ!」

 ぼうっとしている僕の手を引っ張って、またアキラ先生が歩き始めた。


 僕はまだ口笛教室に通っている。それで、ときどきアキラ先生とモツ煮込みを食べ歩いている。アキラ先生は歌のレッスンを再開した。最近、北野ビルの裏口の店で、みんなでラーメンを食べた。ただ、それだけ。変わらない日常。


「守山さん、アキラ先生の家に泊まったんですか?」

 大輔君がにっこり笑って言う。

「……うん。酔っ払って、泊めてもらいました」

「ご両親にあいさつされたとか」

 大輔君はなんでも知っている……。

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口笛ピリピリ、モツ煮込みゾロゾロ ぺしみん @pessimin

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