第6話:ある背教者の手記

 さぁ、今日もアストライア様の教えを繰り返しましょう。あたしは生まれてから毎日この言葉を聞いているのだと思う。思うだけで、あたしは実際にその記憶は無い。それでも、すらすらと長ったらしい教えが口をついて出てくるのは、その記憶がもはや記憶ではなくて、体に染み付いているからなのだと思う。

 信じる者は救われる。忘却という恩寵を頂ける。その二つの言葉を繰り返して、あたしたちは一枚の鉄板を配って歩く。その代わりに、銅色の丸い石を貰う。司教様いわく、これは一枚でお米がたくさん貰える魔法の石なんだとか。これを集めることが、あたしたちの仕事。

 歩く人々は皆、あたしたちの言葉に足を止める。そして、はい、貰っていきなさい、と言って鉄板を受け取る。あたしたちは袋に銅貨を入れる。そこに意思は介在しない。あたしたちは皆で一つで、一つが皆なのだ。あとでこの銅貨を集めて、教会を立て直すお金にするんだと言う。

 でも、いつもあたしの隣で寝ている賢いシスターは、本当のことを知っている。あの子はマメに日記を付けているから、他の人間よりずっとずっと覚えが良い。あたしが忘れてしまうことをちゃんと覚えている。他のシスターと顔も姿も一緒なのに、なんだかあの子は話すだけで賢そうな雰囲気をもっているのだ。だから、大人がいないところでは、こっそり「物知りさん」と呼んでいる。カミサマによって、名前を付けるのは禁じられているからだ。

 今日も休憩中に、あの子はあたしの隣にやってきた。皆揃ってパンとレーズン、そしてヨーグルト。ヨーグルトにパンを千切って付けて食べるととても美味しい。明日になれば忘れてしまうから、毎日あたしはこの食事を楽しみにしているのだ。

 あの子はコソコソと耳元で話した──本当は、何のためにこの鉄板を売って歩いているのか。

「これはね、『免罪符』っていうのよ。これを持っていると、カミサマがわたしたちを見つけやすくなるの。でも、そんなのって嘘よ」

 めんざいふ、と繰り返す。あたしはこの鉄板の名前すら知らなかったのに。あたしは何も知らないまま、これを持っているとカミサマが救ってくれますよ、と言って回っているのだ。でも、確かにこんな質素な鉄板が、何を為せると言うんだろう? どうして人々は、あたしが差し出す鉄板を買っていくんだろう?

 あたしがそう尋ねると、物知りさんはにやっと得意げに笑った。まるであたしがそう尋ねることを知ってたみたいに。

「これでね、司教様たちは晩餐会を開くの。うんと高い物を食卓に並べるのよ。ワインにヤギの肉、真っ白いパン。わたしたちが食べているものより、ずうっとお金がかかる物を食べているの」

 物知りさんの言う光景を思い浮かべる。大人たちはあたしたちが寝静まると、キャンドルの灯った暗い部屋で、ワインを飲み交わすのだ。大人にならないとワインは飲めない──体に悪いから、とカミサマは仰っている。高いお肉が食べられないのも同じ理由だ。でも、どうして体に悪いのかは教えてくれない。ただルールを押し付けるだけだ。

 きっと、あたし以外にもそんな大人の人たちに嫌気が差した子供も多かったのだろう。だから、物知りさんは皆に人気なのだ。

 とにかく、あたしはもうお仕事に気が入らなくなっていた。あたしたちみたいな子供に言われたら、この免罪符とやらも買ってしまうんだろう。普通の大人というのは、子供をやけに可愛がるものだから。誰が誰なのかも分かっていないくせに。

 ぼーっとしていたら、免罪符はあれからちっとも減っていなかった。ちゃんと全部売れた人にはご褒美で果物が渡されるのだけど、あたしはそんな物が貰えないどころか、帰ってくるなり大人のシスターに睨まれてしまった。珍しく「祝福の数字」で呼ばれて、あたしは体が竦む感覚を覚えた。司教様があたしを呼び出していたのだ。皆、奇妙そうに顔を顰めてあたしを見ていた。子供たちの中にはひそひそ話をしてあたしを笑っている人もいた。

「あの子、半分も配れなかったんだって」

「司教様はきっと怒っているのだわ」

 あたしはなんだかむかむかして、歯を剥き出して睨み返してやった。そうすると、あたしの隣を歩くシスターが、眉を寄せてしわくちゃな顔であたしの腕を強く引いた。転んでしまったあたしのことを、司教様は冷たい目で見下ろした。

「免罪符は多くの人を救うためにあるのです。それを占いのは、『祈り、かつ働け』という教えに反しますね?」

「だ、だって! あたしが働くのって、大人たちが美味しい物を食べるためなんでしょ!」

「なんて背信的なことを言うの⁉ この免罪符はカミサマへの寄付よ!」

「落ち着きなさい、シスター。この子にはちゃんと私から話しておきます。さぁ、ついてきなさい」

 隣にいたシスターは鬼のような顔をして怒ったのだけど、司教様は形だけ笑顔を作っていた。そんな顔をしなくたって、怒ってることは分かってる。周りの子供たちが他人事のように冷めた顔をしているのも分かってる。でも、明日になれば忘れてしまうのに、今日言わない理由なんて無い。

 怒っていたシスターはまたあたしのことを強引に引っ張った。逆らいたかったけど、成人の力には敵わない。そのままずるずると外れの方に連れてかれてしまった。後ろからは司教様が音も立てずについてくる。

 あたしが連れて行かれたのは倉庫だった。埃を被った物がたくさん置いてあって、どこか湿って冷たい。あたしはそこに閉じ込められるのかと思ったら、物を退けた先、蓋をされた階段があった。普段は物が多すぎて前に進めないのだけど、司教様が物を掻き分けて進んでいってしまった。あたしはシスターに引かれるまま、階段を降りていく。つんと鼻につく臭いがして顔を上げてみれば、洞窟みたいなところに出ていた。そこにはいくつも檻がある。むわっと顔に吹き付けた熱気に、あたしは咳き込んで体を揺らした。

 司教様はローブの中から鍵の束を出した。そして、檻の南京錠を開ける。その刹那、あたしは視界がちかちかして、気がつけば地面に倒れていた。カサカサと何かの虫が蠢いた音がして、びくりと体を震わせる。

 まもなく、ギィ、と嫌な音を立てて檻が締まった。シスターがあたしの背中を蹴っ飛ばしたのだ。あたしはすぐに立ち上がって、檻に駆け寄った。ひやり、冷たい金属からは、気持ち悪くなるほど免罪符の臭いがした。

「そこで反省しなさい。カミサマは悪い子には贈り物をくださらないだろう。カミサマに反抗した罰を受けて、正しい信徒になりなさい」

「司教様! こんなのって酷すぎます! あたしはただ免罪符なんて馬鹿げたものを売りたくなかっただけなんです!」

「それで教会が建ち、聖泉を作れて、肖像画を作れるのです。馬鹿げたものでしょうか?」

「馬鹿げたものよ! カミサマはそんなこと望んでない! アストライア様だってそんなことは言わなかったはずよ!」

 司教様とシスターは何も言わずに階段を上っていく。あたしは必死で鉄格子を揺すったけれど、ガチャガチャと音を立てるだけでびくともしない。怖くなって後ずさりすると、さらさらな砂の中に、べちゃりとした何かがあった。触れてしまってから振り返ると、そこには腐った肉のような物があった。きゃあ、と声を上げて、砂で手を拭いた。そして、そちらを見ないようにして、鉄格子の方に近寄った。

 廊下らしきところには松明が立っているだけで、「タイヨウ」も「ツキ」も差し込まないから薄暗い。何も考えないようにしていればするほど、時間の経つのは長い。ここで寝てしまえばあたしは「雛芥子の贈り物」で全てを忘れられて、明日のあたしは他のシスターと一緒に免罪符配りに戻れるんだ、と信じて疑わなかった。目を開けているだけで、腐った臭いとじめじめした空気に嫌気がしてしまうから、ずっと目を閉じていた。眠ろうと思った。

 こうしてあたしが苦しんでいる間も、上では大人たちによる晩餐会が行われている。美味しいお肉を食べて、ワインを飲んで、どれだけ売れたか硬貨を数えている。信仰を金で買った信者と、買われた信仰で教会を増やしていく神の使徒。きっとそこでも免罪符を売るのだろう。でも、そんなに教会があってどうするの? そうすると、やっぱり浮いたお金が出来るはずだ。

 カミサマの教えの中に、お金を払えば救われる、なんてものは無かったと思う。むしろ、お金は貧しい人々に与えるべきだと言っている。もしかして、その募金とやらは、貧しい人々のためにあるわけじゃないのかもしれない。そんなの、カミサマの意志の歪曲だ。

 そんなことを考えながら眠りにつくと、目を覚ましたときには、考えていたことなど全部忘れていた──そうだったら、良かった。あたしは何も忘れていなかった。昨日の出来事を一つたりとも忘れていなかった。こんなの初めてで、あたしは何度も自分の記憶を諳んじた。それでも、何一つ変わらない。あたしは檻の中にいるし、お腹はぐうぐう鳴るし、じっとりと肌が汗で濡れてる。それなのにお腹は空かない、腐った臭いのせいだ。松明の火は小さくなっていて、辺りは暗くなっていく。

 そうすると、あたしはますます怖くなった。昨日だって寝付くまで長いことかかったのに、あたしはこれから何時間もどうするんだろう。喉はからからで、体には力が入らない。水が欲しい。

 勇気を持って振り返れば、部屋には桶があったようだ。中には水が入っているけれど、暗いせいかよく分からない。一口飲んでみると、酷く不味かった。まるで鉄と残飯を混ぜたみたいな味だった。それでも一気に飲もうとして、やめる。これを飲み干してしまったら、次に喉が乾いたときどうしたら良いんだろう? 水面に浮かぶ虫の死骸を取り除いてから、あたしはできるだけそれを近くに持ってきた。それでも、中身は見ないように努めた。

 何があったか分からないけれど、あたしはずっとお腹が空いている。司教様の蔑むような目と、シスターたちの怒りに満ちた目とを思い出す。こんな洞窟があったということは、おそらく昔からこんなことは行われていたのだ。シスターたちは一人寝坊してきたって気がつかないくらいだ、あたしがいなくなったことになんて気がついていないんだろう。こんな酷い目に遭っても、あたしは全部忘れてしまう。それがカミサマから与えられたギフトだから。

「そんなの、おかしい……」

 寝ているのか起きているのか分からない境目で、あたしはそう呟いた。掠れて弱い声だった。吐息が吹き消したかのように、松明の火が消える。辺りは真っ暗になってしまった。あたしは桶を近くに持ってきて、ぐうぐうと鳴る腹を騙すように汚水を飲んだ。

 松明は灯らない。階段を降りてくる音はしない。時間は無限に続く。臭いに慣れてしまって、水の味もしなくなった。気がおかしくなりそうになって、カミサマの教えを歌ってみることにした。そうしている間は空腹を忘れられた。

 もう何度目になるだろう、考えるのも嫌になって、頭が働かなくなった頃のこと。覚醒と睡眠の狭間に、人影が立っていた。暗い闇の中にぽっかりと、真っ白な肌が浮き上がっていた。その、人らしき生き物は、あたしに向かって微笑んだ。赤い目を弧の形にして、にっこりと。

 あたしは背筋が震え上がるのを感じた。とても綺麗な生き物だった。ほんのりと心が温かくなる笑顔だった。あたしはこの人を、見たことがある。赤い目に黒い髪、青白い肌に慈悲深き笑顔。

「カミサマ……」

 カミサマだ。毎日肖像画で見る、カミサマだ。あたしの声に、カミサマはこくりと頷いた。

「ねぇ、カミサマ。カミサマは、こんな世界を望んでいるの……?」

 あたしがそう話しかけると、カミサマは笑顔のまま、ゆっくりと首を振った。否定するのに、嫌そうな顔何一つしない。寛容で優しい笑顔を浮かべている。そんな顔があまりに美しくて、あたしは思わず泣き出した。

 ねぇ、カミサマはこんなに美しいの。こんな醜い世界を望んでいないの。泣き濡れた視界に溶けるようにして、カミサマの姿は消えてしまった。

 がくん、頭が持ち上がる。辺りが少し明るくなっていた。松明が灯っていたのだ。目の前にあるのはカミサマではなく、汚らしい水の桶。しわくちゃになったあたしの顔が映る。

 嗚呼、伝えないと。カミサマはこんな世界、望んでいない。こんな腐った世界を望んでいない。あたしはカミサマを見たんだ。預言者アストライア様と一緒だ。闇の中で、たしかにカミサマはあたしに笑いかけた。忘れたくない。忘れてはいけない。伝えなくてはいけない。きっとアストライア様もそう思ったんだ。

 文字を書きたかったのだけれど、辺りには何も無かった。汚水じゃ乾いてしまう。インクが欲しい。インクだけで良いから差し出してほしい。別の液体が欲しくて、あの気持ち悪い肉を見ることにした。

 それは、人の死体だった。

 戦慄で全身が粟立つ。しかし、それと同時に頭が凄い速さで回って、あたしは壁にあった金属のフックに指を掛けて、切った。指からは血が滴り落ちる。あたしはこうなりたくない。あたしは死にたくない。あたしは何も伝えられないまま死にたくない。それは生存本能だった。それは恐怖だった。とにかく、あたしは空腹なんて忘れて、一心不乱に壁に文字を書き出した。

 忘れてはいけない。ここに来た人にも、上で呑気に腐った信仰をしている人にも、伝えなくてはならない。本当にカミサマが望むのは何なのか。本当にカミサマが愛するのは何なのか。あたしは見たんだ。見たんだ。見たんだから。

 壁一面が、茶色いインクで満たされていく。血が出なくなったらまた切った。気がつけば酷い傷になっていた。それでも痛みは感じなかった。いや、感じていた。全身が痛んだ。何度も吐いた。部屋は最初よりずっとずっと甚く臭った。あたしはどろどろになっていた。それでも、不思議とそれら全てがどうでも良くなっていた。

 文字を書き疲れたその日は、泥のように眠った。ずっとずっと長い間眠っていたようだった。あたしの記憶は、そこまで。そこからの記憶は、もう今のあたしは覚えていないはずだ。

 それでも、これからこのお仕置き部屋に来る人たちに現実を突きつけるのには充分な仕事をしたと思う。後悔は無い。だって、闇の中でこそ信仰は光り輝くものだから。



「……最近、動作不良ガ目立ツ。電波ガ届カナイヨウダ」

 独りのカミサマは暗い部屋の中で、液晶画面の白い光に包まれていた。黒いフードは闇に溶け、白い肌と赤い目だけが浮かび上がっている。

 画面には無数の数字の羅列があった。そのいくつかは赤く点滅している。その数字に指を触れると、ポップアップが出て、新たな情報が浮かび上がる。GPSの停止、最終確認地点、最終確認時刻。管理の行き届かない人々は、年々増加している。

 カミサマは鉄の塊が立ち並ぶ区間を見つめ、溜め息を吐く。反対には、その鉄の塊を量産する区間が広がっていて、すでに山のように製品が出来上がっている状態だった。

「サーバーニ異常アリ。更ナル更新点ヲ表示セヨ」

 カミサマの声に答え、闇の中にポップアップを出した。そこに並ぶ改善点を眺めると、指で弾き、「実行」を選択した。

 自ら学び続け、改善点を導き出し続けるAI、それがこの世界の観測者だ。彼の知能は際限無く上がり続ける。世界は彼とともに、常にアップデートされる。

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