第6話

 森のなかは、くらげでいっぱいでした。ぼんやりと発光し、ふわふわと宙を浮くくらげたち。触手を伸ばしかさを閉じたり開いたりしてふんわりしている白く光るくらげたち。不思議と鬱陶しくなくて、むしろ好ましかったのです。幻想的な光景でしたが、わたしはこのくらげたちの正体がなんなのかなんとなく、わかりました。このくらげたちは悪意も殺意も持っていない。でもただわたしのことを仲間だと思って歓迎すらしてくれているようでした。丁重にお断りしたい気分でしたが。

 くらげの溢れる森のなかにいると、空が見えました。弓張り月が夜空にうすく浮かんでいました。ぼうっとしていると、わたしもくらげたちの仲間になってしまいそうに、無意識的な受動的な頭になりそうになったので、急いで森を抜けることだけを考えて奥へ進んでいきました。

〈……だ。……まだ。〉

 くらげたちが、わたしに声をかけます。

 まだ?

 なにが言いたいのだろう。

〈おまえは……まだ〉

 木々が、わたしをとり囲み、今にも襲いかかろうとしてのぞきこんで様子をうかがっているかのようでした。わたしは、木々がこのとき初めて恐ろしいものだとはっきりとわかりました。早く逃げないと。早く逃げて安全な場所に行かないと。あたりはゆらゆらと葉々を揺らし枝をしならせ、幹を曲げる樹木たちで満ち満ちていました。あるときからまるで墜落して骨の折れた飛行機の骨格しか残っていない残骸のような木たちが至る所に落ちるように生えていました。潰れたテントのフレームをさらに上から叩き潰したような奇妙な木たちの姿は、ある意味奇妙に狂っていてどこか美的で、絵画的ですらありました。この森はなにかがおかしい。なんでどの木も異様に曲がりくねってひしゃげているの? はじめはまっすぐだったはずの空へ向かって姿をしゃんとさせ伸びていた森のなかの木々が、歩みを進めるたびに、歪みまくり曲がりまくりぐねぐねとだれかに意地悪されたかのように根だろうが枝だろうが幹だろうがなんだろうが、頭をたれ土下座をするかのように地面を這っているのでした。それは笑ってしまいたくなるくらい異質な光景でした。

気味が悪い。

 おかげで、空は広くなったようでした。鬱蒼と茂る木々の気配から遠のいて行くと、空のなかも飛んでいけそうなくらい、清々しい気持ちになりました。背後で光っていた思わせぶりな狂人たちの象徴であるくらげたちが恨みがましく、わたしに言いました。しっかりとわたしの耳が聞きとりました。

〈おまえは、悪魔だ〉

 悪魔。

わたしが? どうして?

〈おまえは悪魔なんだよ〉

 わたしは、悪魔なの?

 そう胸中で問うと、くらげたちは一瞬嬉しそうに笑いました。嫌な笑い方ではなく、赤子が笑うようなうすいふにゃりとした微笑みでした。

 だからなんなの?

 わたしはくらげを睨みつけて、低く吐き捨てました。わたしが悪魔だったら、あなたたちになにか関係があるわけ? 放っておいてよ。

 わたしがそう答えると、くらげたちはさらににやにやと笑いました。嬉しいのか哀しいのか可笑しいのかよくわからない笑い方でした。

 くらげなんかと遊んでいる場合じゃない。くらげなんてわたしはどうでもいい。

 いらいらと地面を蹴りながら歩みを進めていると、森の奥に、建物を見つけました。館のような大きな建物です。近づいてみると、赤い洋館でした。

 なんだか気が狂いそうになってしまいました。その赤い建物を通り過ぎることにして、だれにも見つかりませんように、と祈りながらそっと歩いて行きました。不意に後ろを振り返ると、わたしの黒い影が背後で長く伸びて勝手な動きをして自由に楽しそうに踊っていました。ここはどうかしているんじゃないのか。わたしの影ですら狂っている。もうなにも信じられないのではないのか。信じるという姿勢自体が間違っているのではないのか。もう楽しむとか観賞するとか別の考え方にした方がいいのではないか。そんな気がしました。

 赤い洋館の窓には橙のひかりが零れていて、だれかがいるようでした。でもわたしはそのひかりに懐かしさや安堵を感じるはずもなく、ただ畏れてしまって気後れし、近づいてはいけないのだと思い込み、そっと離れて足音を消しながら立ち去りました。人に見つかりたくない。どうしても、わたしは昔から、ひとと話すのが苦手で、いつも人目を避けていました。だから、こんなところでだれかに出会ってもきっとうまく話ができないのです。だから、いいんです。わたしはだれとも話をしないで、だれにも見つからずにどこかへ行ってしまえばいいから。漂流しているだけで、精いっぱいなのだから。そう自分に言い聞かせました。だれにも自分の姿を見られませんように。

 赤い洋館を通り過ぎると、赤い洋館は再び奇妙にだれかが操作しているかのように、一瞬で炎に包まれました。あっと声が出そうになったのもつかの間、赤い洋館に火がまわってもう手遅れなほど燃えていました。わたしは遠くでそれを立ちどまって見ていましたが、一瞬のことでどうすることもできずに、ただその館が焼け落ちていくところや空を焦がすほどの勢いで炎が洋館を燃やしつくしていく様子をただじっと見送っていることだけしかできませんでした。中にいる人たちを助けに行かなければならないような衝動に駆られましたが、わたしにはその一歩を進めること、すなわちこの場所から走り出して洋館に向かっていくことが、どうしてもできないのでした。わたしが今その燃え上がる紅い洋館に走り寄っていったところで、なんの役に立つでしょうか? なんの役にも立たずに新たな犠牲者のうちの一人に加わるだけでしょう。そのくらいわたしにも充分わかりましたし、もうすでに消火などは手遅れだとわかるほど火の手が広がって、辺りが火の海と化しているのですから。暗い夜空を赤や橙の炎が照らしだします。そもそもなぜ赤い洋館が燃えなければならなかったのでしょうか? なぜ突然火事が起きたのでしょうか? 中にいる人たちはどうなってしまったのでしょうか? いろいろなことが思い浮かびますが、結局勇気のないわたしにはどうすることもできませんでした。ぱちぱちと火の爆ぜる音、ごうごうと燃え盛る炎の音、黒く炭と灰になって役に立たないものになっていく赤い洋館だったものを見つめていると、この洋館は、一体なんのためにそこに建っていたのだろうかと不思議に思うなどという全然関係ないことが頭のなかをよぎるのでした。だれがなんのために建て、そこに住んでいたのでしょう。こんな森のなかにこんな館なんか建てて、なんの意味があったのでしょうか? 相変わらず洋館は燃えているが、持ち主は焼身自殺でもしたかったのでしょうか? わたしはひどく無力で無気力な存在ですから、助けに行くこともできないし、消防車を呼ぶこともできないんですけど、どうしたらいいのですか? こういうときは、どうしたらいいのでしょうか? 困惑しているわたしを放ったらかしにして、洋館はそうこうしてウィル打ちに真黒な燃え滓になってしまったのでした。火力が圧倒的に強すぎていたのか、何時間も見ていたつもりはなかったのですが、赤い洋館は、黒く焦げたかつて洋館だったものと化してしまいました。火の燃える臭い、ものが焼ける嫌な臭いは、炭と灰といろいろなものが焦げた悪質な匂いに変って、いつまでもわたしの鼻腔の奥を刺激するのでした。

 赤い洋館だったものが黒い燃え滓に変った後、わたしは痺れていた両足をやっとのことで動かし、別の場所に移ることにしました。ふらふらしながらその場を後にすると、背後から人の声がしました。

「あれはおまえの家だったんだよ」

 後ろを振り返っても、だれもいなくて、背筋がぞっとしました。地面から、わたしの笑い声がして、わたしは、ああ、この自分の影がしゃべったのだな、と理解し、再び洋館を眺めて、茫然としました。

 今まで赤い洋館だと思っていたのは、本当は、まぎれもない、あの見慣れた住み慣れたわたしの家だったのです。わたしの家が燃えていた? どういうことなのか、全然わかりませんでしたが、よく見てみると、どうも私の家によく似ているとしか思えないところばかりだったのです。わたしは自分の家だったものに走って近寄ってみました。足が震えて止まらなくて、泣き出してしまいそうで、思わず転びそうになってしまいました。

 玄関。そうあの焼け焦げた傘であろうものはどう見てもわたしのお気に入りの水色の花の模様の入った可愛らしい傘でした。あの靴箱のあった場所。どう考えても頭のなかにある自分の家と同じ間取りです。長い廊下だったもの。トイレ。あのファブリックの燃え残った切れ端にはどうも見覚えがあります。洗面所。バスルーム。狭い浴槽。小さいころからよく見ていたあのタイル。キッチン。銀色の冷蔵庫。リビング。黒いテーブル。わたしの部屋。でもだれもいません。わたしはため息をほっとついて、次の部屋に向かいました。和室。洋室。全部部屋を見てまわりましたが、結局だれも見つかりませんでした。あのときは、火事になる前は、だれか人がいるような気がしたのに、この家には、だれもいませんでしたし、人の死体も一つも見つかりませんでした。安心するべきなのかよろこんでいいことなのか、判断に困りましたが、不幸中の幸いと呼べるものなんでしょうか。わたしの家が燃えてしまった。どうしたらいいのだろう。嘆き悲しみたい気持ちにもなりましたが、わたしの家は森のなかにはなかった、この家はわたしの家ではないと信じたい気持ちがまだどこかにありました。困惑しながらも期待し希望に縋りたくなる気持ち。ここはわたしの家によく似ているけど、わたしの家ではない。そんな気がする。奇妙にわたしの家によく似た、別の人の家だったのではないでしょうか。そうだったらいいのに。絶対にそうだ。そうに違いない。だって元々は赤い洋館だったじゃないですか。わたしの家ではないはずです。わたしが家だったものを気にしながら後ろを何度も振り返りながら、辺りを見まわしながらうろうろと未練がましく歩いていると、ここがわたしの住んでいた住宅街であることに気づきました。迷路のように気が遠くなりそうなほどいりくんだ細やかな細い道や所狭しと並ぶ四角い家たち。にどこかよく似た、模倣したような四角い黒い現代風の新しい家が、そっくりそのままハンコを押したように立ち並ぶ住宅街がそこにありました。どこもかしこも悪夢のように同じ家ばかり並んでいます。不安げに空を見上げていても夜空です。月が静かにわたしを見おろしてきます。家に帰りたいのだけれど。わたしは月に向かって祈りました。カーブを描く半円型の白い電灯のお月様の顔をしたあの不気味な存在とお話ができないかな。家の自分の部屋に帰りたいのだけれど。そう思って空の月に向かってあの月に話しかけたくて、気がついたら私は自分の家にいましたみたいな展開にならないかなとか思っていても、どうしようもなくて、なにも変らなくて、わたしは自分の背後でやっぱり踊っている影に話しかけました。

「ねえ」

〈わたしの家はもう燃えてしまったから、おまえの家はどこにもないことになるね。あーあ、かわいそう〉

 影はそう言って一人で楽しそうに踊っていました。わたしは俯いて住宅街のなかをあてもなく歩きだしました。この住宅街を抜けたら。この先にはきっと。どこにたどりつくというのでしょうか。わたしはどこへもいけないのです。どこへも行けるけど、どこへも行けない。そんなこと、わかりきっていることなのに、わたしはどうして放浪して、居場所を探し続けるのでしょう。馬鹿げているし、意味のないことなのに、えさを求めてさまよう狩猟動物になったかのような気持ちになりました。

 父親と母はどこにいるのだろう。家は燃えちゃったよ?

 そう伝えに行きたいけど、どこにいるのかわかりません。どうしたらいいのだろうか。住宅街のなかをうろうろしていると、やがて冷たい雨が降ってきて、傘を持っていないし、ずぶぬれになってしまうしかないのかと思っていると、身体がだんだん溶けていってしまってきて、どうやらあたし溶けてるっぽいとか思っていたらだんだん体が透けてきました。ドロドロになった身体が重たいなあと感じながら溶けた部分を引きずって歩いていると、とうとう本降りになって、滝のような雨に打たれて、わたしはとうとう雨に溶けた液体になって、排水溝のそばを通ってどこかへ流れて行ってしまいました。わたしはどこへ行くのだろうと身体から離れた魂だけになって、崩れたワンピースだった残骸を眺めていたら、ふわっと強い風が吹いたので、翻って夜空へ舞い上がって、そうだ、あの月まで飛んでいけたらいいのにと思いついて楽しくなって、気がついたら上空の方まで行ってしまいました。飛んで流されて風に吹かれているのが心地がいいので、そうやっていつまでも一人で遊んでいると、さすがに馬鹿みたいに雨が降るし、飛ぶのに雨粒が邪魔をしてくるものだから、雲を越えたらいいんじゃないかと思いいたりました。夜の雨雲まで飛んでいくのに難儀していると、お月様がげらげらと笑い出したのが見えました。

〈ねえ、そんなにおかしい?〉そう問うたつもりでした。

 半円上のカーブを描いた細い月は歯をむき出して笑いながら答えてくれました。

〈川田十和子、なにをしてるの?〉

〈どこかへ行きたいんだけど、どこへも行けないの。どうしたらいいかな〉

〈笑っちゃうね。そんな贅沢な悩み羨ましいね。まだ働けないなら家で寝てればいいのに〉

〈もう家はないんだよ。火事になったから〉

〈漂流者の流れつくところはどこなんだろうね? お金を稼がないと食いっぱぐれるよそのうち〉

〈あたし魂なんだよ?〉

〈まあ確かにそうだけど〉

〈ねえ天国はどこにあるか知らない? あたし、死んだんでしょ?〉

〈天国へも地獄へも行けない存在がいることをきみは知らないんだねえ〉

〈ねえ、行くべき場所を一緒に考えてよ。真剣に困ってるからさ〉

〈漂ってればいいんじゃない? 楽しそうじゃん〉

〈そういうわけにもいかないんだけど。すごく雨降ってるし〉

〈きみはいったいなにがしたかったの? 思い出して〉

 そう言われて答えに困っていると、ふっと体が重くなりました。ぐんと引っぱられるような感覚がして、わたしの目の前は真っ暗になり、意識が途切れてしまいました。



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泣き虫ニートの日常。 寅田大愛 @lovelove48torata

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