ラヴレター

@kaede0808

ラヴレター

 ――たとえばこの手紙(ラヴレター)をあなたが読まなかったとしても、あるいは読むことの代償として他になにができるというのでしょうか。


 学校から帰ってきて部屋で一人こっそりと読みはじめた手紙の感想は、一言であらわすならば「は?」であり、いちおう何度も読み返してみたが、しかしその感想は変わらず、変わらないどころかその強度を増していくようだった。

 手紙の書き出しにあるように、これはラヴレターらしい。いまどき、手紙をもらうことだってほとんどないのに、ましてやラヴレターなんて一度ももらったことない。最後に手紙をもらったのは小学校の卒業式の日に友達だった結衣ちゃんからのもので、結衣ちゃんは中学から引越して遠くに行くらしく、それでもずっと友達でいようねとお互いに泣きじゃくり合ったものだが、もちろんいまでは連絡などとりあっていない。あれからまだ一年ちょっとしか経っていないのだけれど、しかしこんなことはありふれていて、きっと私たちの友情なんてものはいつだってそんなものにすぎないのだろう。

  手紙(ラヴレターと表現するのはあまりにも気持ち悪いので手紙とする)の差出人は同じクラスの宮下みどりで、私はみどりとはほとんど話したこともない。一年生のときは違うクラスだったし、それにみどりは転校生だったから、この学校にきてまだ数ヶ月しか経っていなかった。転校生は私たちからすれば目立つ存在だったけれど、転校生であるみどりからすれば私は数百人いる生徒のうちの一人にすぎないだろうから、そもそも私の存在を認識しているのかさえあやしいと思っていたくらいだった。そんなところに手紙をわたされた。放課後だった。二年生になってそろそろ一ヶ月が経とうとしていた。なんとなくクラス内のグループができはじめていて、いちおう私もそのうちの一つにいる感じだった。一年のときから仲の良かった美羽がずっと私のそばにいて離れず、それに引き寄せられるようにして二人くらいが集まったらそれはもう集団だった。地味すぎず派手すぎない感じの雰囲気で、悪くないと私は思った。一方で宮下みどりは浮いていた。どこのグループにも所属していないようにみえた。それはなにも誰かが意図的に仲間外れをしようとしたわけでもなく、どちらかと言えば彼女自身がそうなることを望んでいるようだった。転校してきたときからずっとこうなのか、私は彼女のことをほとんどしらなかったからわからなかった。とにかくそんな彼女は急に私に話しかけて、私は手紙のようなものをわたされ、家に帰ってから一人で読んでほしいと言われたのだった。私は目的がよくわからずとりあえず曖昧にうなずいて、言われたとおりに部屋で一人で読んだ。そしてその感想が「は?」であった。

 

 ――あなたはもしかしたら私のことをしらないかもしれないけれど、私はこの町にきてからずっとあなたのことをみていたのです。私は幽霊のように(ストーカーという言葉は使わないでください)あなたのことを追いかけてきました。だけどもう我慢できなくて、このラヴレターを手渡すことにしました。あなたを花にたとえるなら、いやしかし、たとえられないのです。あなたはあなたでしかないのだから。そして私はあなたにはなれないのだから。


 手紙は、やたらと長かった。思い返せば受け取ったときに厚みを感じた。違和感はあったがそのときは気がつかなかった。なんだ、これ。答辞かよ。しかしその長さのわりに手紙から読み取れることは少なかった。


 ――夢にあなたが出てくるならば、私はそれで満足するでしょうか。あるいは欲望を強化させるだけでしょうか。どちらにせよ同じことなのかもしれません。だってもう出会ってしまったのだから。その責任をすべてあなたに押しつけるのは罪でしょうか? それとも祝福に似ていて?

 

 もはや意味がわからなかった。結局この手紙でなにが言いたいのかはっきりさせろよ、と悪態をつきながらも私は最初から最後まで三回読み通した。三十分かかった。まったくもって時間を無駄にした。それでわかったことといえば宮下みどりはどうやら私にラヴレターを書いていて、しかしそれはつまりどういう意味なんだ。やっぱりなにもわからない。なんか怖くなってきた。これはなにかの嫌がらせなのだろうか。宮下みどりになにかをした記憶は、なにもないのだけれど。

 

 ――ところであなたがもしこの手紙を読んでいるならこう思うでしょう。結局、なにが言いたいのかと。


 そうだそうだ、と私は心の中で強く同意して、それと同時になんだか見透かされているようで気にくわなくなる。いいから早く結論を言えよ。日本人の悪いところだぞ、と思う。まず最初に自分の主張したいことを言う欧米を見習え。


 ――しかしそれを言うことは、少なくとも文字にして書き記すことは、いまの私にはあまりに困難なことです。なので、ぜひよかったら直接私と会ってくれませんか。明日、学校の近くの公園で、あなたと待ち合わせをしたいです。時間はお昼の一時。たとえあなたが来なくても私は満足するでしょう。もっといえば、私はあなたを永遠に待っていたい気さえするのです。だから来るにせよ来ないにせよ、この勝負ははじめから私の勝ちというわけです。


 いったい私はなんの勝負に巻き込まれているのだろう。しかしこれは本当にラヴレターと呼べるのか。いままで生きてきてラヴレターなんてもらったことがないからよくわからないけど、少なくともこれが普通ではないということだけははっきりとわかる。私は確信した。宮下みどりは変人だ。あまり関わらないほうがいい人種かもしれない。

 とにかく私は一つの決断をしなければいけなかった。つまり手紙に書かれている待ち合わせ場所に明日行くかどうかということで、もちろん行く義務なんてないし、普通なら行かないだろうとも思う。しかしどうしてか私は行かなければならない気がした。このまま放っておくのはそれはそれで気持ち悪かった。

 とりあえず明日になって決めればいい。これ以上宮下みどりについて考えることは嫌だった。憂鬱。私は手紙を捨てようかと思ったがしかしそれはあまりにもひどいような気がして、とりあえず机の引き出しの中に入れておいてやった。疲れていたのかそのあとベッドに少し寝転んだらいつの間にか眠っていて、気がついたら朝だった。


 学校の近くの公園は、本当に公園と呼んでいないのかわからないほどに小さく遊具はなにもない。置いてあるのはベンチだけで、トイレすらないあり様だった。大型連休の初日であるというのに、あたりに人はまばらで、十歳くらいの男の子が二人でキャッチボールをしていただけだった。そんな中に宮下みどりはいた。ベンチに座って優雅にたたずんでいるようだった。そんな姿を見ていると無性に腹が立ってきた。こいつのおかしな行動のせいで私は気分を害したんだと、あらためて思った。

「ラヴレターってもらったことある?」

 しかしぬけぬけとみどりは私をまなざしながら言うのであった。こいつはここにいるということは確かに私に手紙を書いたということだし、そしてあの手紙は間違いなく――とてもわかりにくく不可解であったけれど――ラヴレターであるのだから、いったい私に何を言わせたいのか、まるでわからなかった。

「昨日あんたからもらった記憶があるけれど。やたらと詩的な、いや、キザとしか言いようがない、というか怪文書とさえ思えるラヴレターなら」

 私がそう言うと、みどりは笑った。大いに笑った。こいつはこんな豪快に笑うのか。手を叩きながら口を大きく開けて笑う姿はくだらないテレビタレントみたいだったが、しかしみどりがやるとそんな愚行も悪くなかった。なぜだか私も少し笑った。

「怪文書って。ひどいなあ。あれ、書くのに一ヶ月もかかったんだよ?」

 一ヶ月? ということは、こいつは少なくとも一ヶ月も前からこのことを計画していたというのか。考えれば考えるほど目の前にいる宮下みどりという女の存在がわからなくなった。というか、私は前からこいつのことなんてよくしらないし、だからといって知りたいとも思わない。なんだか気味が悪くなった。誰かから告白されることなど生まれてはじめての経験だし、それじたいはまあそんなに悪いものでもないのだけど、とはいえもっとシンプルな、それこそ好きですの一言で終わるような、そんな普通のものがよかった。これは忘れられない思い出にはなりそうだがしかしそれはつまりトラウマってことだ。みどりは笑うのに疲れると急にすました顔をして、それから、

「まあ要するに私は琴子ちゃんが好きなんだなあ」

  と言った。なんだ、それ。だったら最初からそう言えよ。なんでその二文字を手紙に書かないのか。ポエジー爆発させてる場合じゃないだろ。ふだん誰からも琴子ちゃんなんて呼ばれないからその響きはたいそう気持ち悪く響いた。初夏だった。太陽が私たちを照らす。それでもみどりは涼しげな顔をしている。いつもこいつはこんな表情をしている。馬鹿な男子たちがこいつを好きなのはきっとこういうところにやられるんだろう。ミステリアスな、かわいらしい少女。麦わら帽子が似合いそうな、白いワンピースをなんの抵抗もなく着こなすような、男たちの妄想に使い捨てされる幻想。それがみどり。なんでそんなやつが私を好きなのか。意味わからん。なんかもう暑いし帰りたいと思った。全部どうでもよくなった。

「それで」

「うん?」

「他に用事ないんだったら帰るけど」

 私がそう言うと、みどりは少し考えて、

「用事はもうないけど、琴子ちゃんに帰られたら嫌だなあ」

と、へらへら笑った。だから私は家に帰ることにした。

 みどりが二組の亮平くんと付き合っているという噂が流れたのは、連休が終わり学校がはじまってすぐだった。


 宮下みどりについての噂はいままでも何度か流れたことがある。

 それはなにも彼女が都会からやって来た転校生だったからという理由だけではない。彼女は、宮下みどりは、とにかく美人だったのだ。とびきりの美人というのはそれだけで噂の原因になった。それだけでたくさんの人の心は惑わされた。それはなにも男の子にかぎらなかった。半端にかわいらしい女の子は嫉妬の対象にもなるだろうけれど、しかし彼女は凡人には妬むことさえ許されていないような、それどころか憧れを抱かせるほどの魅力を持っていた。だから噂といってもたいていが悪いものではなく、いかに彼女が凄いかということを褒め称え確認するようなものがほとんどだった。女の子もまた彼女に惑わされていたのだ。私にはそういう風にみえた。こうして私が冷静に彼女のことを語れるのは、私が彼女にたいして興味がなかったからだ。

 だから二組の亮平くんと付き合い出したという噂を聞いたときは、みんなほんとに宮下みどりのことが好きなんだなあと呆れているだけだったし、もちろん真偽などは確かめる必要もないと思った。

 だって彼女は数日前に私に告白したのだから。

 みんなもはじめはその噂を本気にしていないようだった。言ってしまえば噂などは嘘のほうが盛り上がるもので、事実ならばそれはいつか噂ではなくなる。しかしどうやらこの噂はほんとらしいと、私もふくめみんなが思ったのは、当の本人である二組の亮平くんが、

「うん。付き合ってるよ。ゴールデンウィーク中にデートに誘って、それで告白したんだ。そしたら宮下さんがいいよって言ってくれたから」

 と言っていたという情報が流れてきたからで、そしてそれはとても信用できる情報口からだった。

 とはいえ、私はもちろんそれもまたただの噂に過ぎず、きっと宮下みどり本人の口から否定されて終わるだけだろうと思っていた。

 その日、つまり噂が流れた日、宮下みどりは遅刻してやってきた。彼女はいままでは無遅刻、無欠席だった。四時間目が終わってもやってこなかったから具合でも悪くて今日は休みなのかと思った。しかしちょうど昼休みに入りみんながお弁当を食べはじめたころに、彼女はひっそりと教室に入ってきた。

 ふだんは浮いていてあまり話しかけられることのない彼女もその日だけは少し事情が違った。誰もが噂の真偽をたしかめたいと思っていた。率先して話しかけたのはクラスの中心人物であった香奈だった。問いただされた宮下みどりはあいかわらずクールな雰囲気を纏ったままで、私はそんな彼女をみて数日前の公園での出来事を思い出しあの手紙は結局なんだったのだろうといまさらながらに思いはせていたが、しかし一方で彼女はぬけぬけと質問にたいして、

「うん」

 と、答えていた。クラスメイトたちの甲高い声が響き、私はなんだか悪い夢をみているような気分になった。


「亮平くんやるねえ。みどりちゃんと付き合うなんて」

 五時間目の体育の時間、ほとんどサボっていた私に美羽が言った。美羽は運動神経が良い。身長は低いがバスケ部に入っていて、おとなしい見た目とは裏腹に中身はすごい体育会系だ。帰宅部で基本的にだらだら怠けている私とは正反対の性格で、だからこそ私たちは一緒にいても気を使わないでいられるのだと私は勝手に思っている。

 体育は二組と三組合同でおこなわれる。だから違うクラスの亮平くんもいる。男子はサッカーをしていて、私はそれをみたいわけでもなかったけれど運動が嫌いだからみているふりをしていた。美羽はさっきまでずっと走っていたからか息があがっている。それでも笑顔で元気そうだからすごい。根本的に身体の構造が違うんだな、と私は思う。

 亮平くんはサッカー部のキャプテンで、だからいまも一番目立っている。サッカーのくわしいルールがわからない私でも亮平くんが一番うまいことはわかる。亮平くんは宮下みどりほどではないが、しかし男子の中で一番人気であることは間違いなく、だから二人が付き合っているということはみんなを妙に納得させた。私以外は。

 ふいに、少し離れたところに宮下みどりがいることを確認する。男子がしているサッカーをみている。その目には亮平くんをうつしているのだろうか? たぶん亮平くんもみどりがみていることに気づいていて、だからやけに気合がはいっていることもあるのだろう、はっきりいってすこし空回りしているようにもみえた。

「なんか亮平くんのことばっかみてない?」

 美羽がからかい半分に訊いてくる。もしかして亮平くんのこと好きだった? まあみんなから人気やし。そういえば、知ってる? 真っ先に宮下さんに訊いてた香奈ちゃんも、ずっと亮平くんのこと好きだったらしいよ。教室では平然としてたけど、さっきまでトイレで号泣してたって。みんな大変やなあ。でも、あの宮下さんが相手となると分が悪いわあ。

「何を勝手に一人で盛り上がってるの」

 てきとうに美羽をあしらいながらも、しかし亮平君ことは嫌いではなかった。というか、この学校に亮平くんのことを嫌いな人はあんまりいないような気がした。もちろん好きだとか、付き合いたいとか、そんなことを思っていたわけではないけれど、とはいえ万が一亮平くんから告白されるようなことがあったらどうしよう、なんてことをぼんやりと考えた。

 しかし、そんなことを考えている場合ではなかった。私が考えるべきことは宮下みどりについてで、つまりほんとにあいつはなにがしたかったのか。私に告白したのはただのいたずらだったのか。頭の中でぐるぐるといろいろな考えがめぐる。宮下みどりのせいで脳が支配されるのは不快でしかなかったけれど、それを拒むすべは持ち合わせていなかった。

 結局、本人に訊くしかないし、すぐ近くにただぼーっと一人でいる宮下みどりがいるのだから、話しかければいい。それができないのは彼女をみているとなんとなく数日前の出来事がじっさいのものではなく、ただの私だけがみた夢幻のような気がするからで、つまりは彼女がおかしいのではなく私がおかしくなったのではないかという疑問さえでてくるからだった。もちろんそんなわけはないし、何事もなかったかのようにふるまっている彼女のほうがやっぱりおかしいのだけれど、彼女が纏う雰囲気は、それだけで私を圧倒させるものがあった。

 だけど、このままでいいわけがなかった。私は勇気を出して彼女の方に近づいていった。

「なにを澄ました顔をしてるんだポエジーガール。いったいどういうつもりなの」

 私がそう言うと、みどりはそれまでの涼しげでクールな表情を変えて、笑った。それは小さな子どもだけができる特権のような、破格の笑顔だった。

「琴子ちゃんから話しかけてくれるなんてうれしいなあ」

「そんな御託はいいから、とにかくいまのこの状況はどういうことなの」

「なんのことでしょ」

 みどりはすっとぼける。私は馬鹿らしくなって、もう訊くのをあきらめてしまおうかと思う。でも、ここで引いたら負けだ。なんの勝負をしているのかは、あいかわらずわからないけれど。

「あんたは私のことが好きだったんじゃないの」

 私はそう言ってすぐ、急に恥ずかしくなった。なんだこのセリフ。まるで私のほうがみどりのことが好きで、別れを切り出してきた彼女にたいして一方的にごねているみたいだ。ばかばかしい。どうして私がこんな屈辱をあじあわないといけないのか。

 ほんとにばかばかしい。なにもかも、ばかばかしいと思った。こんなカオスな状況、どうすればいいのか。なにが正解なのかまるでわからない。ぜんぶは目の前にいるポエジーガールのせいなわけであって、亮平くんはなにも悪くないはずなのになぜだか亮平くんにたいしても腹が立ってきた。こんな女のどこがいいのか。間違いなく頭のネジはずれてる女だぞ。亮平くんのことも、こんな女をもてはやすクラスメイトのことも、ぜんぶくだらない。はやく目を覚まして欲しい。

「好きだよ」

 みどりは、私のほうをじっとみつめて言った。一瞬、時間がとまったのかと思った。公園で言われたときはぜんぜんなにも感じなかったのに、しっかりと目をあわせられて、好きだとはっきり言われると、なんともいえない感覚が私をおそった。

 宮下みどりは美人だ。私はそんなことをあらためて思う。なんでこんなに目がおおきいのだろう。同じ人間なのに、目つきが悪いとよく言われる私とはぜんぜん違う。私なんてただぼーっとしているだけで不機嫌にみえて怖いって言われるのに、彼女はただいるだけで周りが華やかになる。まなざされるだけでときめいてしまう。彼女の鼻は高いわけではないけれど、顔ぜんたいをみればこれ以上のない絶妙な形をしていて、美人でいてかわいらしくもあり、高貴で近寄りがたい感じもありながら親しみもあるという、矛盾した概念をいともかんたんに取り入れている。肌は、うそみたいに白い。透明感がある、なんて言葉ではおさまりきらない。唇はきゅっととじられていて、やわらかそうだった。

「そんなにみつめられると恥ずかしいなあ」

 みどりは両手で顔を隠すしぐさをする。私はみどりに一瞬でもみとれてしまっていた。そんな自分をすぐに認めることはできなかった。だけど、どうしてか心がちくちくとした。このはじめての感覚を否定することのほうがむずかしかった。

「……だったらなんで亮平くんと付き合ってんの」

 苛立ちも隠さずに私は言った。ただ隠せなかっただけなのかもしれない。

「じゃあ琴子ちゃんは私と付き合ってくれるの?」

「は?」

 意味がわからなかった。というか、質問の答えとしておかしい。どうしてみどりは普通に喋ってくれないのだろう。他の人にたいしても、たとえば亮平くんにたいしても同じなのだろうか。

「ちゃんと質問に答えて」

「琴子ちゃんのほうが先に答えてほしいなあ」

「なんで。私のほうが先に訊いたでしょ」

「ラヴレターをわたしたのがすべてのはじまりでしょう? その返事はなにもきいてないからなあ」

 確かにあれは内容こそ意味がわからなかったけれどラヴレターであるということだけははっきりとしていた。それにじっさいに会ってみどりから好きだとも言われた。よく考えてみると私はそのことにたいしてなんの返事もしていなかった。それならば私が悪いのだろうか? しかし、少なくとも付き合ってほしいなんて言われてないし、でも、好きってことはつまりそういうことなの? 恋愛のルールがわからない。みどりは告白されることには慣れてるんだろうから、せめてもっとはっきりとしてほしかった。私はみどりになんて言えばいい。というか、私の中にその答えははっきりとしてあるのだろうか。

「もしいま私があんたと付き合うって言ったら、あんたは亮平くんのことどうするの」

 もっともな疑問だった。公園で告白されておきながらそそくさと帰ってしまった私もおかしいが、それ以上にやはりみどりもおかしいのだ。私と付き合いたいのならあのときにちゃんと私に問いただすべきではなかったのか。

 私はみどりからの返事を待ったが、ちょうど先生からの号令がかかった。気がつけば授業が終わろうとしていた。ふいに視線を男子たちにむけると、亮平くんと目があった。もちろん私ではなくみどりを見ていたのだろうけれど、しかしみどりは亮平くんの熱い視線にまるで気づいていないようだった。みどりはただ私だけをみていた。号令さえ聞こえていないようだった。

「もちろん琴子ちゃんと付き合うよ。亮平くんのことなんかぜんぜん好きじゃないし。私は琴子ちゃんしか好きじゃない」

「なんなの、それ。亮平くんかわいそうでしょ」

「そう? 私は告白されて、いいよとは言ったけど、べつに亮平くんのこと好きとは言ってないよ。一言も。なんだろうなあ。ほら、私が誰かと付き合うってなったら、ちょっとでも琴子ちゃんの気が引けないかなって思ったのかもしれないなあ。自分でも自分のしてることよくわからなくて」

 みどりはへらへらしている。

「好きでもないのに付き合うとか言うのがおかしいんでしょ。それじゃあ亮平くん利用してるだけじゃん」

「付き合ってから好きになることもあるし、それにたとえどんなに悪いことだとしても、私は琴子ちゃんに好かれるなら誰だってなんだって利用するよ。何回も言うけど、とにかく私は琴子ちゃんが好きです。返事を待ってるから。いつまでもね」

 みどりはそう言うと、少しだけほほえんで、ほら先生呼んでるよ、とみんなが集合している場所に走っていった。他の子たちはもうすでに集まっており、ただぽつりと突っ立っている私を不思議そうにながめていた。私はなんの運動もしなかったのに脈拍が早くなっていくのを感じた。

 結局、なんであいつは亮平くんと付き合ってるのか。私は二人がデートしているところを想像する。みんなが言うように、二人がお似合いだとは思わなかった。亮平くんはみどりみたいなわけわからんやつと付き合うべきではない。そしてみどりは、……みどりはいったいなんなのだろう。いま私は自分の気持ちがわからなくなっていた。みどりのことなんか、こんなおかしな駆け引きなんか無視してしまえばいいのに、どうしても彼女のことを考えてしまう自分がいた。こんな気持ちを青春と呼ぶのなら人生というものは生きるに値しないと思った。体育の先生がずっと私の名前を呼んでいて、だけど私の身体は不思議と反応しなかった。まるで自分がべつの人間に生まれ変わったような、あるいは誰かに操られているような気分だった。空には薄暗い雲がかかりはじめていて、帰るころには雨が降りそうで、そういえば傘を持ってくるのを忘れたな、なんてことをふいに思った。


 雨が降っている。もう六月の、梅雨だった。私は雨が好きだ。もっと言うと濡れることが好きだった。地面に小さな水溜まりができていると飛び込みたくなった。いつしかそんなことをするのは許されなくなり、つまり私は大人になりつつあるということなのだろう。それを喜ぶべきなのか憂うべきなのかわからなかった。どちらでもないのかもしれない。

 宮下みどりから告白されて一ヶ月が経っていた。私はいまだになんの返答もしていない。それどころか一言も喋っていなかった。みどりは前と変わらない様子でいつも一人でいる。変わった点があるとすれば亮平くんとたまに話している姿をみかけることで、亮平くんと一緒にいるときの彼女はあまり楽しそうにはみえなかったがその姿は様になっていた。

 だからそもそも彼女がまだ私のことを好きなのかわからなかった。というか、ほんとに好きだったことがあるのだろうか。つい私は疑ってしまう。そしてそんなことを気にする自分が嫌になる。あいつに好かれようと嫌われようとしったことではないはずだった。

「帰りにどっか寄っていかない?」

 めずらしく部活が休みだった美羽が言った。いいよ、と言って私は机の中から教科書やらノートを鞄に詰め込む。帰りの会が終わったばかりで、教室にはまだたくさんのクラスメイトたちがだらだらと喋ったりして過ごしている。私は適度にうるさい教室の雰囲気が嫌いじゃなかった。私が話すのは決まって美羽とか梨香とか理子だった。梨香も一緒に帰ろう、と美羽が誘うが部活があるからと断られている。理子はもういなくなっていた。

 私たちは教室の扉から一番遠く、隅っこの席にいた。たまたま私の席がそこだったからだ。だから私たちの教室に亮平くんが入ってきたことに三人とも気づかなかった。

 気が付いたら亮平くんは私の席の前に立っていて、あの、とおそるおそる声をかけてきた。いつもはハキハキしているのに、なんとなく挙動不審にみえた。私たちはどうしてここに亮平くんがいるのか、そもそも三人の中の誰に話しかけているのかがわからず、誰も返事をしなかった。そのことで不安に思ったのか、亮平くんはさらに焦って、声を上ずらせながら、

「あ、急にごめん。おれ、二組の木戸っていうんだけど。芦塚さん、だよね。ちょっと話したいんだけどいいかな」

 と言った。

「え」

 急に名前を呼ばれた私はしかし嫌な予感しかなかった。美羽の、梨香の、また教室にいたクラスメイト全員の視線を感じる。私は亮平くんをみるふりをして、教室の中にみどりがいないか探した。亮平くんが急に私に話しかけてくるなんて、あいつが関係しているに違いないと思ったからだ。だけどみどりはいなかった。しかたなく私は亮平くんをみるが、なんの言葉も出てこなかった。

「いや、たいした話じゃないんだけど、ちょっと訊きたいことがあって」

「……よくわからないけど、訊きたいことあるんだったら、いまここで聞くけど。たいした話じゃないんでしょ」

 なんとなく二人きりになるのは嫌だった。学校の人気のないところに亮平くんと二人きりでいたらそれだけで妙な噂が流れるに違いなかった。それに美羽と梨香がいてくれたほうが安心だった。

 亮平くんはできれば二人だけのほうがいいんだけど、とぼやいたあと、しかしあきらめたのか小さな声で話はじめた。とはいえ美羽と梨香はちかくにいるからもちろん二人には聞こえている。

「宮下さんのことなんだけど」

 予想通りみどりの名前が出てきて、私は安堵するような不安になるような、どっちつかずの気持ちになる。付き合っているのならば二人だけで解決すればいいのに。私をまきこまないでほしい。

「木戸くん、みどりと付き合ってるんじゃないの」

 思わず彼女のことをみどりと呼んでしまう。彼女はみんなから特別扱いされているし、それは彼氏である亮平くんからもそうだから、おそらく彼女のことを呼び捨てにしているのは誰もいなかった。私はそもそも本人を前にしたらあんたとかポエジーガールとか悪口しか言ってなかったから、つい亮平くんの前でも言ってしまった。

 亮平くんは私がみどりと呼んだことをとくに気にするでもなかった。ただ、美羽が一瞬ちらりと私をみたような気がした。

「そうなんだけど。でも、ちょっと困ったことがあって」

「なに」

「ずっと宮下さんをデートに誘ってるんだけど、彼女、ぜんぜんきてくれなくて」

「……それ、私になんの関係があるの」

 私は亮平くんにたいしていままで良い印象しかもっていなかったが、いま目の前にいる亮平くんはとても情けなくみえた。彼女を上手くデートにも誘えない、普通のどこにでもいる思春期の男の子だった。そんな姿をかわいいと思える余裕は私にはなかった。

「何回も断られるから、じゃあどうしたらデートしてくれるのって訊いたら、芦塚さんも一緒に行くならいいよって言われて」

 なんだ、それ。私はもはや腹を立てることすらできなかった。宮下みどりがなにを考えているのかわからないのはいつも通りのことですっかり慣れてしまったが、だけどそんなわけのわからない提案に亮平くんは連れ回されているのか。というか、それで私にどうしろというのか。彼女の言うように私もデートについていって、それで亮平くんは満足なのだろうか。そもそもそれはデートと呼べるのか。どうして私は今日はじめて話した亮平くんのために利用されなければいけないのか。不愉快というかすべてが不可解であった。

「意味わかんない。私、なんにも関係ないじゃん。そんなことに付き合っている暇ない。二人で勝手にやっててよ」

 もう亮平くんにたいしてもてきとうな対応でいいと思った。やっぱり私は怒っていたのかもしれない。美羽が心配そうに私をみている。おそらく、亮平くんにたいして無碍な態度をとっても私の味方でいてくれるのは美羽だけだろう。それならそれでもいいと思えた。

「いや、そうなんだけど、あの、でも……」

 亮平くんは必死に言葉をつむごうとするけれど、ただ視線を泳がすだけでなにも言えなかった。長い沈黙があった。教室中が静かだった。クラスメイトたちは聞き耳を立てていることを隠そうとすらしなかった。

「亮平くん」

 後ろからみどりの声がした。彼女はさっきまで教室にはいなかったはずだった。だけど足音も立てずに気が付いたら後ろにいた。幽霊みたいだな、と思った。そういえば手紙に自分のことをそんな風に書いていたと思い出した。

「私、そんなこと言ってないじゃん。嘘つかないでよ」

 みどりはいつからいたのだろうか。とにかく、私たちの会話は聞いていたようだった。その表情は、明らかに怒っていた。 

 事態がまるで読み込めない私たちは二人を見守るしかなかった。妙な緊張感だった。亮平くんは狼狽えて、

「え、宮下さん言ってたじゃん……」

 と情けなく言った。その姿はふだんの人気者であった亮平くんとはかけはなれていた。一方でみどりもただならぬ雰囲気だった。よく考えてみればみどりは私の前でこそよく笑ったりしていたけれど、みんなの前ではただひたすらクールで感情を表に出すことはなかったから、それだけで美羽も梨香も驚いていた。脅えていたとも言える。私だって少なからず驚いた。

「私は琴子ちゃんと行きたいって言ったのであって、別にそこにあなたはいらないの。……確かに私たちはいま付き合っていることになってるけど、やっぱりもう、やめようか。私、ぜんぜんあなたのこと好きじゃないもん」

 好きな人から言われたら誰だって傷つくような言葉を、みどりは平然と言ってしまった。それもみんながみている中で。つまりみどりにとって亮平くんはなんの配慮もする必要もないと思っているほど、どうでもいい存在だったのだろう。だとしたら亮平くんはやっぱりかわいそうだなと思ったけれど、しかし前ほどそう思わなかったのは、私だって同じように亮平くんのことをどうでもいい存在だと感じているからで、つまり私の関心はみどりにしかなかった。

「好きな人でもいるの? 俺じゃだめなの?」

 亮平くんはいまにも泣き出しそうだった。その姿は彼のこれからの学校生活において長い間引きずってしまうのではないかと心配してしまうほど滑稽だった。みどりはそんな彼をみつめて、

「うん。好きな人いるよ。いま、目の前に」

 と言った。

 みどりの視線は静かに、でも確かに私のほうにむけられていた。逃げ出したい気持ちと、同時にもう私はみどりから逃げられないという気持ちが、一同に押し寄せてきた。

 

 学校は、七時までには出ないといけない。もうすでに雨は上がっていた。いっそのこと土砂降りの雨が降っていて、私はずぶ濡れになって帰りたいと思った。

 七時まであと十五分。部活動も終わり、片付けや着替えをしているころだった。私たちはまだ教室にいた。私たちというのは私とみどりと美羽と亮平くんだった。

「私は琴子ちゃんのことが好き」

 思い返せばあれはみどりの三度目の告白だった。いや、ラヴレターを入れたら四度目なのか。手紙で、公園で、グラウンド場で、そして教室で、私はみどりに告白された。

 教室の中で放たれた言葉は、いままでで一番力強かった。私にはそう感じられた。そもそも私だけにむけられた言葉だ。私がそう感じたらそれでいい。

 そう強く感じたからこそ、私はみどりについて真剣に考えなければならない気がした。

 しかし、その言葉を、その告白を聞いて反応したのは、私ではなく周りで聞いていたクラスメイトたちだった。みんなはそれまでの静けさから一転して、少しずつ言葉を発していった。ひとりひとりの声は決して大きくなかったけれど、ざわざわと騒ぎは広がっていった。なんて言っているかまでは聞き取れなかった。というか、周りを気にする余裕なんてなかった。私はずっとみどりのことを考えていた。

 それでもとなりにいた梨香の声ははっきりと届いた。それは私を傷つけるというより、驚かせるものだった。

「え、どういうこと? 宮下さんが琴子のことを好き? それって、もしかして同性愛とか、そういうやつじゃないよね? もちろん友達としてってことだよね。……とにかく、どっちにせよ琴子はそんな人じゃないよね」

 同性愛、という言葉を聞いて、私はいまさらながらみどりと、それから自分の性別について考える。確かに女の子同士だし、つまり私たちが付き合うならばそういうことになるのだろう。しかし私はみどりに告白されてもそんなことまったく考えていなかった。それはすごく不思議なことのように思えた。

 いまどき、同性愛なんてことは特にめずらしいことでもないとされている。少なくとも私たちはそういう教育を受けてきた。だからといってそう簡単に私が受け止められたかというと、それはすごくあやしい。私にとってはおそらくLGBTという概念は自分とはあまり関係のないものとして、軽く聞き流しているようなところがあったと思う。もちろん強い差別意識が自分のなかにあったとも思えない。とはいえ、同性の、つまり女の子から告白されて、それにたいして驚きを抱かないほど私は偏見を抱いていなかったと言えるのか? しかしじっさいにみどりに好きと言われて、もちろんそのやり方に不信は抱いたものの、そもそもみどりが女の子であるということじたいにはなにも思わなかった。もっと言ってしまえばたとえば亮平くんと自分が付き合うよりもみどりと付き合っている自分のほうがいまとなっては簡単に想像できる、違和感がないように思えた。

 しかし私がみどりの告白を同性愛として考えなかったのはほんとに誠実な態度と言えるのだろうか。ただ私のなかに偏見がなかっただけと言えるのだろうか。むしろ、誠実な人間ならば同性愛ということにちゃんと向き合うべきではなかったのか。私はそれから逃げていたような気もする。

 私は梨香の言葉を聞いて、次第に怒りが芽生えていくのを感じた。そして梨香だけでなく、教室にのこっていた他のクラスメイトたちも似たようなことを言っていることに気がついた。なかには、気持ち悪いとはっきり吐き捨てるように言う子もいた。なにも言わなかったのは亮平くんとみどり、そして美羽だけだった。私は美羽が黙ってそばにいてくれることを頼もしく思った。

 騒ぎはなかなか収まらなかった。誰かが発した言葉につられてまた誰かが言葉を無為に発する、そんな風にみえた。彼らはただ騒ぎたいだけのようだった。

 私はじっとみどりをみつめた。彼女はめずらしく動揺しているようにみえた。こんなに不安そうな彼女をみるのははじめてだった。自分が放った言葉、つまり私にたいする告白が、こんなにも周りに反応されるとは思ってもいなかったのだろうか。それとも自らが同性愛者と言われ差別されることをおそれたのだろうか。そもそも彼女は同性愛者なのだろうか。同性愛者とはなにか。私はそんなことさえわからない自分におどろいた。

 まだ十三年と少ししか生きていない私だけれど、生意気にも好きな人は何人かできたことがある。そのすべてが男の子で、そのことにたいして疑問を抱いたことはいままでなかった。だからといってすべての女の子が男の子を好きになるとも思っていなかった。だけど身近に女の子が好きな女の子がいると想像したことがあったか? 

 私は想像する。みどりが女の子のことが好きなのか、男の子のことが好きなのか、あるいはその両方を恋愛の対象とするのか、そんなことは私にはわからない。だけど、もしかするとあの手紙は、つまりラヴレターは、いたずらのようにもみえたがしかし人に告白することがいたずらなわけがなく、つまり彼女の言葉通り本気で書いたもので、私にてわたすにはとてつもない勇気が必要だったのではないか? 確かに彼女の愛の告白はいびつな形であったけれど、だからといってそれを無碍にあつかっていいのか? 私は、その告白を受けるも断るももちろん自由だが、しかし逃げるということはもっともやってはいけなかったのではないか?

 目の前のみどりはすっかり青ざめている。もう私のほうをみておらず、その目はどこをうつしているのかわからない。

そんなみどりをみて、私はいますぐ彼女を守りたいと思った。

「なにをみんな騒いでるの。人の話を盗み聞きして、猿みたいに騒いで、バカみたい」

 私は騒いでいる子たちを挑発するように言った。教室中がしんと静まりかえる。

「みどりが私のこと好きで、なんでいけないの。亮平くんがみどりのことを好きなのと同じじゃん。同性愛とか異性愛とかそれ以外の恋愛とか、あるいはそもそも恋愛に興味がない人とか、いろんな人がいるんだよ。それは遠いべつの世界の話じゃなくて、もっと身近で、たとえば私たちの学校のなかでの話でもあるし、あるいは、このクラスの話だってあるの。そんなこともわからないで、あなたたちはじぶんが善良な人間であるような顔をして、これからも生きていくの? なんのためらいもなく、自分が加害者であることを疑わない、そんなくだらない人間なんでしょうあなたたちは」

 いや、違う。こんなこと、ぜんぜん違う。私はこんなことを言える立場にない。少なくともみどりの前で、よく言えたものだと心のなかであきれてしまう。私はいまにも泣き出しそうだった。

 いまのは、ぜんぶ私の自己紹介みたいなものだ。私は自分が善良な人間であることを疑わず、ただひたすらに世界の被害者であり続けようとしている、言ってしまえば弱者であろうとしている、そんなくだらない人間だ。特にみどりの前での私は、最低だった。もうとりかえしはつかないのかもしれない。それでも、私はいますぐにみどりに伝えなければいけなかった。じぶんの気持ちがわからなくても、それでも伝えなくてはならない。みどりの告白と同じ熱量で。

「私は恋愛のこととかよくわからないし、はっきりいってみどりの言ってることとか、やってることはひどいと思う。好きでもないのにとりあえず付き合うとかの感覚は私には理解できないし、それをみんなの前で平然と言うのも、どうかしてる。ほんとは二人の関係性について私がなにかを言うべきではないのかもしれないけれど、みどりは亮平くんにあやまるべきだとも思う。

 だけどそれとはべつに、私は私でみどりにあやまりたい。さっきも告白されたけれど、ほんとは、私はもう一ヵ月も前にみどりから告白されている。それなのに、私はなんの返事もしなかった。それはあまりにひどい態度だったと思う。これは言い訳にすぎないけれど、私はどうすればいいのかわからなかったの。それはみどりの告白が普通ではなかったってこともあるけれど、でもそれだけじゃない。私は、私のことを好きだという人のことが、その存在が、信じられなかった。たとえば美羽は私の友達で、私はもちろん美羽のことが好きだし、美羽も私のことを好きでいてくれていると思う。だけどその好きとは違う、いわゆる恋愛における好きっていうのが、いまだにどういう風にとらえればいいのかあやふやなままなの。私にも好きな人はいたことがあるけれど、とはいえ、それはなんというか恋愛の真似事のようなもので、つまりごっこ遊びにすぎなかった。

 ……いいや、やっぱりこんな言葉いくら並べたって、やっぱりただの言い訳だね。私は自分がなにを言いたいのか、いまだにわからない。でも、私はみどりから告白されてなんだかんだ嬉しかったんだと思う。そんなあいまいで、確かではない気持ちで言っていいのかわからないけれど……。

 私はみどりのことが嫌いじゃない。みどりの顔をみるとどきどきするし、みどりにみつめられるだけで心がときめいてしまう。このときめきが恋愛とは違う感情でも、それでも、そうだとわかるまでみどりと一緒にいたい。みどりのことはいまはまだなにもしらないけれど、これからしっていきたい。それはどんなにくだらないことでもいい。正直、いまの時点ではほんとに変なやつだなってしか感じられないし、どうして私のことが好きなのか、まったくわからないけれど、そんなことも、二人で一緒にいながら探っていきたい。

 ――だから、そのつまり、私はみどりと付き合いたいと思ってる」

 さっきまで雨が降っていたわりに空はまだ明るかったけれど、時間はたしかに七時に近づいていった。私たち四人はとくにしゃべることもなく、ただ沈黙のまま教室にまどろんでいた。一、二時間ほど前の騒がしい雰囲気がうそみたいだった。

 快晴とはほど遠い天気が、いまの私には心地よかった。私の斜め前に座っている亮平くんの肌は日焼けしていていかにもスポーツ少年という感じで、隣に肌の白いみどりがいるとその違いがはっきりとわかる。私はふだんから日焼け止めをなにも塗らないから帰宅部のわりには日焼けしていた。

「だけど、みんな知らないところでいろいろやってるんだねえ。青春って感じだ」

 呑気な口調で美羽が言った。私たちの気まずい雰囲気を和ますためなのだろう。美羽はいつもにこにこしていて、私はこの笑顔にいったい何度助けられたか。私は小学生のとき一番仲が良く、しかしそれでいていまではすっかり連絡をとっていない結衣ちゃんのことを思い出し、美羽との関係はできるだけずっと続くようにしていきたいと強く願った。

「美羽は、恋愛とかはどうなの?」

 私はつい流れで訊いてしまう。私は美羽の恋愛話に興味があるのかないのか、そもそも人にそんなことをぶしつけに訊いていいものなのか、まだいろいろ心のなかで葛藤があったけれど気が付いたら訊いてしまっていた。

 美羽は困ったような顔をして、どうなんだろう、私もまだよくわかんないけどとこぼしたあと、

「でもたぶんこういう感情って、これからもずっと続くんだろうなって。私たちが大人になってもきっと同じようなことで悩むんだろうし。私はいま恋人がほしいとは思わないけど、いつかそういう関係の人ができてもきっとなにかが特別に変わることはないっていうか、たとえば私にとっては琴子が大切な友達であるのは変わらないし、いや少しは関係性が変わることもあるかもしれないけど、でも、大切な人がそばにいて、その人たちと一緒にしあわせにいたいっていう、そういう根本的なことは単純でずっと変わらないような気がするっていうか、だからそういう時間がずっと続くためにはしあわせないまをただゆっくりとかみしめるように味わいたいなあって思ってて……」

 ごめん、なにが言いたいのか私もよくわからなくなった。とにかく私はいましあわせだって感じる。琴子もいるし。なんか、みんなはいろいろたいへんみたいだけど、私はひとりただしあわせだと思っちゃうなあ。あまりにも呑気なのかな?

 私は美羽が想像以上にいろんなことを考えているんだと感じて、少しおどろいた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。いつも明るく元気な彼女もあたりまえだけれどいろいろな悩みとか、考え事を毎日していて、それでも私の前では楽しそうにしてくれている、さらにはそんな状態がしあわせだと言ってくれている。私はいままでそんな幸福をあたりまえのことだと思っていなかったか? 

「美羽ちゃんってなんか癒されるね」

 みどりがひさしぶりに喋った。まるでじぶんに発言権があるのかどうかをおそるおそる確認するかのように私の顔をみつめながら。亮平くんはただうなだれている。いったい彼はいまどういう気持ちなのだろう。ついさっきじぶんのことを豪快に振ったみどりがとなりにいるのは気まずくないのだろうか。それを言ったらやはりこの状況にまったく関係のない美羽がいちばん居場所がないはずだった。

「宮下さんは、」

「みどりでいいよ」

「みどりちゃんは、不思議な人だねえ。見た目が美人でクールだし、それにいつも一人でいたからちょっと話しかけにくかったけど、なんかイメージ変わっちゃった。でも、琴子のことを好きになるってことは、見る目があるんだね。琴子も勘違いされがちな子だけど、ほんとはすごくやさしいから」

「私、実はずっと美羽ちゃんに嫉妬してたの」

「え?」

「だっていつも琴子ちゃんのそばにいるんだもん。私がこの学校に転校してきてはじめて琴子ちゃんをみたときも一緒にいたし、それから私がこっそりと視線で追いかけるようになっても、ずっとそばに美羽ちゃんがいた。でも、みてると琴子ちゃんにとって美羽ちゃんが特別な存在だってことがすごくよくわかったから、嫉妬もしたけれど、それと同時にいつか仲良くなれたらなって思ってた」

 みどりがそう言うと美羽はうれしそうににかーっと笑って、

「なんか面と向かってそう言われると照れるなあ」

 と言った。

 私はそんな二人をぼけっとながめていた。急激に二人が仲良くなっていくのがわかった。二人が仲良くなることはもちろん喜ばしいことだったのに、どうしてか素直に受け入れられないじぶんもいた。

 どんな風に過ごしても、時間はたしかに進んでいく。七時になるまであと十分。私はこのまま帰っていいわけがないと思ったが、しかしなにから話せばいいのかわからなかった。数時間前の出来事なのに、思い出そうとしても細部の記憶が不確かになっていくような気がした。

「亮平くん」

 みどりは下を向いていた亮平くんに呼びかけた。亮平くんは返事をすることさえできないようだった。

 あの騒ぎのあと、クラスメイトたちは私の言動がこわかったのか、それともただ単におかしなやつだと思ったのか、とにかくあっという間にみんなどこかに消えていった。梨香もなにも言わずに教室を出た。私はせっかくできた友達をひとり失ったかもしれなかった。あるいは、想像している以上にたくさんのものを失ったのかもしれない。

 亮平くんは決して教室から出ようとはしなかった。ほとんど意地になっているようにもみえた。みんなの前で一方的に振られるなんて、誰だってプライドが傷つくだろう。みどりにたいして恨みつらみのひとつやふたつを言ったとしてもおかしくなかった。でも、亮平くんはそんなことはせず、ただ黙って床をみつめていた。

「……宮下さん」

「あの、いまさらなにから言えばいいのか、それさえもまだわかってないけれど、とにかく、亮平くん、本当にごめんなさい。私のわけのわからない都合に付き合わせて、ただ亮平くんを利用するようなことをしてしまって」

 みどりは、亮平くんに謝ろうとしていた。おそらく、彼女がしたことは、私がみどりにしてきたこと同様に、一言謝ったくらいで済むようなことではなかった。そのことは、みどりもわかっていたのだろう。はじめから自分が許されることなど諦めているようにもみえた。それでもみどりは亮平くんにじふんがしたことの愚かさをつらつらと述べた。あの日、つまり亮平くんがデートに誘ってくれた日、私は不安でたまらなかった。琴子ちゃんに告白した日の夜だった。私はいままでたくさんの人に告白されたことがあるけれど、じぶんから告白をしたのははじめてだった。ただ好きだと伝えることが、そんな簡単なことがどうして普通にできないのか、じぶんでも不思議に思うほど琴子ちゃんにたいする私の態度はおかしかった。ねえ、琴子ちゃん。私だってじぶんがすっかりおかしくなっていたことには気づいていたんだよ。そんな後悔や自己嫌悪にも似た感情で埋め尽くされているときに亮平くんから電話がかかってきた。私はすぐに亮平くんが私のことを好きなんだとわかった。どこか会話はちぐはぐで私たちはぽつりぽつりと電話で話した。きっとデートに応じたら告白されるんだろうとも予感してた。それでも私は亮平くんの誘いを受けた。それがどうしてなのかはいまでもうまく言えない。一種の自暴自棄になっていたのかもしれない。とにかく私は亮平くんと会って、告白されて、付き合うことにした。告白することの大変さをわかったはずなのに私は亮平くんの気持ちを蔑ろにした。いや、ひどいことを言えば、わかっていたからこそ弄びたかったのかもしれない。私はあくまでも人をコントロールする側の人間だって思いたかったのかもしれない。いま考えると最低でしかなかったと思う。ほんとにごめんなさい。

 みどりの言葉を聞いていて、私はあらためてじぶんがみどりにとっていた態度を反省せざるをえなかった。私はみどりの気持ちをまったく考えてなかった。それにじぶんのなかではじめて湧き上がってきた感情とちゃんと向き合うこともできていなかった。

 好きだなんて言葉はあまりにありふれていてつかいふるされている。それなのにほんきでひとに伝えようとするとどうしてかその二文字が言えなくなる。私はみどりのことが好きなのだろうか。みどりは私のことを好きだと言ってくれる。だけどそもそも私たちが使っているその言葉は本当に同じ意味なのだろうか。いや、言葉なんてものはいつだって私たちのおもいをちゃんと表現できていなくて、むしろ言葉にすればするほどそのおもいから解離してしまうようなものではないか。だけど私たちは言葉にして伝えあうしかないのだろう。ずっとわかりあえないまま、それでも一緒にいきていくしかないのだろう。

 亮平くんはみどりが話している間もずっと下を向いていた。だからよく表情がみえなかった。

 ふたたび沈黙が流れる。おそらく沈黙もまた言葉の一つのうちで、だから本当なら亮平くんが何も話さないということを、私たちはちゃんと聞くべきなのだろう。しかし、時間がのこされていなかった。七時まであと五分。校内アナウンスがそろそろ流れる時間。

「宮下さんは、」

 顔を手で覆いながら亮平くんは喋りはじめた。

「宮下さんはべつに悪くない、少なくとも俺は宮下さんのことが好きだし、付き合うのも別れるのも自由だから、なにも悪くないよ。もちろんさっきみたいに言われるとさすがに傷ついたけど、でも、俺だって宮下さんが俺のことぜんぜん好きじゃないことくらいとっくに気づいてたし、それでも俺は宮下さんと一緒にいたかった。ただそれだけのことだよ。

……なんだろう、さっき芦塚さんがみんなに向かって言ってたこと、俺は正確に理解できているかわからないけど、でも、俺はあんなにちゃんと人のことを考えれてないなって思った。正直に言うと、宮下さんと付き合いたいっていうのは俺のなかにある欲望をただ曝け出しているだけで、ほんとは宮下のことなにも考えてなかったような気がする。だからきっとなにもみえてなかった。宮下さんは俺のこと利用したって言ってたけど、そんなこと言ったら俺だってそうだし、むずかしいことはわからないけど、俺たちってきっと他人を利用しながら生きていくしかなくて、それじたいは悪いことでも良いことでもないんじゃないかな。利用って言葉の響きが嫌だけど、でも、互いにそういうことを自覚しあうことによって、ようやくはじめてちゃんとした関係を築けるのかもしれない」

 なんてね。みんなが自分の考えをちゃんと言葉にしているのを聞いてると、俺も頭のなかで蠢いている考えを言葉にしなきゃってさっきから思ってたんだけど、ぜんぜんできないや。

 亮平くんが喋り終わったとほぼ同時に校内アナウンスが流れる。生徒のみなさん下校の時間になりました。まだ学校にいる人は、急いで帰る準備をしてください。


 下駄箱に行くとみんなもう帰っているみたいで、あたりはとても静かだった。いつもなら指導の先生がひとりいたりするけれど、今日はどうしてかいなかった。私たちは四人で帰っていた。まだ話したりないような、あるいは、話しすぎてすっかりくたびれてしまったような、不思議な感覚だった。

「それにしても」

 美羽は靴を履きかえながら言った。

「なんか今日は濃い一日だったね。ふだん使ってない脳みそを動かして今夜はよく眠れそうだよ。本当なら琴子とぶらぶら買い物でもしようと思ってたけど、まあ、たまにはこんな一日もいいのかな。みどりちゃんとも亮平くんとも少し話せたし」

 たしかに今日はよく眠れそうだ。美羽に言われてすごく疲れているじぶんに気がつく。でも、人とコミュニケーションをとるっていうのはもしかしたら本来これくらい体力が必要なことなのかもしれない。

「そういえば亮平くん、今日部活は大丈夫だったの?」

 美羽がそう問いかけると、亮平くんはたぶん大丈夫じゃない、と笑った。

「まあ部活はともかく、みんなの前であれだけ無様な姿をみせたら、俺も明日から人気なくなるなあ」

 内容こそネガティブだったがしかしその言葉は不思議と明るく響いた。どこか亮平くんは吹っ切れたような顔をしている。というか、やっぱり自分で人気者っていう自覚あるんだな。

 思春期ってめんどくさいなあ、なんてことをふいに思う。数年前まで私はこんなにいろいろなことを考えたりしただろうか。もっと世界は単純だった気がする。毎日のようにあたらしいことをしって、あらゆることがどんどん複雑になっていく。あたらしいことを学んでいるはずなのにわからないことばかり増えていく。それはわからないということがわかるようになったという話でもない。もしかしたらこれは思春期だけの問題じゃなくて、これから先ずっと生きていくなかで私たちに付きまとうことなのだろうか。生きるとはつまりそういうことなのだろうか。

 生活する。そんなあたりまえのことがいまはなぜだが途方もないことに思える。私は気がついたらこの世界にうまれていて、おそらく数十年後には死ぬ。いや、明日死ぬ可能性だってある。だとしたらいまこうして生きている私とはいったいなんなのだろう。隣にみどりがいる。その隣には美羽がいる。さらには亮平くんがいる。私たちはみんなそれぞれの世界を生きて、それでも互いにつながりたいと願う。いつか私たちはみんな消えていなくなって、それでも世界は続くのだろうか。たとえばいつか宇宙さえも消えてなくなるとしたら? いまこの瞬間に生きている私たちはどうなるのだろう。

「琴子ちゃん」

 靴を履きかえ学生鞄を両手で持ち私を正面からみつめるみどりはやはり美しかった。ずいぶん前に止んだはずの雨の残り香がした。みどりはどんな天気でも似合う気がする。だけどいまは快晴のなかでしあわせそうにしているみどりがみたいと思った。

「なに?」

「またむずかしいこと考えてるんでしょう」

 心を見透かされたようで、なんだか悔しくなる。ぜんぶあんたのせいだ、と言ってしまいたい。

 もし世界はパラレルワールドで、べつの並行世界では私たちは出会うことなくいま以上にしあわせな日々がおくれるとしても、それでも私はみどりと一緒にいることを選びたい。いや、パラレルワールドなんてない。だって私たちはもう出会ってしまったのだ。それ以外の世界なんてあるはずもない。

 とつぜん、私はすべてのことが愛おしく思えた。目に映るすべてのもの、それはたとえば下駄箱だったりシューズだったりちかちかと付いては消えてを繰り返している古びた蛍光灯だったり美羽の鞄についている私がゲームセンターでとったキーホルダーだったりすっかり汚れてしまっている亮平くんのエナメルバッグだったりさっきまで降っていた雨がつくったであろう小さな水たまりだったり大掃除のときしか拭かれることのない大きな窓だったりその窓からみえる反対側の校舎についている時間のあっていない時計だったりその時計の上にある多目的教室の薄ピンク色の絨毯から反射している淡い光だったりあるいは目の前にいるみどりのことだったりそのすべてがいまこの瞬間にあるということは奇跡に違いなかった。

 時間はとっくに過ぎていたから私たちは急いで校門まで歩いた。とりあえず学校の外に出れば怒られることはない。幸いにも先生は誰もいなかった。生徒もだれもいないようにみえたが、校門の前まで行くとだれかがいる気配がした。香奈だった。

 香奈は校門の前でひとり座っていた。私たちを確認すると、香奈は立ち上がりなにかを言いかけて、しかしそれは言葉にならずそれでも視線だけは離さなかった。

「香奈ちゃん、こんなところに座って、どうしたの」

 美羽が心配そうに言った。やっぱり美羽はだれにでもやさしいな、と思う。私も同じことを心のなかでは思ったが、それをじっさいに言うか言わないかは大きな差だ。

 べつに、なんでもないけど、と香奈は口では言うがなにか用があることは明らかだった。

「具合悪いの?」

「違うから、私にかまわないで」

「でも」

「亮平くんのことじゃないの?」

 みどりが言った。すると香奈はみどりのことを瞬時に睨みつけて、

「あなた、いったいなにがしたいわけ」

 と言った。香奈のなかでなにかがはち切れる音が聞こえた気がした。

「私はずっと亮平くんのことが好きで、それこそ入学してすぐからずっと好きで、それなのに転校してきたあなたに亮平くんをうばわれた。それだけで辛かったけど、でもそれはしょうがないから、あなたは、宮下みどりは美人だからしかたないって思ってあきらめようとした。だけど一ヶ月経っても私はずっと亮平くんのことが好きなままで、学校のなかであなたたち二人が話しているところをみると、ほんとに嫌な気持ちになった。自分のなかにこんな醜い感情があるんだっておどろいた。でも、いちばん私が嫌だったのはあなたが亮平くんといてもぜんぜん楽しそうにしてないことだった。たいして好きでもないなら付き合わないでほしかった」

 香奈は泣き出した。それは決してきれいな涙ではなかった。身体ぜんしんをつかって泣きじゃくるような、鼻水が出ることもまったくかまわないような、なりふりかまわない涙だった。そんな香奈の姿はどこか感動的ですらあった。

 みどりは黙って聞いていた。頷くこともなく、ただじっとして聞いていた。亮平くんはなにを思っていたのだろう。香奈のほとんど告白にも近い言葉を聞いて、いったい彼はなにを思っていたのか。

「放課後にあなたたちが教室で騒ぎをおこしたっていうのをついさっき聞いたの。私は部活に行ってたから、それがどんなものだったのかじっさいにはわからないし、あくまでも噂だから、私は間違った情報を聞いたのかもしれない。だから私はあなたからちゃんと聞きたいって思った。帰ろうとしたとき、下駄箱をみるとあなたはまだ学校にいるみたいだったからここで待っていた。……亮平くんまで一緒だとは思わなかったけど」

 そして香奈は自分が聞いた噂がどんなものであるかを言った。みどりがみんなの聞こえる前で亮平くんのことを振ったこと、そして私に告白したこと、そして私がみんなに暴言を吐いたこと。やはり噂はあくまで噂で、香奈が言うことには明らかな間違いもふくまれていたが私は口をはさまなかった。大まかにはあっていたし、香奈にとってはそれは些細なことにすぎないと思ったからだ。香奈はみどりに噂があっているのかどうかを問いただした。みどりはゆっくりとうなずいたあと、

「私は、たしかに亮平くんにひどいことをしたって思ってる。だからさっき亮平くんには謝った。もちろん謝ってすむことではないとはわかってる。でも、私にいまできるのはそれだけで、それ以上のことは、なにもできない」

 と言った。

 なにそれ、あなたって自分はなにしてもいいと思っているわけ? 自分だけは特別だと本気で思ってるの? 香奈の怒りはおさまるどころか強化されているようだった。

 私はふいに美羽と目が合う。今日は美羽に迷惑をかけてばかりだな。今日はどこにも寄り道できなかったけど、こんど暇なときにちゃんとお礼がしたいと思った。

「香奈ちゃん」

 ずっと黙っていた亮平くんが呼びかける。私は二人の関係性をよくしらない。ふだんから話す仲だったのか、それとも香奈の一方的な好意だったのか。少ない情報からわかることは亮平くんが彼女のことを自然に下の名前で呼んでいることだけだった。

 名前を呼ばれた香奈は涙こそ止まっていたが悲しみや怒りや憤りであふれていた。

「なに? ていうか、亮平くんもいままで一緒にいたってことは、まだ宮下さんのこと好きなわけ? ……いったい宮下さんのなにがいいの? けっきょく美人だったらどんなひどいことされてもいいんだ。私は宮下さんみたいに美しくないから、亮平くんとは一緒にいられないんだ。こんなセリフ言ってもただの重たい女だってしか思われないんでしょう? わかってる、そんなことわかってる」

 香奈は亮平くんにというよりは、自分に言い聞かせるように言った。

「違う、」

「うそ」

「たしかに俺は宮下さんのことが好きで、正直に言ってそれはいまでも変わらない。宮下さんが好きな理由もただ彼女が美人だからかもしれない。単純に顔がタイプだから、それ以上の理由なんてないのかもしれない。

 ……でも、俺は人と人との関係が、ただ見た目だけで決まるわけがないとも思う。人は中身がたいせつだなんてくだらないことが言いたいわけじゃないけど、この人とつながりたい、ふれあっていたい、ずっと一緒にいたいなんて思える相手が、ただ目の大きさや鼻の形なんかで決まるわけがない。それは興味をもつきっかけにはなるかもしれないけれど、だれかのことをほんとにおもうってことは、たぶんいま俺が考えている以上にむずかしくて、だからこそ俺たちはこれからたくさんの失敗を重ねていくんだと思う。今日俺がみんなの前でしたように」

 亮平くんは恥ずかしそうにはにかんだ。それに俺は香奈ちゃんが俺のこと好きだなんてしらなかったんだ、ともらした。あらゆるおもいは言葉にしないと届かない。言葉にしても届かない。それでも俺たちは言葉にして伝えるしかない。なんて、ぜんぶついさっき考えてたことだけどね。とにかく噂がどうであれ俺は宮下さんに振られたけど不思議と気分はすっきりしているんだ。今日みたいな日がなかったらたぶん俺はこんなに他人のことを考えるなんてなかったんじゃないかな。

 いろいろなおもいが交錯している。いつも何気なく生活していくなかでも、みんな言葉にしないだけでいろんなことを考えている。これから私が出会う人ぜんいんがそれぞれに膨大な過去をもっていて、さまざまな思考があり、あたりまえだけど同じ人間はだれひとりいない。そう思うと日常がとても壮大なことに感じられ、同時にきらめいてもみえた。

 香奈は亮平くんが何を言っているのかまるでわからないようで、もういい、私だって亮平くんのことそんなに好きじゃなかったのかもしれない、と言って、そそくさと帰っていった。

 さっきまで空はまだかすかに明るかったのに、気がつけばもうすっかり夜になっていた。


「俺、明日もう一回だけ香奈ちゃんと話したいな。もう嫌われているみたいだから、断られるかもしれないけど」

 帰り際、亮平くんはそう言った。それを聞いた私たち三人はなにも言わなかった。亮平くんの家は私たちとは反対方向で、だから学校を出てすぐに別れた。

「それで、きみたちは結局付き合うのかい?」

 美羽は、私たち二人を茶化すように言った。ちょうどみどりに呼び出された公園を通りすぎるところだった。私はあのときのじぶんの姿を思い浮かべた。生まれてはじめて好きだと言われたときのことを、できるだけ鮮明に思い出そうとした。

「みどり」

「うん?」

「想像して」

「何を?」

「いま私が考えてること」

 私はそう言って、みどりの手を握った。冷たかった。みどりに触れたのははじめてだった。私は彼女の身体についておもい馳せてしまう。私たちは成長期で、じぶんたちではなかなか気がつかないけれど日々たしかに変わっていっている、じぶんの身体なのにまったくコントロール不能だからついもてあましてしまう、それはみどりにしたって同じだろう、私は彼女の手が、指が、爪が、そのひとつひとつにたまらなくなった、言葉では表現できない感情が、私を襲った。

 みどりはなにも言わなかった。ただ黙って私をまなざした。それだけでもうなにもかも十分だと思えた。

 私はみどりの手を引いて、公園の中に入る。あの日、みどりに告白されたときと同じ場所で、私は立ち止まる。

「もう一度ここで言ってほしい言葉があるの」

 それはもうみどりの口から何回も発せられた言葉だった。そしてこれからも何度も口にしてほしい言葉だった。私はその言葉に、ようやく答えられる気がした。

「まったく、琴子ちゃんはずるいなあ」

 みどりは笑った。どこか緊張しているようにもみえた。手が、震えていた。彼女の眼はたしかに私をうつしていて、眼だけではなく身体ぜんしんで私を知覚している、そして私も身体ぜんしんで彼女を知覚している、だから。

 私はまた言ってほしかった。たった二文字の、ありふれてつかいふるされた言葉を。

 みどりはぎゅっと手を強く握って、やさしくほほえんだあと、

「琴子ちゃんのことが好きです」

「私もみどりのことが好き」

 公園はあいかわらずなにもなくてだれもいなかった。真っ暗な空。こんなとき月が私たちを照らしてくれればいいのに、月はすっかり雲に隠れているのか、いちばん発光していたのは近くにある自販機だった。その傍に美羽がいた。

「今日はよく眠れそうだなあ」

 美羽がちいさな声で言った。私はまったく眠れる気がしなかった。いまこの瞬間がずっと続けばいいと思った。握った手をいつまでも離したくなかった。

 どこからかジーッジーッという音がした。

「蝉だ」

「え?」

「六月でも鳴くんだねえ、それも夜に」

 自販機の傍にいる美羽は遠くを指差していたが私はどこに蝉がいるのかわからなかった。

「みえる?」

「ううん」

 私たち三人は同じ方向をみつめる。蝉なんてべつに興味なかったけれどこのままみどりと手を繋いでいたかった。またジーッジーッという音がする。だから私たちは手を繋いだままじっと遠くをみつめる。

 夏はもうすぐそこにいる。

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