第4話:見上げてごらん、青い空を
見上げてご覧なさい。空に上る「タイヨウ」は、「ツキ」は、カミサマの目なのよ。どこへ行っても、何をしていても、カミサマは見ているの。だからこそ、教えを守らなければならないの。
修道院の長であるアストライア様は、いつもそう言い聞かせた。毎日記憶をカミサマへお返ししているとはとても思えない。アストライア様は、修道院の中でも一番カミサマについて詳しいのだ。
私はそんなアストライア様が大好きだ、少なくとも、今日の私は。昨日の私は彼女のことが嫌いだったかもしれない。しわくちゃに優しく微笑む顔が嫌いだったかもしれない。でも、今日の私は、修道院の中で唯一名前のある偉大なシスターを尊敬していた。
昼間のお祈りをしているアストライア様に近づく。もうお年を召したシワだらけの顔に、穏やかにステンドグラスの色が映っている。そうすると、真っ白な肌が「カミサマの花」の色に染まって美しい。
アストライア様はとことこと近づいてきた私のような娘を、可愛がるようにして撫でた。アストライア様の手は大きくて温かい。どうしたんだい、と少し低い声が私のまぶたに降ってくる。私は近くの椅子に座って、アストライア様、と声をかけた。
「アストライア様。どうしてアストライア様には、名前があるのかしら? 私たちには無いのに」
「それはね、可愛い羊さん。私は、カミサマをこの目で見た、唯一のシスターだからだよ」
「まぁ、覚えてらっしゃるの?」
「覚えてはないさ。けれども、私は確かにそう記録したようだね。カミサマにお名前を教えていただいた、と」
アストライア様はそう言って目を細めた。記録というのは、私たちに許された、唯一の明日の自分への継承だと、アストライア様は仰る。だから、私も毎晩記録をつけている、日記という形で。きっと、アストライア様もそうなのだ。
名前というものはなぜ生まれたか知っているかい、とアストライア様は仰る。嗚呼、そういえばそんな神話がある、と記録には書いてあった。でも、それは記憶にはならないくらい些細なことだったか、昨日までの私が怠慢だったかだ。
「シスターに名前が無いのは不思議だと、カミサマは仰った。私たちは、誰が誰に尋ねても同じようにカミサマの教えを与えられるように、名前が無いんだったね」
「はい、そうです」
「では、どうして普通の人間には名前が与えられるか。それは、カミサマが人間を守るためなんだよ」
アストライア様はそう言って、聖書を手に持った。その内容を覚えるだけなら簡単だ、私たちは花の名前を覚えることは簡単にできるのだから。だとしても、私のような子供では全部を暗唱できはしない。ゆえにこそ、毎日毎日これを音読して訓練しているのだから。
聖書の真ん中くらいのページを見せて、ここだね、とアストライア様は優しく仰る。残念ながら、最近は読んでいないページだった。
「いいかい。もしもこれだけ多く生きる人間たちが、皆名前が無くて、明日には全てを忘れてしまうとしたら。カミサマから賜ったギフトを、悪い方法に使えてしまうのさ。あなただったら、毎日記憶が無くなってしまうとしたら、どんな悪いことをする?」
「わ、私は……うーん、労働をサボってしまうわ。明日のシスターたちは、誰が働かなかったかなんて覚えていないもの」
「そうだね。でも、もっと悪いこともできるんだ。たとえば、人を殺したり、ね」
「まぁ、恐ろしい!」
「それでも、明日になったら、誰が人を殺したか分からないの。でも、実際はどう?」
「カミサマは、近くの罪人を啓示してくださるわ。形は無くても、カミサマのお声は聞けますもの。そうして、罪人のお名前を仰いますわ」
今日の私は啓示を受けていない、ということは、今日は平和なのだ。カミサマは、私たちに危険が迫ると、その人間の名前を教えてくださるみたいだ。私も声は覚えていないけれど、きっと啓示を受けたことがあるのだろう。そうすると、修道院はその日中閉鎖して、大人の人たちが見回りをするんだとか。
確かに、もしも名前が無かったら、修道院の中を含めて皆が敵になってしまう。だって、見回しても皆同じ顔をしているのだから。人間は皆、同じ見た目をしているものだから。でも、もしも名前があったら、その名前を聞いて回れば良いのだ。
「私たち人間が名前をもっているのは、いつもお空から私たちを見ているカミサマが、私たちを守ってくださるからだよ。名前が無い人間が罪を犯したら、困ってしまうもの。修道院の中では、それは成り立たないのだけどね」
「ねぇ、アストライア様? もしも私たちの中から悪い人が出たら、カミサマはどうなさるの?」
「私が生きているうちにはそんなことは無かったがねぇ。でも、もしもそういうことがあったら──カミサマは、数字で私たちを呼ぶはずだよ」
「数字?」
「私たちには、産まれたときから決まった七桁の数字がある、と教えがあるでしょう? それを私たちは『祝福の数字』と呼ぶと」
「あ、それは『知って』いますわ。私たちにはそれぞれ違う七桁の数字があるのです、と聞きましたわ。もしもシスターの一人がはぐれてしまったときは、その番号をもとに探すのでしょう?」
「そうだよ。きっと、カミサマはお名前の代わりに、祝福の数字をお呼びになるのでしょうね」
アストライア様はそう言って、遠い目をして微笑んでいる。私を見ているのかもしれないし、アストライア様が見たと言うカミサマを見ているのかもしれない。しみじみと彼の声が染み渡って、私は少し心が温かくなったような気がした。私に親はいないけれど、いたならばきっと、こんな人なんだろうな、と思った。大きな温かい手で私を撫でてくれる、そんな存在。きっとそれは、肖像画で微笑んでいるカミサマに似ているのだろう。
ゴーン、ゴーン、と鐘が鳴る。休憩はおしまい、このあとはお洗濯の時間だ。アストライア様も本を教壇に戻して、行こうか、と声をかけてくる。私も腰を上げて、アストライア様についていく。今日の私は、労働も頑張ろうという気になっているみたいだ。明日の私が同じことを思ってくれるかは分からないけれど。
でも、それだってカミサマに許されたことだ。明日の私と、今日の私と、昨日の私が違う存在でも良い。信心深いシスターだったとしても、少しいたずらっ子なシスターだとしても、見上げればそこにカミサマの目があって、私たちを見ていてくださる。昨日も、今日も、明日も。私がカミサマのことを忘れても、カミサマは私のことを忘れないのだから。
広い庭には、もう子供のシスターたちが並んでいる。私より五つ上のシスターが、皆に指示を出して動いていた。白い白い洗濯物が映えるほど、美しい空が広がっている。その真ん中には、光り輝く宝石のような丸いものがある。じっと見ていると目が痛くなるのは、私たちが見ていて良いものじゃないからだろう。眩しさに目を細めながら、アストライア様の手を離して、子供たちに紛れていった。
◆
独りのカミサマは青い青い空を眺め、口を開いた。口元に小さなマイクを近づけ、ボイスチェンジャーを通して、穏やかな、されど無機質な声で囁きかける。
「街ノ人々ヘ告グ。個体番号XXXXXXXガ強盗ノ罪ヲ行ッタ。早急ニ対処セヨ」
マイクを切って、ボイスチェンジャーも切って、カミサマは花畑に横になった。ぼーっと空を見上げていれば、鼻に青い蝶が留まった。カミサマは真紅の目を細め、冷たい手で払いのけようとして、止めた。
「勝手ニシロ。僕ハ何モシナイ」
蝶は羽を揺らすが、カミサマからどこうとはしない。カミサマは金属のまぶたを閉じて、眠るような素振りをした。そして、蝶を飛ばさないように静かに喉を震わせ、小さく呟く。
「休眠モードニ入ル。貴様モ休メ、ルリシジミ」
その言葉を理解したのか、目を閉じて眠り始めたカミサマの鼻から、しばらく青い蝶は動かなかった──まるで、共に昼寝をしているかのように。
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