第7話:真理を知った彼女は、まさに

 病は悪魔のせい。欠損は死の兆候。祈りだけが病を遠ざける。免罪符を買った者は病気になりにくい。病気になるのは不信心者だ。死に瀕した者に近づくと死神が憑く。嗚呼、全部全部全部、白痴が言うことだ!

 困った時の神頼み。病は気から。そんなくだらない精神論が、真理の獲得を妨げ続けている。医者という仕事をしていながら、私は何一つできた試しが無い。いや、昔のことは覚えていないけれど、日記に書かれている私はずっとそう思っているのだ。

 昨日まで胸を押さえて悶え苦しんでいた老人が、次の日になってやけに元気になって、こんなところに閉じ込めるな、と言って病床から去ってしまうことがよくある。たいてい次の日には其奴は死ぬ。顔に黒いシミがたくさんできて、脇がぱんぱんに腫れた青年がいる。其奴は昨日の症状を覚えていないから、仕方無く閉じ込めるしか無い。泣きながら切れた足の痛みを訴えてきた子供は、翌朝全てを忘れてまたギャアギャア泣く。其奴らは皆死ぬ。それを天命だとして受け止めている世界が、私は許せない。

 この世界は、あまりに死に無頓着だ。死ぬ寸前になって忘れられたくない忘れたくない忘れたいとほざくわりに、誰もそれを助けようとはしない。全てはカミサマが下さる「雛芥子の贈り物」のままに。苦労して人を救おうとする奴らはいない。目の前で死んだ肉親に涙一つ流さない。明日には全て忘れて幸せに生きていけるのだ。なんて呑気な生き物だろう。

 私がそう思い始めたのは、とある狼に出会ったときだった。彼は群れのトップで、最愛の妻がいた。狼を駆除する人間に対し、彼は人の足を、手を、耳を食いちぎって対抗した。ついに我々人類がとったのは、妻となる狼を殺害することだった。今思えば、なんて無慈悲な選択だったのだろう。村の人々は妻の死体を門にぶら下げた。すると、ぱたりとボスが来なくなってしまったんだそうだ。ある日死体は下ろされて消えていた。おそらく、死体は彼らによって弔われたのだろう。

 それが、人間はどうだ? 人間はただ、邪魔な物を排除するように土に埋めるだけだ。今まで誰がどのように生きていたかなんて、地面の中では無に等しいのに。分解者によって分解されるのは何も体だけじゃない。

「だからって、ドクター・イザベル、これを私にやれと?」

 一体の死体を前にして、看護師は顔を緑色に染めて嗚咽を漏らした。鼻を曲げるような酷い臭いだ、これが死臭だ。人間が鼻を摘んで捨ててきた命だ。そう思うと、別にこの程度の刺激臭、なんとでもない。記憶など無くとも、我々はこの臭いを何度も何度も嗅ぎ続けてきたはずだ。

 長い髪を高く結う。これは私にとっての儀式だ。うざったい髪を退けるためでもあるが、同時に、患者を救うためのルーティンでもある。いつ決めたか、どうしてこうなったかなんて覚えていないけれど、集中するためのレシピは身についている。

 金属で作ったハサミをもって、腹を裂いていく。もうすでに息絶えているから、鼓動とともに血が吹き出すことも無い。ただ、ひんやりと、ぶよぶよとした物体が手に触れるだけだ。手に収まるほど小さなパーツを持ち上げ、千切るたび、書記官がえずいては腹の中身を吐いている。据えた臭いと腐った臭いで酩酊状態だ。いや、ギルド街よりはマシかもしれない。

 他の生き物の中身を捌いてある程度の知識は得たことがあるくせに、人間は人間の体を解剖したことは無い。配置も形も、かなりサルに似ている気がする。牛は四つの同じ器官を持っていたし、顎は未発達だ。肉食獣になると牙が鋭くなる、そうでなければ肉を噛みちぎれないからだ。では、人間は? 雑食動物の人間の顎もそれなりに発達しているが、一本一本抜いていくと、肉食獣が持つ牙と草食獣が持つ奥歯を兼ね備えているようだ。

 ……美しい。

 いったい誰が、人間という精密な構造を作ったのだろう。触るとドクドク跳ねるところには、薄い膜から出来たこぶし大の肉の塊がある。その皮をゆっくり剥けば、中は弁のついたポンプのようになっていた。中身を見ているだけで耳が遠くなって、歯がガチガチと震える。ドクドクドクドク。自分が手に持ったパーツが、自分の中で早く打鐘を打っている。手のひら大の形をした二つで一つのパーツは、触ればもじゃもじゃの糸のようだ。広げてみれば自分の身長くらいある長い長い管もある。全ての配置はサルやゴリラなんかにそっくりだった。

 どうして誰もこんな中身を見ようとしなかったのだろう。人を殺すなという教えはあったが、人を研究するなという教えは無かった。サルで見たパーツと比べてみれば、これが血を送る物で、これが息をする物で……全てのパーツに、意味がある。

「全て書き留めたか、お前たち」

「もう、もう嫌です、ドクター。こんなこと、あなたがやってください……」

「お前たちだって人を救いたいって言ってたじゃないか。そうだ、この人は呼吸器官に障害があったのか」

 黒ずんだ二対の臓器を手にする。これさえなんとかできていたら、この人は死なずに済んだ。今度は、ここがやられない方法を探さなければならない。そのためには、ここの働きの究明をしないと。

 さて。息を整え、次は顔へと向かう。頭をゆっくりと裂いて、骨を砕いて、中身を開けた。そこには、しわくちゃの臓器が入っているのだ。サルもゴリラもネコですらも持っていた臓器。まるで蜘蛛の糸のように、されど無秩序に広がった亀裂だらけの、最も悍ましいパーツ。私はそこに、今までどおりの肉の塊があると信じた。他の生き物がそうだからだ。

 しかし、そこにあったのは、肉の塊ではなかった。詳しく言うなら、肉だけではなかった。金属と肉から出来た、醜く色褪せた臓器が、そこにはあった。

 私は狼狽した。書記官はもう中身も無いのに胃液を吐いて、看護師は悲鳴を上げて逃げ出した。そうだ、散々生き物の中身を見たことがある私たちですら、酷く恐れた。どこの中身も肉から成っていたのに、ここだけは別の物体で出来ていたのだ。試しに指の関節で叩いてみれば、小気味良い金属音を上げる。鉄でも銅でも金でも銀でも無い。てらてらと光る、硬い塊。病気のせいか、それとも人間だけは元からこうなのか? どうして、人間だけが……

 思考の海からぐいっと引き上げるように、書記官が声をかけた。お時間です、と言いながら、外を眺める。立ち上がって外を見れば、「前期の道標」たる星座が南中に近づいていた。つまり、「雛芥子の贈り物」がそろそろ施されるのだ。一つ一つパーツを体を戻し、自分が解剖をしていたことを書き留めた。この死体は明日の私に廃棄してもらおう。何より、一つ大切な情報が得られたのだ──人間の脳は、どこかおかしい。

 記憶が途切れて眠りにつくまで、吐き散らした異物と臓物から垂れ流れた体液を片付けていた。まったく、こんな物をどこに廃棄しろと言うのだ。思いつかなくなり、拭き取った布と死体とを裏山に埋めに行くことにした。そこで、今日の記憶は途切れた。



 何度も書記官を金で雇い直し、看護師を失い、私はもう二桁になる死体を解剖した。そこで理解したのは、全ての人間は脳に金属が練り込まれているということだ。死に瀕した人間をも解体することで、一つ一つの臓器の役目も解明されていった。血液を送り出すポンプに、体を動かすゴムと体を支える細い個体。食べ物を消化し排泄物へ変える一連のパーツ。そして何より、今のところは謎が多い頭の中身。死体から抉り取った金属をぶつけることで、相手の体に何か反応を起こせる──そう、何か、というところまでしか分からない。体をびくりと痙攣させたり、感情を発露させたり、覚醒したり昏睡したり。

 しかし、何のために? 頭をぶつけ合っても反応は無い。ただ、直接その金属に触れたときだけ反応があるのだ。

 その疑問を解消しようとして、人を攫ったときのこと。私は唐突に黒服の人間たちに捕まった。皆一様に同じ髪をしていて、同じ服を着ている。首から下げた十字架を見て、事態を察した──これは、異端審問だ。私は今から、教会に連れて行かれるのだ。

 気がつかないわけではなかった。ある日から、カミサマからの啓示で自分の個体番号が呼ばれるようになっていたのだ。カミサマは「タイヨウ」と「ツキ」を通して私を見ていると知っているから、できるだけ建物に立てこもっていたのだが……書記官か看護師の裏切りだろうか。

 一度啓示をされたら、もう逃げられない。カミサマは何らかの手段で私の生死を確認している。死にゆく人を守りやしないのに、生きている人はしつこく追いかけ回す。頻繁に忘却を与える。カミサマは、人類の敵だ。人類が超えるべき敵なのだ。

 檻に閉じ込められ、審判を待つ間、私は何度も忘却を味わった。まさに拷問だった。毎朝起きてはなぜ自分が閉じ込められているのか、ここはどこなのかと混乱したものだ。質素なパンと水だけを与えられ、シスターは私に、お前はカミサマに背いたのだ、だから閉じ込めたのだ、と言った。昨日も一昨日もその次も、ずっと私は檻の中にいたらしい。

 そして、今日、私はついに刑を下される。慣れ親しんだ「タイヨウ」の光が恨めしかった。嗚呼、カミサマ、貴様は私を見ているのだろう? 覚えの無い罪状を読み上げられる今も、カミサマはじっと私を見ているだけだ。だが、私は過去の行いを悔いることも、命乞いをすることも無かった。なぜなら、私もそうしただろうからだ。人間を救うためなら、死者を冒涜することをも厭わない。死者は死者、もう二度と目を覚まさないのだから。

 処刑台でそう叫べば、人々は私に石を投げつけた。恐怖や悲愴に顔を歪め、私にこう怒鳴る──悪魔め、と。私はこう怒鳴り返した。

 こうして石を投げている貴様らの方が、悪魔なのだと。

「貴様らは死にゆく人を見捨てるのか⁉ カミサマなどという人類悪の教えに従い⁉ 免罪符を買って命を買うのか⁉ 本当に貴様らは、自らのために生きようと努力しているのかね⁉

あぁ、投げたけりゃ投げるが良い! 死を恐れず金をばら撒く者だけが私に石を投げろ! 死に抗いたい者は教会の偽善に背き、その手を下げろ!」

 処刑人らしき人が私を棒に括り付けた。足元ではバチバチと轟音を立てて炎が上がっている。私を焼き払おうとする。炎とともに、怒号は大きくなる。悪魔、救世主、魔女、英雄。二つの声が混じり、人々はもみ合いになった。乱闘が起きるのを、私は赤い火の向こうで見ていた。覆う熱が、思考の一切を燃やし尽くさんとしたその刹那──私の頭に、一つの啓示が響き渡った。私の耳を介さず、頭に直接声が響いているようだった。そうだ、これが私の個体番号を言いふらした声だ。私は目をかっ開き、焼ける喉を枯らして叫んだ。血反吐を吐き、体中の骨を軋ませ、臓物を蠢かせて、天に向かって咆哮した。

「神め……! 貴様を呪ってやる! 人類悪に災いあれ!」

 もう声は出ない。カミサマが言った言葉は、私の咆哮に掻き消されてしまった。真っ赤な視界、焼ける目、ひりつく体。私はその中でただ、憎悪だけを燻ぶらせて、それすらも忘れて、灰になった。



 人々の目の前には、炎が消えて灰になった遺体がある。焦げた体は真っ黒で、頭からは妖しく光る石のようなものが見えていた。その様を描いた宗教画家は彼女のことを「悪魔」として描き、アマチュアの画家は「反逆者」として描いた。名高い作家は彼女を「革命家」として書いたが、むろん、この民衆の中にも「革命家」は存在した。黒焦げの死体を目に焼き付け、自らの闘志を燃やした者がいた。

 人類の全てが、免罪符などという甘い偽善に齧りついて喜んでいたわけではなかった。カミサマの教えをちらつかせて銅貨を搾取する人々を恨んでいた者もいた。カミサマを愛するがあまり修道院の腐敗に腹を立てていた者もいた。ゆえにこそ、魔女イザベルは後世に語り継がれたのだ。

 その魔女だけを、教会は「彼女」と呼び、悪魔に仕立て上げた。その魔女だけを、革命派は「彼女」と呼び、女神に仕立て上げた。カミサマは女神か、人類悪か──これから、長い長い争いが始まる。

 カミサマは独り、「タイヨウ」から処刑の光景を眺めていた。口角を下げ、冷たい声で、醜イ、と呟く。

「ナンテ、人間ハ、醜イ……」

 魔女に炎が移る直前、カミサマは人々に一つの啓示を与えた。普段の機械的な啓示とは大きく異なった。あまりに、感情的だった。

──ソノ処刑ハ無効トスル! 今スグニ執行ヲ取リ止メヨ!

 それでも、人々は止めなかった。利益のために。正義のために。好奇心のために。反逆のために。恐怖のために。その感情の全てを、カミサマは軽蔑した。

「ヤハリ、人間ニハ任セラレナイ」

 コフィンの中で眠る自らの創造主をガラス越しに撫で、カミサマは涙を流した。瞳から溢れた水は、不必要な機能であり、エラーの一つを示していた。

「……僕ハ、人間ヲ──」

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