第10話:怒りの日
私たちには、夜十二時までの記憶が無い。ボーン、ボーン、と低い時計が振り子を鳴らす音とともに、今日の私たちが目覚める。昨日の私たちなど存在しなくなる。私たちの寿命はたったの二十四時間、「タイヨウ」が昇って「ツキ」が昇るまでだ。それが本当かは知らない。工場長がそう言っているだけだ。中には一時間毎に壁に傷をつけていって、二十四回しか付けられなかった、と噂のある場所があるが、当の本人もそんなことなど忘れてしまった。
覚えていられるはずが無いのだ。私たちには、教え伝える相手がいない。途方も無い数の人々に言いふらしたとしても、ここじゃ誰も記録なんて満足に書けない。だって私たちは、記録する術を持っていないのだから。
鞭を持った工場長たちが、さて、今日も仕事を始めるぞ、と言い出して──嗚呼、本当にこれが正しいとしたら、昨日も私たちは生きていたのだ。しかも、こっ酷い労働を押し付けられて。少しでもミスをすれば、彼らの鞭が飛んでくる。私たちは延々と機械を動かし続けている。並ぶ機械がカタカタと音を出す。私たちは熟れた足踏みで機械を動かし続ける。ここは製糸工場らしい。朝も昼も夜も、糸が出来上がっていくのを眺めているだけ。それ以外は見られない。朝と昼は「タイヨウ」の光が、夜は白熱灯の光が、変わらず一定の明るさを保っている。外の世界なんて見た記憶すらも無い。私たちはこの鉛色の棺桶に詰められて、生きたようなフリをして、また眠り、全て忘れてしまう。
カミサマという存在を知らないわけではない。概念や知識としては知っている。「タイヨウ」や「ツキ」から私たちを見下ろしているらしい。朝、脳内に声が聞こえてきた。近くで強姦の罪を犯した個体がいたらしい。工場長たちが、うちの奴だ、と忙しなく言っていた。気持ちは分かる。カミサマなんて眺めているだけで、私たちを救ってくれやしない。だったら、一日くらい快楽に満ちた生活をしたいと思うだろう。さっさと救われたいと思うだろう。されど、私は逃げられない。彼だって命からがら一人の人間を捕まえて犯したのだろう。
鞭には電気が通っていて、それで叩かれると、頭が割れるような痛みを伴うのだ。キーン、と高い金属音が、脳をくり抜くように頭を満たすのだそうだ。それが真実かどうか尋ねる勇気は、今日の私には無い。きっと明日の私にも無い。強姦魔にはあったのだ、試す勇気が。この金属の棺桶から逃げる勇気が……
「ツキ」が南中するより少し前に、私たちは仕事を止めた。そのまま監獄のような部屋へと連れて行かれる。まるでこの世の食べ物を固めたかのような雑な食事を食わされて、目を閉じる。そうして、何もかもを忘れる。明日の私は、今日の私の気持ちなんて知らないだろう。
眠りに落ちる刹那、私は一つの叶わぬ願いを独りごちた──どうか、明日の私に届きますように。毎日毎日同じ祈りを捧げているのだろう。そして、その祈りは、カミサマとやらの無機質な啓示と共に露と消えるのだ。
◆
朝の栄養食品を口に入れて、遠くを眺める。無限と思えるほど続く広い食堂には、一様に同じ髪型をして、一様に同じ作業着を着たクローンが並んでいる。個性なんて言葉は無い。今日の私はそんな当然に恐怖に怯えながら、食事を終えて立ち上がった。そろそろ労働が始まる。チャイムが鳴れば、そこからは十六時間の勤務だ。私は大きな溜め息を吐いて、列に並んだ。
すると、とんとん、と優しく肩を叩かれた。思わず震え上がって振り返る。後ろにいた人が私を招いて手を振っていたのだ。どうやら彼の後ろも、そのまた後ろも同じことをされていたらしい。私も同じように前の人の肩を叩くと、この列は一人の教官に導かれて、他の列より先に動き出した。
前を歩くのは、黒い服を着た上司だ。片手には鞭を携えている。空振りするたびに風を切る音がして、叩かれてもいないのに私の肝が冷えた。階段を降りる硬い足音に、私の胸も同時に跳ね上がる。ずいぶんと下へ行くものだ──そう思っていると、最下層に辿り着いた。そこには檻があり、南京錠がかけられている。
上司は鍵を開けると、何も言わずに鞭で私たちを招いた。意思無き機械のようにして、私たちは足を進める。全員が檻に入ると、上司は鍵を締めてしまった。後戻りはできない。ただ前に長い長い道が続いている。
わらわらと重なる足音は、まるで百足が歩くようだった。暗く冷えた空洞に乱反射して騒がしい。その騒音の真ん中を突き抜けるようにして、硬い足音が跳ねている。前を歩く人間の顔は、後ろからでは見えない。
洞窟を歩いていく先、ぼうっと明るい空洞が見えてきた。煌々と冷たい岩肌を照らすのは、橙の炎を抱えたランプ。人々はその広い空間に吸い込まれるようにして消えていった。
教官らしき人物に言われるがままに、私たちは腰を下ろした。最前列に座った私は、ようやっと黒いローブの人の顔を見ることが出来た。白い肌、亜麻色の艷やかな髪。薄い微笑みを浮かべ、私たちを黄色い目で見下ろす。首から下げたロザリオが、炎に反射してきらんと光った。彼が、すう、と息を吸い込む音までが鮮明に聞こえる。私たちは皆、彼を食い入るように、否、穴を空けるように、じっ、と見つめた。
「ようこそ、選ばれし使徒たち。人類悪を下す英雄たち。あんたらには今から、『記録』の術を身につけてもらう」
彼の穏やかな声に、反感を覚えた者はいなかったようだ。英雄、などというワードに、私たちは心打たれたのだ。口を結んだまま、フードを脱ぐ人を見つめた。
腰まであるかと思われるような長い髪に、長いまつ毛。もしもカミサマという存在がいるとしたら、こんな見た目をしているのだろう、とさえ思った。唇から漏れる彼の静かな息遣いでさえ、敏感な聴覚は聞き逃さなかった。
「そうですね、仮に呼ぶなら……僕の名前は、『ハレー』。彗星を意味する名前です。えぇ、あんたらは彗星などという言葉を知らないでしょう。生まれながらにして、工場の家畜だったのですから?」
「……お前は何者なんだ」
不思議なことに、私の心からは恐怖というものがすっかり消え去ってしまっていた。彼が持つ鞭も、彼が上司の姿をしていることすらも、彼の語りを聞いているうちにどこかへと消えて無くなってしまった。ゆえにこそ、私は口を開いたのだ。今度視線を集めるのは、私になった。
ハレーと名乗った人は、私の発言が面白いのか、クスクスと悪戯っぽく笑った。それから、甘ったるい目で私を見下ろした──実に、温かい視線だった。
「僕は、カミサマに仇をなす使徒です。我々に忘却という悪をもたらし、あんたらをこうやって独房に閉じ込めているカミサマを撃ち落とすための使徒。同時に、そんな人類悪に頭を垂れ、あんたらに文字を学ぶ機会を与えない肥え太った豚どもを焼き払うための使徒です」
「文字……? 記号みたいなものか?」
そう声を上げたのはおそらく、何時に忘却がもたらされるか調べたと言った人だったのだろう。彼は私たちより一回り賢いから、記号というものを使って記憶を持ち越しているのだろう。問いかけに対し、ハレーは、いかにも、と言って頷いた。
「あんたらの思考を明日に継ぐために、最も必要なもの──それは、文字です。文字は消えません。あんたらには今から、文字を覚えていただきます。そうして記録が残せるようになったそのとき、僕らと共に革命を起こしてもらいます」
「革命、なんて、馬鹿げている。俺たちはここから抜けられないんだ」
誰かが投げやりにそう言った。まったくそのとおりで、今日は一人の労働者が外へ飛び出そうとして、電撃を喰らっていた。絶命せんばかりに絶叫し、白目を剥いて暴れていた。アレにはなりたくない、ということだろう。私だってそうだ。
ハレーはまたクスクスと嗤った。今度は私たちを小馬鹿にするような冷笑だ。背筋を冷たい手でなぞられるような、腸を握り潰されるような、そんな重圧を感じさせる笑みだった。
「ふふ。嘘って大嫌いなんです、僕」
「嘘なんて──」
「いえ、そうはさせません。そのためにあんたらは選ばれたのだから。そのためには多少痛い思いをしても良い──そう思える者だけを、僕は英雄として呼びます。
元の家畜に戻りたければ構いません。僕は、救いを求めぬ人間に救いを押し付けたりはしませんから。いかがですか?」
誰一人として、動ける人はいない。蜘蛛に囚われたからか、蜘蛛の巣に自ら飛び込んだからか。私は後者だ。暫時静寂を見守ってから、ハレーは拍手をした。嗚呼、素晴らしい。吐息混じりで、快の表情の滲んだ声だった。
「では、一人ずつ僕についてきてください。ここから地上へと上がって、それから外科医による手術をもって、脳内に埋め込まれた金属を抜きます。そうそう、その間に逃げ出そうとするなんて真似は止めてくださいね? 僕、裏切りって大ッ嫌いなんです」
ハレーの言葉には相変わらず威圧が込められている。砂糖菓子の微笑みを浮かべながら、その懐で苦い苦い弾丸を込めた拳銃を突きつけているような感じだ。そんな彼に見惚れていると、彼は最初に私を呼んだ。
導かれるままに歩いていけば、地上に繋がるらしき梯子に辿り着いた。彼に言われるまま、梯子を上っていく。次から次へ、彼に呼ばれて、蟻たちが行進する。まさに、労働者という奴隷に相応しい行列であった。
梯子の上には、薄暗い部屋がある。かと思えば、急に白熱灯が光って、目が焼けるくらいに眩しくなった。周りを黒ローブの人々に囲まれたかと思うと、口元に何かを当てられる。くらりと揺れる頭、消える視界、遠のく意識。もう明日の私に、逃げろ、と言う気にはなれないまま、今日の私は死ぬ──はずだった。
◆
ここまで全てを書き記し、俺は立ち上がる。ハレー様がお呼びになったからだ。黒いフードを外し、彼はあの日と同じ妖しげな笑みを浮かべて私を見つめる。彼が張り巡らせた蜘蛛の糸に巻かれるのさえ、今の私にはなんてことの無いことだった。
「御機嫌よう、『アテーナ』。手記の手筈は?」
「ある程度は。とにかく、あの劣悪な世界を書き残しておけば良かったんだろ? あと少しで終わるさ」
「そうですよ。僕たちが死にゆくとしても、世界は続いていく。その人々に、いかにカミサマとやらが酷い統治をしていたかを知らしめる必要があったのです」
今の俺には、記録する術がある。文字を用いて、記号を用いて、死ぬはずだった昨日の俺を、明日の俺へと繋ぐことができる。それもこれも、ハレーが手配した手術のおかげだ。まだ手術痕はかすかに残っているが、ときどき痛む程度で困ったことは無い。脳に埋め込まれた金属を外すことで、なぜか「雛芥子の贈り物」が効果を成さなくなるらしい。イザベル派は、ずっとこの実験を続けていたのだそうだ。
……ハレーは、人類悪に対抗するイザベル教の教祖だった。最初に声を上げた英雄たる俺を気に入ったのか、彼は俺をそばに置いておくことにしたらしい。彼は俺に、「アテーナ」という名前を授けた。
もちろん、他の労働者たちも彼にとって最愛の使徒たちであることに変わりは無い。今頃はきっと、数々の工場に忍び込んで機械を破壊し尽くしていることだろう。「オブリヴィオン」中に撒かれた彼の花々は、今、一斉に開花しているのだ。
あれから知ったのは、貴族のほとんどが原理主義者だということ。それゆえ、忘却行為を好意的に捉えている。我々労働者は背教者として、原理主義者たちは団結して、カミサマの偉大さを語る。しかしそれは詭弁で、所詮は無学な労働者をこき使うために忘却がもたらされるのは都合が良い、というだけだった。
労働者による革命は、始まったばかりだ。これから数々の工場を壊し、身を焦がし、やがて枯れ果てるだろう。雇用主のいない人々は、やがて貧困に喘ぐ。それでも、彼らは叫び続ける──我々は、奴隷ではない。たとえ人類悪にもたらされた忘却をまたいで記憶を失ったとしても、我々は我々たるのだ、と。
すっかり伸びた濡鴉色の髪を緩く結んで、ハレーの隣に並び立つ。窓の外、空は赤く染まっている。この地帯は戦火に包まれた。我々革命派は、英雄イザベルが焼き払われた炎をもって肥え太った貴族どもを裁く。その報復として、貴族は最新兵器で襲いかかってきた。爆弾に、銃に、砲弾に……それはまさしく、殺し合いと呼ぶに相応しい。この戦火の前では、人間の価値など吹けば飛ぶ塵に等しい。家族も、子供も、何もかもが関係無い。これは、戦争だ。オブリヴィオンを分ける動乱だ。
ハレーの横顔を見つめる。彼はあの日と変わらず微笑んでいる。戦火に身を投じる使徒たちを慈しんでいるのだ。原理主義の奴らが人類悪を美しい女神と称するならば、我々イザベル教の教祖はまさに魔女イザベルの生まれ変わり、女神である。
かなしいですね、と彼は呟いた。俺が理由を尋ねれば、彼は微笑したまま、はらはらと涙を零す。動揺してしまって、俺は彼の手をとった。
「なぜ泣くんだ?」
「なんと、かなしい……カミサマは今、たった今ですらも、あの『タイヨウ』から我々を見ているはずなんです。それなのに、降りてきて争いを止めてくれやしない。嗚呼、かなしい、かなしい。救い主なんて、この世にはいないんですね」
「……俺には。俺たちには、あんたがいたよ。だから、今もこうして従ってんだ。俺たちは絶対にこの歴史を遺してみせる。全て燃え落ちたその先で、人類はきっと、カミサマとやらを打倒してくれるはずだ、って」
ハレーは何も答えなかった。その代わりに、あの日俺たちを招いたようにして、ひょいひょいと手を動かす。手招かれるままに、俺たちは建物の外へと出た。
外は酷い有様だった。機械が壊れ、石油の臭いと血の臭いが混ざり合って鼻が曲がりそうだった。道端には雑に瓦礫と死体が積まれている。砂埃で息ができやしない。ハレーに砂塵よけのマスクをさせて、二人で壊れた街を歩いた。
かつてこの街は、「ベネディクシア」と呼ばれていた。カミサマが訪れる街として発展していたことも、この産業革命の間に忘れ去られた。もう誰もここの服など買わない。少し歩けば見つかる遊郭に工場長どもが遊びに行くだけだ。ほとんどの店は工場に買い取られた。特産品だけが生き残って、今もカミサマの存在を謳っている。
煙が上がる方角へと歩いていく。だいぶ歩いた先には、原理主義の大修道院があった。ハレーに手を引かれるままに中に入れば、ひび割れた壁と、今にも崩れてきそうな天井が目につく。瓦礫だらけになった礼拝所には、人っ子一人いない。十字架は歪み、聖書はぼろぼろになり、ステンドガラスは割れて赤い光を落としている。原理主義者が真っ先に狙われるとて、皆逃げ出したのだろう。カミサマが描かれたらしき肖像画は、「らしき」と呼ぶに相応しいほど掠れていた。
教祖アストライアの教えの書かれた壁をなぞりながら、ハレーは切なそうに笑う。彼はほとんど取り乱すことが無い。教会に死体が転がっていても、鼻を摘んで眉をひそめる俺とは違い、彼は変わらぬ笑みを浮かべて大股で歩いていってしまうのだった。
「この世界は、終わってしまうのでしょうかね」
不意にハレーがそんなことを言った。俺はびっくりして振り向き、彼の横顔を正視する。何を言ったら良いか分からなくて、黙っていた。
もしも世界が終わってしまったとしたら、生き残った俺たちはこれからどうするのだろう。イザベルの教えを伝えようにも、知っている人は俺たちくらいだ。もちろん、重要な書類や外科医は地下に置いてあるし、全てが消え去るなんてことは無い。しかし、誰も金なんて持っていないし、畑は焼き払われてしまった。貴族は毒ガスを放ったという話もある、住めなくなる地域もあるのだろう。
ハレーも俺も、まだ若い。老い先短い身ではない。これからの世界を眺めながら、俺たちは生きていかねばならないのだ。俺たちは、これからの未来を作るために戦っているのだ──
何か言葉を返そうとした、そのときだった。背後から硬い足音が近づいてきた。咄嗟に工場でのことを思い出して、体が緊張する。すぐに振り返り、ハレーから貰った拳銃を構えた。そこに立っていたのは、奇妙な形をした黒いパーカーを着込んだ人間だった。彼は徐に距離を詰めると、フードを脱ぎ、顔を顕にした。
「……なっ、カミサマ……⁉」
青白い肌に、真っ赤に燃える瞳。一人だけ違う顔つきの人間。はっとして肖像画を見れば、瓜二つ。あくまで瓜二つなだけで、誇張された慈愛に満ちた笑顔など浮かべていない。無表情そのものだ。唇は真一文字、目はやや細められ、眉は吊り上がっても垂れ下がってもいない。彼は俺を見ていない。隣に立つハレーを見ている。
ハレーは手を口元に当て、クスクスと笑って肩を揺らした。ハイヒールを鳴らし、カミサマへと近づいていく。カミサマは歪まぬ視線を彼にぶつけていた。
「これはこれは、御機嫌よう。まさか、あんたがカミサマ、だったりして? まぁ、騙されているのだとしたらここで仕留めて──」
「黙レ、人間。貴様ハ重罪ヲ犯シタ」
「重罪? 僕はただ人々を救うために人々を導いただけ。今この世で裁かれるべき人なんてたくさんいますよ? 第一、僕は人に手をかけてなんていない」
「否。貴様ハ人間ヲ戦争ヘ導イタ。其レコソが貴様ノ罪ダ」
はち切れたようにして、ハレーが笑い声を上げる。腹を抱え、心底面白そうに涙を流す。それでも、カミサマの表情は変わらない。あたかも作られた人形のような無表情でいるだけだ。俺はだんだんそれが恐ろしくなってきて、ハレーを抱き寄せ、銃を握る力を強めた。
「カミサマだかなんだか知らねぇが、うちの教祖に手を出すな。殺すぞ」
「ソウヤッテ人間ヲ誑カシタ、偽リノ救世主ニ告グ。貴様ハ──」
「──ッ、ふざけるな! ハレーは! ハレーは、俺たちを救ってくれた! そこに腹心なんか無い! 原理主義者がそんなに愛しいか⁉ 俺たちはお前のせいで奴隷のような生活をしていたんだ!
お前が! お前が俺を救ってくれなかったから! ハレーは俺を救ったんだ!」
カミサマは口を閉ざし、今度は俺を見つめた──静かな赤だった。怒りも憎悪も無い。むしろ、哀れみさえ感じた。その目がとても、とてもハレーに似ていたもので、銃を握る手が震えた。嗚呼、カミサマもハレーと同じ顔をしている。人間を哀れんでいるんだ。醜く争い合う人間に、涙を流して、悲しんで、哀しんでいるのだ。
俺の言葉に、カミサマは何も答えてくれなかった。相手にすらされていない、と、思った。そう思った瞬間、急に引き金を引く気力が湧いてきて、一発、二発、弾丸を撃ち抜いた。俺たちを辱め甚振った者へ復讐するために。俺たちを裏切り嘲った者へ反逆するために。
銃弾は、当たらなかった。何か壁のような物に当たって、跳ね返ったのだ。
……魔術だ。俺は無意識に、そう言葉を漏らしていた。
「僕ハ、人間ガ嫌イダ。貴様ノヨウナ『デマゴーグ』モ、貴様等ガ忌ミ嫌ッタヨウナ貴族モ嫌イダ。ダカラ、僕ハ……」
「嗚呼! 何か良からぬことを考えていらっしゃるんですね、カミサマ? 僕らに天罰を与えようと? 何故? 全てはあんたの責任なのに──」
「貴様ガシタヨウニ、僕ガ人間ヲ正ソウ」
カミサマの声に、俺たちは固まった。本当に動けなくなったのだ。哀しそうに笑っていたハレーですらも、指先一つ動かせなくなった。それから、後頭部を殴られるような衝撃で、俺は地面に倒れ伏した。視界がブラックアウトする。手から拳銃が離れる。記憶が遠のいていく。
闇に呑まれる意識の中で、無機質な声で、シャットダウン、と──そう聞こえた気がした。
◆
「ハレー。否、『ヒナゲシ』。貴様ハ最期マデ教徒達ヲ騙シタ大罪人ダ。然シ、同時ニ人間ノ進歩ヲ促シタ英雄ダ。戦争ハ人ヲ進化サセル。何故此ノヨウナ手段ヲ取ッタ?」
取り残された二人は向かい合い、見つめ合い、牽制し合った。倒れたアテーナに目をやってから、ヒナゲシは座り込み、彼の頭を撫でた。
「本当、ですよ。僕は確かに、人類というものの成長を願っていた。人類を心から愛していました」
「デハ、何故嘘ヲ吐イタ?」
「それは……こんな名前を名乗ったら、僕が本当は、あんたの存在を信じてたってバレてしまうではありませんか?」
ヒナゲシは肩を竦め、首を振った。ネックレスを襟から出して垂らしてみせる。きらりと光る、花の巻き付いた十字架が、仄暗い聖堂の中で一際目立っていた。
「あんたに、助けてほしかったんです。こんなに腐った人類を。こんなに苦しんでいる人類を。このまま世界が終わってしまったら、そのときはそのときです。神様なんていなかった、だから世界は滅んだ。それはそれで当然の報いだとは思いません?」
カミサマの目の前で、ヒナゲシはアテーナの持っていた拳銃を拾い上げた。それをゆっくりと自分の頭に当て、ふつふつと笑い声を上げた。
「僕が生きていては、彼らも自由になれないでしょう。嗚呼、最期に行った賭けは、僕の勝ちですね。あんたはちゃんと下界に降りてきてくれた。
──あんたが築く新世界で、彼らを幸せにしてあげてください。それだけが、僕の願いです」
「……理解不能。何故、人類ヲソコマデ愛スル?」
「さぁ? 少なくとも、花一華様……あんたが下さった恩寵を蹴っ飛ばすくらいには、人類は偉大ですよ。じきに追いつかれることでしょう。惨めに、無様に、あんたに這い寄ることでしょう。僕は、そんな懸命な人類全てを、愛しています」
乾いた銃声、倒れる体、静まる聖堂。カミサマは独り、天を仰ぐ。
シャットダウンは、あくまで判別端末の手術が不十分な者のみに効くものだ。アテーナと名乗った人間に効いたのも、事前にカミサマが、花一華が、アテーナの手術について調べていたからである。
これから、長い長い暗黒時代が到来する。たとえシャットダウンが行われなかった人類であれど、食料が底を尽き、耕作地すら焼き払われた世界では生きていけないだろう。花一華は独り、誰もが眠りに着く世界を彷徨い、改革をする。今度こそは人類が幸せに過ごせますように、と。耕作地が回復するまで。瓦礫が全て取り払われるまで。死体が全て埋葬されるまで。空気の汚染が無くなるまで。人類の構造がアップデートされるまで。再び世界に美しい花々が咲き乱れるまで。
ヒナゲシのもとに寄り、花一華は彼が持っていたロザリオを手にとった。しばし感情の無い目で見つめてから、それを自らの首に下げる。そして、教会を後にする。
のちにこの日は、ドゥームズ・デイと称されるようになる。人間の手ではなく、カミサマの手によって世界が裁かれたからだ。しかしそれは、何百年もあとの話だ。
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