涼州詞
ねこK・T
涼州詞
月は密やかに砂漠を照らしている。砂漠の砂も一粒一粒が光を弾いて光り輝く。
月が見慣れた黄色ではなく、白っぽく見えるのは――この目に溜まった涙のせいだろうか。
――夜は、更けてゆく。
周囲では男たちが砂漠に直に座り込み、思い思いに寛いでいる。手には色も鮮やかな硝子の杯。杯に注がれた葡萄酒が鼻先をくすぐる。
その杯の酒に映った月を見つめていると、後ろから声をかけられた。
「おう。飲まないのか?」
「いや。そうじゃないんだが……。どうも、いつも使うようなものと違ってな」
いつも飲むのは陶器の杯に白い酒だ。このように色鮮やかな硝子の杯に赤い酒なんて、飲んだこともなかった。西方の酒だという。こんな風にここまで来なければ、一生飲むこともなかっただろう。
私は口元に薄く苦笑を浮かべると、杯に口をつけた。一口含む。やわらかく甘い味が口の中に広がる。
本格的に飲もうとまた杯を持ち上げると、向こうの方で騒ぎが起こった。杯を持ったまま顔を向けると、馬上で琵琶を演奏しようとする様子が見てとれた。
馬の上の男は上手く均衡を保ちながら弾いているのだが、さすがに揺れる度に音が途切れる。時には馬の揺さぶりが激しくて振り落とされそうになる。その度に周りの男達からは笑いが起こった。どうやら酒宴の出し物代わりに楽しんでいるらしい。
「何をやってるんだか……。おっと危ない。今、落ちそうだったぞ」
先ほどの男はいつしか隣に座っていた。目を細めて優しく笑むと、彼は飲みかけの酒を口に持ってゆく。
「まあ……みんな、寂しいんだよ」
彼へ小さく答えを返すと、私は目を瞑った。「寂しい」という言葉を自分自身で噛み締める。他の人々だけではない。――自分にも、当てはまる。
私は寂しい気持ちを打ち消すように、ぐっと酒を飲み干した。喉の奥に流れていった酒の味は、甘い筈なのに、微かに苦かった。
酔いがすっかり身体中に回って、頭の奥がくらりと揺れた。そのまま座っているのももどかしくなり、砂の上に倒れこむ。袖や襟の間から砂が入ってきたのか、ちくちくとした感触が身体のあちこちを刺した。私は瞳を閉じる。
「――おい、大丈夫か?」
しばらく経ったころ、先ほど声をかけてくれた男のものだろうか、頭の上から言葉が降ってきた。その声も酔いのせいか少しぼやけて聞こえる。
「ああ……多分大丈夫だ」
「大丈夫そうには見えねえな」
私は砂に寝ころんだまま瞼を開けた――見上げた夜空に輝く月と星。星座は見慣れたものとは全く違っていて、故郷との距離を嫌でも感じてしまう。けれど、頭上に見えるこの月は一緒のはずだ。
「かみさんと子供が……いるんだよ。置いてきちまった……。子供が、泣いててさ」
私の口をついて出たのは、そんな言葉だった。
瞼の裏に浮かぶのは、どれも笑顔ではなく泣き顔だ。どうしてこんなにも胸を締め付けるのか。
「――俺も、お袋を置いてきちまったんだ。お袋、脚が悪くてさ。一人で暮らすのなんて大変なのに、俺を笑って見送ってくれて――」
隣に座った男からも、そんな悲しい言葉が漏れた。
彼の言葉に耳を傾けつつ、私は夜空をまた見上げた。大切な人も、この同じ月を眺めているはずで、だからこそ、思うことは一つだけだ。
「……死にたく、ねえな」
「ああ――帰りたいな」
酔いに酔って砂の上に倒れ込もうとも、笑わないでくれまいか――こんな西域で一人きり。大切な人々を全て捨てて赴くのは戦の地。
寂しさを紛らわすためには酒しかなく。酒に溺れて頭の中が真っ白になっても、どうしてもこの胸の痛みだけは取れない。
――無事に帰りたい。思いは一つ。
けれど、無事に帰ってきた者など、幾人もいないことを知っているから。
涙はとめどなく流れ、砂の上を濡らしてゆく。滲んだ月は白く、聞こえる喧騒は遠い。口の中に残った、微かな甘い匂いが思考を溶かしてゆく。
夜は更ける。
白い月が、砂漠を淡く照らしていた。
* * * * *
王翰の漢詩「涼州詞」を元に。
葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人回
葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲して琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥す 君笑う莫れ
古来征戦 幾人か回る
涼州詞 ねこK・T @transparent_cat
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます