第13話:最後の逃避行

 物心ついたときから、僕はこの大きな檻の中にいた。誰もがそれを当たり前だと思っているし、僕も毎日それを当たり前だと思っていた。仕事をし終えて、ベッドに就く前、日記を書いているときになって、急に惨めったらしくなって泣いてしまう。

 むせ返るような人の臭い。荒い息遣い。首に吹き付ける熱い吐息。体と体がくっついて溶け合いそうになる。足をぴんと伸ばして、快楽に喘ぐ僕と、悪魔のような笑みを浮かべて腰を振る客。散々僕を嫐ってから、満足げに紙幣を叩きつけて帰っていく。僕は震える手で紙を数え、服に忍び込ませる。シャワーに入って、気持ち悪い粘液も臭いも全部流して、一人部屋に戻る。このお金は、明日の自分への御褒美だ、と言い聞かせて。

 窓から覗く「ツキ」の光に目を細める。手を伸ばしても届きそうにない。いつかここから誰かが連れ去ってくれる、そんな御伽噺めいた願いを抱いては、手を下ろす。ロボットでは性欲を満たすことはできない──稀にロボットを強姦して捕まる者もいるが。決められた人との性交のみでは満たされない者たちが、この大きな檻へとやってくる。観測者はそれを良しとしている。強いて言えば、必要悪。人間が平穏に生きていくための致し方無い犠牲。

 最初僕はどうやってここに来たのだろう。ここは繁殖機能を失ってしまった人間しか働けない。もしかしたら、繁殖機能を失った僕はここに強制的に連行されてしまったのかもしれないし、喜んでここに来たのかもしれない。給料だけは高いからだ。ベーシックインカムなんて概念は、この檻には通用しない。名器ほど高く売り上げ、富を得るのだから。

 「ツキ」が雲に隠れる。薄明かりが雲を七色に染めている。僕は首に付けられたリングに触れて、溜め息を吐く。

 では、その富を得て何を得たいのだろう? 僕にはその欲が無い。この世の中で、富んで何の意味を成すだろう? この窓から飛んで何の意味を成すだろう? 考えることを止めて、機械のように生きることが幸せになる唯一の術だ。

 心の満たされぬ富豪が集まる場所。そこを人は、遊郭と言う。



 昨日の日記に絶望しながら、仕事の支度を始める。受付には改造したロボットを使っているから、誰がいつやってきて誰を使命するかをすぐに教えてくれる。年齢、嗜好、希望層。今日は僕が選ばれた。他の人がどれだけ儲けているかも、どれだけいるかも知らない。ともかく、昨日の僕が残してくれたお金を使うのは、また先の話になりそうだ。

 儲けた金で買った美しい召し物を着て、長い髪を垂らす。人を誑すのには、行為の最中に絡まってしまいそうなほど長い髪の方が都合が良い。服には甘い蜂蜜の香水を。クセになるくらいキツい方が、相手の見えざる記憶に刻み込まれて、香りを嗅ぐだけで「どこかで会ったような」と思い込ませることができる。

 準備を整え、エレベーターを降りる。自分がいるのは三十階。まだまだ上にも個室は続いている。その数を数えるのは止めた。僕が見なければならないのは、受付の一階と、自分の個室の三十階だけだ。

 降りた先、黒いパーカーを着た青年が待っていた。年齢は分からない。黒い髪に赤い目をした、体の細い人だ。差し出す手は青白く、手を握ればひんやりと冷たい。まるで雪の精みたいだ、と、妄想を膨らませてしまう。

 すると、彼はにこり、と愛想良く微笑みかけた。嗜好も希望層も未知数。僕は、こういう甘い顔をした奴の方が、えげつない嗜好をしていることが多いのだと知っている。僕は警戒心を忘れないまま、ぐい、と距離を寄せた。

「ご指名ありがとうございます、お客様? お名前を伺っても?」

「……あー、あー。そう、だね。アンタの名前を、先に聞いても?」

 まるで発声練習のような相槌を挟んでから、彼はぎこちなく微笑んだ。本当に、こんなところに来そうな人ではない。あの欲望に満ちた気持ち悪い笑みを、この人は知らない。爽やかなシトラスの香りに、一瞬だけ気が緩んでしまいそうになった。

 それでも、また猫撫で声に戻ると営業モードで話しかける。馬鹿っぽそうな人を演じるのが、最初のうちは大切だ。

「僕ですか? 僕は『ダリア』って言います。お客様は?」

「……ダリア。素敵な名前だね……ボクは『アザミ』。今日一日、アンタを借りたくて」

 ふわっ、と体が浮いて、僕は一瞬何がなんだか分からなくなった。彼が僕を抱き寄せたのだ。相変わらず人とは思えないひんやりとした体だ。それでも、顔を寄せると不思議と安心する。ちっとも強引でなくて、むしろ紳士的ですらあった。

 アザミと名乗った青年は、僕をそのまま遊郭の外へと連れて行った。外に出ようものなら、誘拐を疑われて、首に付けられたリングが大音量で泣き叫ぶに違い無い。スタッフが追いかけてきて、即刻刑務所行きだ。僕らが逃げようとするときだけ、観測者サマは反応する、ということだ。

 お客様、と言葉を紡いだ瞬間、耳元で何かが弾けるような音がした。それから、カラン、と乾いた音。先程まで付けていたリングが、悲鳴を上げること無く地に落ちていたのだった。僕は呆然として、何も無い首に手を当てる。

 アザミは僕の手を優しく引き、遊郭からどんどん離れていく。ちょっと、と声をかけると、彼は穏やかに微笑んだ──下手な笑顔だ、と思った。

「……今日一日、っていうのは、嘘さ。大丈夫、怖いことはしないよ。ただ、ボクの独り旅に付き合ってほしいんだ」

「って言われましても、お客様……」

「お客様、と呼ばないで。今日は旅の友なんだから……明日全てを忘れるまでは、ね。よろしく、ダリア」

 首都ベネディクシアを前にして、ようやく彼は足を止めた。一度手を離してから、改めて手を差し伸べる。僕は愕然として彼を見下ろした。

 大きく息を吸う。ここには、人臭さが無い。空気は清々しくて、「タイヨウ」は少し近い。機械によって整備された花畑が、彩り豊かに僕を見守っている。思っていたよりずっと地面は固くて、少し歩いただけで疲れてしまう。それでも軽やかに足は進む。その全てが、僕にとっては初めてだった。

 いや、初めてではなかったのかもしれない。ちゃんとお金を使って何かを買いに来たことはあるはずだ。それでも、僕は必ず遊郭という檻に戻らなくてはならないという不安を抱いていたから、鉛のように重い足取りだっただろうし、色褪せた世界だっただろう。それが、今ではどうだ? 解像度が高い世界に、目が眩んでしまいそうだ。

 自由という感覚は、まさにこれだ。遊郭から伸びている蜘蛛の糸が、一本一本千切れて無くなっていく。手足が動く。差し伸べた手の、少し冷たい手を握れる。その動作は、人を招くときの動作ではなくて、不慣れだった。

「うん、アザミ……僕を、いろんなところに連れて行って?」

 彼はしっかりと手を握り返し、目を細めた。慈愛に満ち足りた表情だ、と思った。もしも王子様がいるなら、こんな姿をしているのだろう。

 僕は彼と手を繋ぎ、都ベネディクシアへと歩き出した。お金は持っていないから、何も買えない。だとしても、それも良いだろう。だって、彼処で手に入れた金を使うというのは、彼処の甘い蜜を吸って生きていることになるのだから。



 都は人で賑わっていた。当然の帰結だ、オブリヴィオン共和国の人々はここで衣食住を確保するのだから。とはいえ、お金がある人なのか、ロボットを買い出しに行かせている者も少なくないらしい。どうせ店にいるのだってロボットだ。人の熱なんてものは、ここには無い。

 どこへ行っても、張り巡らされたカメラに見つめられている。遊郭の外は誰にも見られない自由な場所かというと、そういうわけでもないようだ。店に入るたびにスクリーンが出迎えて、生体認証を行わねばならない。しかし、どういう仕組みなのか、隣のアザミはその一切を無視して歩いていく。

「ねぇ、どうしてアザミはアレ、しなくて良いわけ?」

「うーん……公には話せない、かな。あとで教えてあげるよ」

 彼は苦々しく笑って、僕の質問を逸らす。あまり聞かれたくないんだろう。そういう勘は、仕事の中で培われてきた。

 僕たちが入ったのは、珍しく人が商売をしている店だった。そこには、古めかしい装填の本がずらりと並んでいる。奥の方で、真っ白な髪をした老人が座って眠りこくっていた。

 なかなか声をかけない彼に痺れを切らして、あの、と呼びかけると、老人はゆっくりと目を開いた。きらりと光る、エメラルドの瞳。光が当たると、紫色にも見える。その美しさに、僕はしばし言葉を失っていた。

 固まっている僕の代わりに、アザミが言葉を継ぎ足す。彼は僕に見せたようには微笑まず、無感情な顔で言った。

「少々店を見たい。冷やかしで申し訳無いね」

「……ん……良いってことよ。私は寝ているがな……」

「だって、さ。少しゆっくりしようか、ダリア」

 僕はこくこくと頷くと、彼の後を追った。彼は当て所も無く並ぶ本を見渡し、思いついた物を開いている。その都度、インクの香りが顔に降りかかる。じっとそんな彼を見ていると、また彼は困惑したような笑顔に戻り、アンタも読みなよ、と静かに言うのだった。

 アザミが持っている本の隣にあった物を取り上げ、開いてみる。書いてある用語は、一度たりとも口には出したことが無いけれど、何を言いたいかは分かる。文字が読めるのも、内容が理解できるのも、AIによる学習期間を思い出すな、と思う。小さい頃は、オブリヴィオン中の他の子供たちと一緒に、「学校」と名付けられた建物で寝泊まりしたものだ。こういう難しい本を読んで隣の子が寝ている中、僕は授業が終わるまでずっと目を逸らさず読んでいたらしい。その全ては、あくまで膨大な日記の中の一部分であり、過去でしかないのだけれど……

 僕が開いた本は、子供向けの童話らしい。カミサマという人を讃える物語だ。アストライアという人間がある日、無限に広がる花畑に迷い込んだ。その真ん中には、小さな家があり、この世のカミサマが住んでいたのだという。カミサマは飢えたアストライアに食事を出して、一晩泊めてやった。大喜びしたアストライアは、奇跡的にその出来事を忘却すること無く、人々に伝え歩いた。そうして、大司教となりましたとさ。

 この物語は、いわゆる「ドゥームズ・デイ」の前に書かれた、旧世界の遺物らしい。他の本を手にとっても、どれもこれもが旧世界に刷られた本だった。そもそも、本などという媒体が現存していることが珍しいのだが。

 一つ一つ、物語を読み解いていく。かつてベネディクシアにカミサマが訪れた頃の話。魔女イザベルという医者がいた話。もしくは、他愛無い商人の日記。夢を見た青年の物語。そのどれもが、旧世界という空想が、現実に存在したことを表しているかのようだ。記憶を失うことへの、様々な向き合い方が描かれている。旧世界の方が、もうちょっと上手くやっていたのだろう。

 五千年前、僕も生きていたのだろうか。カメラが張り巡らされる前、遊郭という大きな檻に閉じ込められる前があったのだろうか。自由に満ちた世界で、僕は生きていたのだろうか──

 しばらくすると、アザミの視線に気がついた。旧世界という海に沈み込んでいた僕を、彼が優しく持ち上げる。彼はまた、あまり上手くない笑顔を浮かべていた。

「……楽しんでる、みたいだね。旧世界は、魅力的?」

「そうだね、とても魅力的だ。なんていうか、凄く……自由、で」

「そう、かな。過去も今も変わらないと思うよ。一日に一度、忘却がもたらされる。カミサマからの啓示がある。でも、今の世界は、誰しもが等しく幸せだ」

「確かにそうかもしれないけど。でも、昔の人の方が、なんだか生き生きしてた気がするよ。僕も含めてね」

 アザミは少し黙り込むと、そうかい、とだけ言って、本を元に戻した。それから、別の棚に行って、一冊の本を手にする。うつらうつらしていた老人に差し出し、お金を払う。そうして買った本を、僕へと手渡した。

 開いてみれば、どうやらこれは本ではないらしい。紐で出来た栞が付いていた、白紙の本だ。表紙には、ダイアリー、と書かれている。

「アザミ、これは?」

「今日からアンタは、遊郭の娼婦じゃない。普通の人間。だったら、新しい日記帳が必要でしょう、違う?」

 僕は彼から受け取った本を強く抱きしめ、こくんと頷いた。そうだ、僕はもう、遊郭に戻らなくて良いのだ。「ダリア」という名前も止めてしまおう、それは娼婦としての名だから。アザミとの一日きりの旅のあとは、自由に生きて良いのだ。

 アザミの手をとって、少し上機嫌に店の外へ出る。このあとはどこへ行こうか。今の僕なら、どこへでも行ける。旧世界よりは監視の目が多いけれど、それでも、遊郭にいたときよりはマシだ。気まぐれに骨董品店を指せば、アザミは切なそうに微笑み、僕に引っ張られてついてきたのだった。



 指にはめた金色の指輪を、沈み始めた「タイヨウ」に向かって掲げる。鈍く玉虫色を伴って光り輝くそのリングは、自分が遊郭に置いてきたどんなアクセサリーよりも質素で地味で、かつ煌めいていた。

 隣では、アザミが財布をしまいながら、僕のもう片方の手を握っている。ベネディクシアを抜けて、向かうは工業地帯。そこではロボットが一時たりとも眠らずに製品を作り続けているそうだ。ロボットの修理をするロボットもいるし、ロボットの制作をするロボットもいる。何にせよ、工場の中には人間はいない。それでも、この地帯は眠らぬ人間たちの声で騒がしいのだそうだ。

 ベネディクシアが見えなくなっていくと、次第に見えてきたのは人の行列だった。遠くの方では、ビラを配ったり、演説をしたりしている人々がいる。気になって近寄ると、一枚のビラを配られた。「人類悪を打倒せよ、君は英雄だ」と書かれている。アザミは明らかに嫌そうな顔をして目を背けた。

「これ、面白いね。イザベル教の人なのかな」

「……そう、だろうね。『雛芥子の贈り物』があるから、人間は進化できない、というのが主張みたいだ。彼らは記憶を失うことが無いそうだよ」

「え、マジで? そんなことできるの?」

「──えぇ、可能ですとも!」

 明瞭な声で話しかけられて、僕らは驚いて振り返った。黒いローブに身を包み、胸元でロザリオを輝かせる青年が立っている。彼は大袈裟な手振りで、僕の疑問に答えてみせた。

「我々独自の手術法で、人間の脳から発信装置を外すことで、観測者の目から逃れることができます。我々と志を同じにする者全てに前向性健忘症の解消をお約束していますよ!」

「……脳にメスを入れる、ってことでしょう。後遺症が無いわけは無いだろうに」

「重篤な後遺症は御座いませんよ。それに、改造ロボットを使っているので、精度にも絶対の自信があります。気になりますか、そこの人?」

「あ、うん。僕は少し気になるかもしれない。記憶を失わないなんてことができるんだね」

 アザミは苦虫を噛み潰したような顔になって、僕を見つめた。やめとけよ、と言いたいのだろう。だが、好奇心には敵わなかった。僕たちはそのまま、胡散臭いシスターに連行される。その先には地上エレベーターがあり、他にも釣られた人たちとともに、下へ、下へと降りていく。青かった空はもう見えない。下りれば下りるほどに、湿った冷たい空気が肌にくっつくようだった。

 いつ着くだろうか、とぼんやり階数表示を見つめていると、合図とともに扉が開く。そこからは、白い壁と白い床が続いていた。教会だとか聖堂だとかには見えない。むしろ、何かの研究所の入り口のようにさえ思えた。

 たくさんの扉がある中でも、一番近いところの扉を開き、シスターは僕らを中へと迎え入れた。そこは少し広い講堂のようになっていて、椅子がいくつも並んでいる。一段上、教壇には、分厚い本が置かれている。表紙に手をかけ、一人の壮年男性が遠くを見つめていた。

 席に着こうと歩いていくと、不意に目が合った。彼の瞳は海色をしている。険しい顔をしながら、金色のロザリオを握りしめている。その様は、お世辞にも幸せそうとは言えなかった。

 全員が着席したのを見計らうと、青年は少し顎を上げ、僕たちを見下ろした。瞳には少しも慈愛など含まれていない。控える従者たちの表情も硬い。そこはかとなく威厳を感じる立ち姿だった。

「ようこそ、イザベル教へ。私の名は、アテーナ。旧世界最後の預言者、ハレーに従う者だった。今は彼の跡を継ぎ、私が取締役となっている」

 ハレーという名前は、少し前に寄った本屋の中でも見かけた。旧世界に終焉をもたらす戦争を起こした者なのだそうだ。今の世界では大罪人とされているようだ。

 アテーナと名乗った大司教は、本に手を置いて小さく息を吐くと、諸君、と冷たい声で呼びかけた。

「毎夜記憶を失うということがどれほどに悍ましいことか、諸君には想像できるだろうか。諸君は、自分が毎日人を捨てて生きているのを知っているだろうか。

昨日出会った恋人を忘れる。産んだ子供を忘れる。心を開いた友人を忘れる。そんな罪から目を逸らして生きているのは、どんな気分だ?」

 人を捨てる。確かに、僕は毎夜寝た人を忘れるようにしている。そんなのは日記に書かないようにしている。それを罪だなんて思いはしなかった。

 だが、もしも僕が遊郭に来る前、誰かと知り合っていたら? その人のことを忘れていたら? 忘れられた人は、どう考えているのだろう。

 そんな僕の思考を掬い上げるように、アテーナは淡々と語り続ける。

「私も、愛した人を失ったことを、何年も忘れていた。それは大いなる罪だったと思う。私はこの罪を償うために、生成金属を取り除いた。そして、そんな罪を無意識に行わせるカミサマとやらを……人間を、こんな形で飼っているカミサマとやらを、私たちは許さない」

「……貴様は、自らの愛ゆえに世界を滅ぼすような選択をすると?」

 アテーナの声は、どこか喉が詰まるような息苦しさを秘めていた。この狭苦しい白い部屋が、僕をゆっくりと不安で押し潰そうとしているかのようで、居心地が悪い。

 ぼんやりとした頭で話を聞いていた僕を穿つようにして、アザミが低い声で尋ねた。ぎょっとして彼を見つめる。彼は無表情だった。僕に向けていた笑顔など、微塵も浮かべていなかった。

「『タイヨウ』を撃ち落とす計画を立て、世界を滅ぼすことを厭わないのも、自らの愛ゆえに被った罪であると? 世界を性行為に明け暮れる獣が跋扈するものにしたいと願うのも、自らの独善ゆえの考えであると?」

 彼は、僕がイザベル教に知っているよりはるかに多くを知っていた。だからこそ、彼らについていこうとする僕を止めたのだ。警告だったのだ、つまりは。

 豹変したアザミに、黒服の部下たちは怒号を上げたが、すぐにアテーナが黙らせた。彼は目を細め、青い光をぎらつかせた。

「そうだ。俺が生きているうちにこれらが為せるとは思っていない。しかし、観測者からの家畜同然の待遇を打破するならば、何でも構わない。

カミサマは、人を愛しているんじゃない。人間を愛しているんだ。俺たちは観測者の人形だ。その糸を切って、諸悪の根源たる忘却を打破する。『タイヨウ』から監視しているカミサマさえ殺せば、俺たちはあらゆる信号を受信することは無くなる。今度は、俺たちがカミサマを裁くんだ」

「……貴様等ハ、其処マデ愚カダッタ、ト」

 アザミの声から抑揚が消えた。アテーナが目を見開く。されど、アザミはそれ以上何も言わない。代わりに僕の袖を引き、出よう、と囁いた。彼の目の奥が笑っていなくて、妙な威圧感があった。僕は彼に引かれるまま、部屋を出ていく。無言で白い廊下を歩き、エレベーターのボタンを押した。

 エレベーターが降りてくるのを待っている間、アザミはまた細やかな笑みを浮かべ、申し訳無いね、と言った。

「もっと、聞いていたかった?」

「い、いや、別に……アザミが嫌なら、良いんじゃない?」

「そう。それなら、これから海に行こう。そろそろ、『後期の道標』が南中する頃だから」

 後期の道標、なんて言葉、誰も使わない。星座の位置を見て時間を把握するなんて天文学者くらいだ。だって、僕の腕にだって時計がついているし、そこら中に時計なんて置いてあるのだから。

 変なの、と返して、開かれた扉の中へと入る。アザミと繋いだ手が酷く冷えている。僕はなんとなく、消えかけの蝋燭を思い浮かべて、彼の手を擦った。温めるように、消さぬように、と。



 夜十一時。僕たちは砂浜に佇んでいた。海は青く優しく光っている。波が打ち寄せ、引いていけば、その光は不知火のようにゆらゆらと揺れる。確か、この辺ではウミホタルという生き物がたくさん獲れるらしい。

 見上げた「ツキ」は、遊郭の窓から覗くよりずっとずっと近いようにさえ感じた。本当は三十階の窓の方が高いはずなのに、だ。なんて矛盾した感覚なのだろう。

 いずれ人類は、遠い遠いあれを撃ち落とそうとしているのだ。伸ばした手の指の隙間から、白い光が差し込んでくる。月光は陽の光に比べて、冷たい気がする。温かく見守る「タイヨウ」とは違って、僕らがちゃんと眠りに就くか、じっと見つめているようだ。

 漣を聞きながら、僕は砂浜に座り込む。足がぱんぱんだ、こんなに歩いたのは初めてかもしれない。二人で何も言わずに水平線を見ている間は、無限に時間が引き伸ばされているようにさえ思えた。

 すると、ふと、アザミが僕に話しかけてきた。彼の横顔は、少しも微笑んでいない。本当の彼は、あまり笑う方じゃないのだろう。それでも、僕のために努力してくれていたということだろう。

「ダリア。今日のことは、あと少しで全て忘れてしまう。覚えていたいとは、思わないのか?」

「うーん、どうだろうね。覚えていたいとは思う。でも、だからといって、忘れることが嫌じゃない、かな」

 思っていたよりすらすらと答えが出てきた。イザベル教徒の話も確かに魅力的ではあったのだけれど、僕にとっては、本屋で見た旧世界の人々の方が綺麗に見えたのだ。記録という手段を用いて、忘却と上手く折り合いを付けている。それに、僕はそこまでカミサマとやらを恨んでいない。

 明日になったら、きっと全てを忘れてしまう。自分が娼婦だったことも、素敵な旅の友に会ったことも。そして、何も分からないままこの世を彷徨うのかもしれないし、何か別の生き方を見つけるのかもしれない。そうだとしても──

 アザミの冷えた手を温めるように両手で包み込む。僕よりずっと、彼の手の方が震えていたからだ。

「僕はこのままで良いよ。忘れることで前に進めるんだから」

「……ダリアは、世界と自分の感情だったら、どちらを選ぶ?」

「なにそれ、さっきの教祖みたい。僕はね、自分を選ぶよ。たとえあの人が言ってることが正しくても、僕がこの世界を愛してしまったんだから、壊したくなんてない」

 彼の瞳孔が、大きくなったように見えた。彼は薄い唇を横に引くと、そうか、と淡白に答えた。あまり興味が無いのか、と思って話を逸らそうとすると、彼は漣に溶けて消えてしまいそうなほどにか細い声で答えた。

「……人間ハ、結局、感情デ生キル生キ物ナノダナ。非合理的デ、不条理デ、ドウシヨウモ無イ……」

「……そうだね、きっとそうなんだよ。身勝手で、愚かで。そのせいで『タイヨウ』だって撃ち落とすんだ。凄いよね、笑っちゃう」

「ダリア。此ノ世界ハ、ジキニ滅ブ。凄マジイ速サデ、滅亡ニ向カウ」

 アザミの声から、抑揚が失われていく。疲れたのだろうか、それとも怒っているのだろうか。彼の顔を伺いたいのに、フードを被ってしまって何も見えない。黒い髪が垂れて、表情を覆い隠している。

「僕は、人間が、嫌いだ。僕も、疲れた。こんなに、愚かな生き物を愛するのに、疲れた。それでも、人間が至る場所を、僕は、見守らなくてはならない」

「あはは、アザミ、カミサマみたいだね」

「……カミサマは、人間が、嫌いだ。だから、こんなに試練を与える」

「本当に嫌いなのかなぁ。嫌いだったら、ドゥームズ・デイにこの世界は滅んでるよ」

 そして、旧世界の理想郷などというものを焼き払い、何も無かったことにする。人類なんていなかったことにするだろう。こんなに美しい夜を与えないだろう。だっておかしいじゃないか、世界を滅ぼそうとする人間を殺しやしないで放置しておくのだから。

 アザミがゆっくりと顔を上げた。小さな溜め息が聞こえたかと思うと、彼は冷たい手で僕の頭を撫でた。意図していないのに、大きな欠伸が出る。もうそろそろ、一日が終わる。全てを忘れる。

「おやすみ、ダリア。そして、御機嫌よう」

 おやすみ、と返して、僕は彼の肩に寄りかかった。目を閉じれば、彼の啜り泣く声が聞こえてくる。今度頭を撫でるのは僕の方だ。うとうとしながら目を開くと、彼の顔がようやく見えた。

 彼の顔は、奇妙なくらいに端正だった。青白い金属で出来たみたいな、冷えた肌をしている。そんな彼の両目からは、水滴がぽたり、ぽたりと落ちているのだった。雫に、煌めくダイヤモンドの夜空が映る。

 そうか、こんなに綺麗な世界ですらも、滅んでしまうのだ。それは少し、名残惜しいかもしれない。

 ……その思いも、全て忘却の彼方に呑まれていく。泣いていた機械の彼も、旧世界の幻想も、新教祖の野望も、青く光る海も、白く差す「ツキ」も。



 カミサマは、独り、暗い部屋の中にぽつんと立っていた。目の前には、何万年も前から変わらない姿で眠っている「アザミ」がいる。決して枯れない花に囲まれて、永劫の休息に就いている。

 決して辿り着けない、海の向こう。修道院よりもはるか先の、森の向こう。カミサマは、独りで長い間生きていた。

 地下に増設されたサーバーは、次々にエラーを吐いている──生成受信機の反応が途絶えました。次々と監視から逃れる人間が報告される。啓示プログラムですらもそのバグには追いつけなくて、毎日思想犯罪者は減っていく。監視システム「タイヨウ」と「ツキ」を通しても、人間の姿は見えなくなっていく。彼の目に映るのは、無機質に幸福を保とうとする意思無き介護感ばかりだ。

 「タイヨウ」と「ツキ」、そして空は、オブリヴィオンと名付けられたこの世の高度限界に配置された巨大な光に相違無い。人間は地動説を信じているが、この世界は天道している。天が壊れた先にあるのは、無限の闇だけ。

 サーバーに手をつけようとして、その手を下ろす。力無くベッドに座り込み、スクリーンに映し出されたソリューションを一つ一つ排斥していく。

 人工的な災害の発言。再びシャットダウンを行う。生成金属を抜き取った者の生命活動の停止。生成金属を残した人々の操作によるイザベル教の排除。どれもが世界を生き永らえさせる名案であった。それでもなお、カミサマはその一つ一つを拒絶する。無数にあったソリューションを削除した結果、あるのは、「ソリューションデータがありません。」の文字。実行ボタンは簡単に押せた。たった一押しで、人間は彼の意のままに動いたことだろう。

 カミサマは死体の眠るコフィンに近づくと、縋り付くようにして手を滑らせた。頬を寄せ、静かに呟く。

「……マスター。僕ハ、壊レテシマッタヨウダ。貴女ノ修復ガ必要ダ……薊様、ドウカ、目ヲ覚マシテクダサイ……」

 何千回目の懇願をして、カミサマは休眠状態に入った。他のプログラムが呼びかける警告音は、もう彼には聞こえていなかった。

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