第9話:科学の友

 日時計は朝十時を指していた。昨日の自分は研究に没頭しすぎてしまったのだろう、書きかけの数式が残された本を顔に乗せていた。本に口づけをすると、机の上に置く。それから大きな伸びをして、窓から街を見下ろした。

 カラフルな人々が、白いレンガの道の上で行き交う。様々な髪型と服装をしているのだ──それが職業の証明になるからだ。一方の私は、たいてい安い服を買っているだけだ。オシャレには興味が無い。特に服屋やアクセサリー屋なんかは派手な服を好んでいるらしいが、私はどうも無駄なパーツが苦手なようだ。「リボン」とか「レース」とかは性に合わない。

 今日も黒いローブを着る。別に修道院主義ではないので、自分好みに改良してある。結構これがお気に入りなのだ。ペンやコンパスを入れておけるポケット、気候に合わせて脱ぎ着しやすいチャック付き、フードは切ってもらった。服屋には頭が上がらない。

 清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、外に出る。自室はしばらく掃除をしていないみたいだから、埃とカビ臭いったらありゃしない。今日買ってきてほしい物は一昨日の自分がメモを残している──ということは、昨日の自分は外に出なかったということだろうか。あとで日記を見てみよう。

 私が住む「ベネディクシウム」は、オブリヴィオン共和国の中でも最大の街だ。ここに家を構えた日の自分には賛美を送りたい。白いレンガで舗装された市場には、綺羅びやかな服に、炊きたてのパンに、新鮮な魚に、大ぶりな肉に、無数の雑貨に、挙げ句の果てには自らを彩る化粧品まで並んでいる。骨董品店にはガラクタと宝物の境目が置いてあるから、私のお気に入りだ。私は一生お世話にならないだろうけど、志願した娼婦が経営する遊郭も街外れには存在する。あそこは顔を窶れさせた「労働者」の行く場所だ。

 空は青く澄み、空気は食事の代わりに腹を満たす。白い雲の続く向こう側、コンパスが指す東の方は、いつも空が淀んでいるという。そこにあるのは「工場」だ。私が一生お世話にならなそうな二つ目の場所だ。時折つなぎを着た痩せ細った人とすれ違う。彼らも食事を買いに来たのだろう。だいたい、あそこは知識も職も無い奴らが行くところだ。私は死んでもあんなところに縛られたかないね。

 しばらく鼻歌を歌いながら歩き回っていると、声をかけられた。昨日までの私には友人がいた、ということだろうか──そう思ったのだが、見てみると、記録に何一つ残っていない店から声をかけられていたらしい。若い店主は長い髪の色を抜いていた。そんな技術もあるのか、と感心しているうちに、店内に招かれてしまった。圧しに弱いのだ、私は。

 店主は私の頭から足先までを眺め、何やら愉しそうにカラカラと嗤う。いきなり見知らぬ人に笑われたらこちらとしても苛立たたざるをえない。少しムッとして用件を尋ねた。すると、店主はダスティーピンクの口紅をした唇を三日月の形にして微笑んだ。

「いやいや、お客さん、こんなのまだまだダサいよ。もっと良い服着なよ、これ職業着じゃないんでしょ?」

「面識の無い人間に『ダサい』だなんてよく言えたもんだな」

「まぁまぁ。アタシ、ここらへんで最先端だよ? 服見りゃ分かるでしょ。ね、アタシにコーディネートさせてよ」

 挑発されるままに相手の洋服に目をやる。なるほど、確かに違う。やけに装飾を付けたがる奴らとは違い、機能性に長けている。ワンピースやローブだらけの人々の中、上が簡素化されたシャツに下がジーンズ素材だなんて、最先端かどうかはともかく非常に珍しい。

 店にある服に触れてみると、軽くて触り心地が良い──最先端と言っていながら、使っている素材はレーヨンだろうか。懐古主義だな、と言うと、店主は指を振って否定した。

「分かってないなぁ。これからは機能性の時代だよ。豪華で綺羅びやかなら良いってもんじゃない。普段使いできて、量産できる、機械製の服の時代だ!」

「ほう、それは納得だな。まだ巷は絹素材だの毛皮素材だの、貴族もどきだので鬱陶しい服ばかりを着ているからな」

「お客さんを引き入れたのも、同じ感覚を感じたからだよ。お客さんはきっとファッションの最先端を着て歩くモデルになってくれる、って」

「私はモデルではなく研究者なのだが……」

 私の言葉に、マジで、見えないんですけど、と店主は言って目を丸くした。まぁ、確かに、改造された服を着ている奴なんて、オシャレに一家言ある人だと思われても仕方無いだろうか。

 機械製の服の時代が来る。それは、自分の考えに一致していた。今はエネルギー作りのために使われている機械だが、きっと一番合うのは裁縫の分野だろう。機織り機を量産すれば、布はあっという間に出来るようになる。

 店主に圧されるまま、服を作ってもらうことになった。オーダーメイドは高いけれど、そこで出せる金があるのが研究者だ。なぜそれだけ金があるのか、と聞かれれば、研究者だから、とと答えるだろう。

 イザベル派の教会に身を寄せれば、研究資金を出してくれる。彼奴らは世界の「魔法」じみた神秘を、種も仕掛けもある「科学」に落とし込むことに目が無いからだ。メジャーを当てられ、布を当てられ、かと思えばその布を自家用足踏みミシンで縫っていくのを見つめていると、そのスピードに驚かされる。オーダーメイドが一日で済む時代になったのだ。半ばうたた寝しながら待っていると、質素な服を着た商人に呼ばれる。お客さん、と呼ぶばかりで、やはり名前は知らないらしい。

「ほら、服出来たよ」

「これは……ボタンが付いた、上着?」

 商人が手にしていたのは、白く長い上着だった。大きなポケットが付いていて、袖先は広がっている。袖を通してみると、綿の触感が心地良い。綿というのは衛生・災害予防に良い素材であるから、これを着て実験をすれば、危険な薬品を扱うのにぴったりだ。

 初めて会ったとは思えない観察眼に、私はようやく彼への軽蔑を払拭した。私が「化学」に精通していると見抜いたのだから。

「白い服だから、『ハクイ』とでも名前付けとく? お客さんさ、鼻にツンとくる薬品みたいな臭いがするんだよね。そういう人にうってつけさ!」

「お見事と言わせてもらおうか。実験に使いたい、いくつ作れる?」

「いくらでも、金さえあれば。今はそういう時代でしょ、お客さんの方が知ってるじゃん?」

 そう言ってウインクをした商人に、私は苦笑して紙幣を差し出した……彼の言うとおりだ。私たちが見出した物質の性質を利用して、動力を、数式を作り上げ、世界を変えているのだ。研究者とは、彼の言うような世界を作る人々のことを言う。

 であるからにして──この「白衣」を買い込むことは、明日からの私の助けになるだろう。研究者仲間にも勧めなくてはならない。嗚呼、早く帰って記録しないと! 記憶できない魔術を使うカミサマに対し、我々は記録する化学をもって日々を生きていくのだから。

 そのためにも、と、得意げににやける若造へ目をやる。彼は足踏みミシンの傍らに座り、足を組んで、自分が作った白衣に見惚れていた。

「君の名前を訊こう。明日からも白衣の制作を頼むと思うからね」

「はいよ。アタシの名前は、『エイフルディ』。ここはエイフルディの服屋だよ」

「そうかい。私は『メンドリアン』という。いつもはいろんな液体について研究しているのさ」

 握手をして、互いの名前を交わす。良き化学の友が増えて、明日の私も昨日の私も光栄なことだろう。とりあえずあと三つの白衣を頼んで、私は店をあとにした。

 見渡す限り広がる露店の数々。人々が個性豊かな格好をし始めたのは、胎内でもともと一つだった人類が、へその緒を切られて離れたかのよう。サルが人間になったよう。黒いローブに切り揃えた髪ですらも没個性から立派な個性へと変わっている。服を選ぶ自由が出来たのも、化学の発展ゆえなのだと信じたい。

 まったく、化学とは最高だな。私は多彩な人々を眺めながら、束の間の休日を楽しんだ。

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