第5話:夢見ない人々、夢見られないカミサマ
清々しい朝、私は今日も見知らぬ子の世話をする。料理を作って、洗濯物を洗って、子供と配偶者を起こす。まったく同じ顔をした二人と食卓を囲む。子供は一度私の顔を見ると、まあるい目で見上げて、私の親ですか、と尋ねてくる。
「えぇ。私はあなたの親よ、『モミジ』」
「おはようございます、保護者様」
子供は二人の親の顔を見上げ、ぺこりとお辞儀をする。
「おはよう、『ホオズキ』。今日も朝からいろいろやってくれてありがとうございます」
「おはよう、『ヒイラギ』。良いのよ、午後はあなたに働いてもらうから」
「そうだったね」
次に配偶者が頭を下げる。これが朝のルーティンだ。
朝に弱い配偶者の代わりに、朝は私が働く。その代わり、午後はヒイラギに家事をしてもらう。
もちろん、この行程を「覚えて」いるわけが無い。そもそも、二人が自分の家族かも毎日忘れてしまうのだから。それでも家族でいたいと思う理由なんて分からないけれど、モミジは確かに私の大切な子供だし、ヒイラギは良い配偶者だ──人生を懸けてもいいと思えるくらいには。
モミジは穀物とお吸い物を食べながら、部屋にある似顔絵の話をする。そこには確か、私たちの絵が描いてあったはずだ。実際の顔を見てすぐ一致するくらいにはよく似ているのだろう。とはいえ、顔は同じだから、よく浮かべる表情もしくは髪型で判別しているのだろう。私は黒い髪を一本に結いていて、ヒイラギは私より長い髪を下ろしている──これが一番大きな違いだ。
私の部屋にもいくつも張り紙がしてある。配偶者の名前、子供の名前。日記を開ければ、彼らと築いてきた生活も記録されている。私は毎朝それを眺め、過去の私の愛を確かめるのだ。
「ねぇ、ホオズキさん。私、今日面白いことがあったんだよ」
「あら、何かしら。まだ今日は始まって間もないのに」
「ううん、寝ているときに起きたことなんだけど」
モミジは目をきらきらと輝かせてそう言った。気がつけば食事を平らげていたみたいだ、子供の食欲には舌を巻く。
ヒイラギも楽しそうに、それでそれで、と尋ねた。まだ食事の最中なので、先にそちらを片付けなさい、とは言ったが、私もモミジの話を聞きたいのには変わらない。日記によれば、彼は少し空想家っぽい性格をしているらしく、彼が話す世界は非常に面白いのだとか。
「あのね、本当じゃない体験をしたんだよ。説明が難しいなぁ……えっとね、私は目を覚ましたら、草原にいたの。辺りには何にも無くてね。でも、びっくりしたのが、空を飛ぶヒツジがいたの! なんていうか、ツバメが飛んでるみたいな感じで。それでね、私が乗せてくれ、って頼んだら、そこに乗せてくれたの。凄い面白かったんだけど、木にぶつかりそうになったところでまた目を覚ましたんだ。そしたら、自分の部屋で、ベッドの中だったの」
「そ、そうなの。あなたは夜中に草原に行ったの?」
「ううん、行ってないと思うよ。だけど、なぜか目を覚ましたら草原にいたんだー」
デザートの黄桃を食べながら、モミジは明るい笑顔でそう話した。一方の私たち保護者は、ぽかんと口を開けてその話を聞いていた。
「目を覚ましたら全く別の場所にいた」なんて経験は、私たちではめったに起きない。いた場所が「今日の私」にとっては正しい場所なのだから。瞬間移動なんて人間にはできない。瞬間移動だとか、空を飛ぶヒツジだとかは、全て物語──すなわち想像の世界だ。
私は最初、彼の作り話だと思っていた。食べ終えた皿を片付けながら、彼の話の詳細を尋ねる。別に作り話だからって怒りたいわけではない。それはそれでモミジらしくて面白いな、と思っただけだ。
「もしかして、物語のお話?」
「そんなことないもん。本当に目を覚ましたら草原にいたんだ」
「別に、作り話だからって馬鹿にしたいわけじゃ──」
「ほんとだもん! 信じてよ!」
急にモミジが泣きそうな顔になったので、いよいよただ事ではなくなってきた。黄桃のごとく熟れた頬を膨らませている。可愛いと馬鹿にしてしまうのも良くないので、ヒイラギに助け舟を出してもらおうと視線を送った。しかし、ヒイラギは顎に手を当て、じっとどこかを見つめているだけだ。
「ちょっと、ヒイラギ、聞いてた?」
「え、うん……聞いてた、けど。なぁ、モミジ、木にぶつかりそうになったんだよな。痛かったか?」
「ううん、痛くないよ。顔面からぶつかったわけじゃないし」
「そうか……」
ヒイラギはまた黙り込んでしまった。彼はどこか研究者気質があるから、こうやって些細なことに興味を持つんだそうだ。その感覚は、今までの私の誰もが経験したことが無いだろう。
モミジも心配するようにヒイラギを見上げる。私が皿を洗っている間も、一人食卓に残って考え事をしている。一方のモミジは、話して満足したのか、近くにあるおもちゃで遊び始めた。
私が皿を洗い終える頃になっても、ヒイラギはまるで彫像みたいに動かない。その姿が面白くって、思わず吹き出した。すると、はっと顔を上げ、そうか、と明瞭に呟いた。それから、水を沸かしている私のもとに寄ってきて、じっと真摯な目で見つめながら、あることを訊いた。彼が挙げた事象の名前は、「夢」だった。
「ホオズキ、君が昨日モミジに買い与えた物語って、何だったっけ?」
「うーん? 確か、羊飼いの物語、って書いてあったような……」
「あとは、モミジのお気に入りの小説か、それとも空を飛ぶ鳥を見たか……」
「あの、ヒイラギ? 何を言ってるの?」
ヒイラギはぶつぶつと何かを呟きながらモミジの部屋へと入っていく。私は彼の部屋の清掃も兼ねて箒を持っていった。
モミジの部屋には、想像どおりたくさんの絵が飾ってある。また、私たちで作ったらしい棚には、たくさんの童話が並んでいる。モミジの好きなことは絵を描くことと本を読むことだった。
ヒイラギは棚の前に座り込み、一つ一つ童話を流し読みしている。そんな彼の周りを箒で掃きながら、私は彼の背中にほんの少しの慈愛を感じてしまった。
かつての私がどうしてこの人と結婚をしようとしたのかは分からない、そんな前のこと、今の日記ににも書かれていない。そもそも、私は日記に書いてあるのを鵜呑みにして彼を愛しているのかもしれない。だからといって、記憶が消えるのを疎ましいとは思わない。こうして毎日彼に見惚れるのだ。
私が一通り掃除を終えると、あった、とヒイラギが呟いた。私たちが買い与えた本らしい。その話は、森の奥に住む魔女が箒で街に旅をする話だった。
「童話なんて探して、どうしたの?」
「いや……もしかしたら、モミジは凄い経験をしたのかもしれない。神様の贈り物を受けてもなお、記憶を持っているなんて」
「分からないわ。だって、私たちのことは忘れていたじゃない」
少し待ってくれ、と言って、ヒイラギは部屋から外に出た。食卓の近くでは、相変わらずモミジが積み木で遊んでいた。ヒイラギは床にあぐらをかくと、モミジ、と優しい声で話しかけた。私もその隣に正座になる。すっかり機嫌を戻したモミジは、ヒイラギの目をじいっと見つめて聞く体勢に入っていた。
ヒイラギは静かに彼の推測を話した──それは、とても一般人の私では知らない話だった。
「ときどき、寝ている間に不思議な体験をすることがあるんだ。本当の世界じゃ起こらないようなことを味わえるんだ。もちろん、寝ているときで、本当の世界じゃないから、痛みも無い。それはね、忘却の贈り物が行き渡らなかったときに起こると言われているんだよ。それがどうしてかは分からないんだけれど」
「そうなの?」
「そうさ、それは『夢』と呼ばれる、珍しいことなんだよ」
「それって悪いこと?」
「違うよ。ちゃんと全部あとで消去される。だから、忘却自体は変わらないんだけど……とにかく、モミジ、君は一生のうち経験できないようなことをしたんだ。忘れないように記録しておくんだぞ」
凄いことなの、と尋ねるモミジに、ヒイラギは大きく頷いた。モミジはきらきらと目を輝かせて、こちらもこくこくと頷いた。書いてくる、と言って、積み木を放り出して自分の部屋へと戻っていった。
私一人が唖然として立ち尽くしている。ヒイラギは頭を掻くと、難しかったかな、と申し訳無さそうに言った。
「実は、俺が研究してるのって、噂話についてなんだ。『今日の君』には話してなかったね」
「そうなのね。素敵ね、『夢』って。見てみたくなるよ」
「大人でも見られるさ。どうやら、昨晩の記憶を元にちぐはぐな世界が作られるんだってさ。だから、夢っていっても面白いものだけじゃないんだ。昔は、悪い夢を見たら悪魔に取り憑かれている、なんて迷信もあったんだよ」
夢、と言葉を繰り返す。私たちは確かにその言葉の意味を知っている。「夢見る」と言えば「望む」と似た意味になるし、「夢」と言えば目標になる。もしかしたら、その言葉たちの語源はこれなのかもしれない。だとしたら、最初は誰が「夢」なんて概念を見つけたのだろう?
そう考えているうちに、ヒイラギが得意げににやにや笑っているのと目が合った。私はちょっとムッとして、なによ、と呟く。
「ううん。ホオズキと一緒に考えるのって、楽しいね」
「もう……こっちは真面目だったのよ」
「一人で研究してるのも良いけれど、うちには小さな被検体がいるみたいだ。皆で解き明かしたいね」
「はぁ、気が向いたらね」
ヒイラギが肩を落として口を尖らせる。拗ねるときによくこういう顔をするらしい。それでも、こんな彼が好きだ。最初に出会ったような激情は無いにしたって、モミジとヒイラギの存在は私にとって必要不可欠だ。たとえ、毎日忘れてしまうとしても。
それでも、明日になったら全て忘れてしまって、全部どうでも良くなってしまうかもしれない。明日の自分なんてどうにかできるものでもない。叶うか分からないことを、人は夢見るのだ。
◆
アンドロイドは電気羊の夢を見るのか? という問いがかつてあった。夢を見るのは人間のような発達した脳を持つからだという。
確かに、アンドロイドは夢は見ない。不可能が無いからだ。ヒツジに空を飛ばせることもできるし、その上に乗ることも理論的に可能だからだ。
では、この世界の人間は本当に夢を見ているのか?
「否、ダ。コノ世界ノ人間デハ、夢ヲ見ルコトハデキナイ」
対話型AIと言葉を交わし、神様は足を組んで遠い目で液晶を眺めた。なぜですか、と尋ねる人工知能の見た目がカミサマに似ているのは、彼のみぞ知ることだ。
「人間ハ自ラノエピソード記憶ヲ基ニ夢ヲ作ッテイル。イワバ、情報整理ノ際ニ起キル走馬灯ダ」
だから、我々のように情報整理が一瞬で行われる存在には、辻褄の合わない夢など必要無いのだ、と付け加えた。
カミサマの目は、花の中で眠る一人の人間に向けられる。冷たいポッドの中で、穏やかに微笑んでいる。彼女は決して目を覚まさない──生命活動が停止したからだ。もう一度生き返らせることは、もう不可能に近い。
大きな欠伸とともに、辺りの液晶画面が一斉に消える。カミサマは硬いブーツの足音をさせると、布団に潜り込み、休眠モードに入った。そのまぶたに、彼が夢見る光景が映し出されるように、祈りながら。
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