第5話

 


わたしは、しばらく眠っていたようでした。目を覚ますと、相変わらずあの水の流れるなにもない広い空間に横たわっているままでした。自分の体の横に気配を感じて、起き上がると、隣に、白い人骨がありました。身長はわたしと同じくらいで、骨だったもので、わたしには性別はわかりませんでしたが、酷く疲れる気持ちがしたので、その場所からそっと起き上がって離れました。あの骨はいったいだれの骨なのだろう? 仰向けに寝ていて、胸のあたりで両手を組んで安置されている人骨。どこのだれだかわからないけど、いつまでも添い寝している場合じゃない。人骨。怖いし、恐ろしいけど、別に、わたしにはあまり関係ないような気がしていましたし、同時に、懐かしいような気もしました。この不思議な感情が一体何なのかわたしにはうまく言葉にできませんが、ただの恐怖、とかではないようでした。さようなら、とだけわたしはつぶやいて、暗がりのなかを歩きはじめました。水音を立てて、どこからともなく流れる、よくききとれない音楽を聴きながら。

 しばらく歩くと、一本の橋がありました。今にも崩れそうな、ぼろぼろの木のつり橋でした。大きさはかなりあって、しっかりとしたものだったのだろうと予想はつきましたが、劣化が酷いようでした。どこからともなく吹いてくる風にきしきしと小さく音を立ててわずかに揺れていました。この橋を渡って向こうへ行ってしまったら、一体どこに辿り着くのだろう? ただ純粋に、わたしはそう思い、夢でも見ているような気分で、橋を渡ってみてもいいかもしれない、と独りごちました。どうせわたしには行くべき場所なんてないし、居場所なんてどこにもないし、どこへも帰りたくもないし、帰れないのだろうから。水辺にいつまでも佇んで、一体なにが楽しいというのか。

 橋への一歩目を踏み入れたとき、酷く揺れたので、わたしは思わず手すりを掴んでしまいました。二歩目、三歩目を進めているうちに、わたしはあることに気づきました。つり橋の下から、だれかの声が聞こえる。おおーい、おぉーい。だれかが呼んでいました。一人二人ではありません。たくさんの人の声でした。そのたくさんの人がわたしを呼んでいるようでした。おーい。わたしは早く橋の向こうへ渡り切ってしまわなければ、と半ば本能的にそう感じ、橋の下を意図的に見ませんでした。見てはいけない。そんな気がしたのです。だって下は。そう、橋の下は、真っ暗で、だれの気配もはじめはしなかったのですから。だれもいないはずの暗がりから大勢の声がする。不気味ですよね。わたしは黒い影のような存在が橋の下に群がっている気配を感じました。上って来ている? どうやって? 橋を渡り終えるか終わらないかのうちに、背後で橋が綺麗に、なにかの機械仕掛けか仕組まれた罠かのようにがしゃがしゃんと崩れ落ちていきました。振り返ると、低く歓声が沸きました。橋の下には、深い谷があって、そこにたくさんの数えきれないほどの黒い人影のような人間の姿をしたなにかが、ひしめいていました。落ちて行った橋に人々は叫びながらそれぞれ細い手を伸ばして群がりました。蟻の群れのなかに砂糖水をまいたかのように人々は大声をあげ、橋を覆いつくしました。橋は音を立てずに、崩壊し、やがて見えなくなりました。わたしが黒い谷だと思っていたのはすべて、真黒な人影たちでした。ぎゅうぎゅう詰めにそこにいる人たちは、無数の死者たちだ。わたしはそう悟って、橋の向こう側に広がる森のなかに振り返って駆け込みました。わたしは底には絶対に行きたくない。だってそこに行ったら絶対に不幸になるだろうから。そのことを感づいたので、わたしは真っ暗な森のなかをひた走りました。

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