後編

「はぁ?」


 口をついて出たのは驚きの声だけだった。

 衝撃的な彼女の言葉に鼓動は速度を上げ、反対に思考は停止する。

 次に紡ぐべき言葉を探すより早く、猪井がため息をついて話し出す。


「いやいや、徹さんだってその気がなかったなんて言わせませんよ。元カノをほいほいと家に上げて、泊りまで許して、お互いシャワーまで浴びて。下心100%の人じゃないことは知ってますけど、それでもこの状況を作っておいて抱くと思わなかったなんて言わせませんよ。どうせ私と合流する前に、もしものために、きちんと避妊具も準備してくれているんでしょう。」

「まあ、そりゃそういう雰囲気になるかなとか思わなかったわけでもないけどさ。お前に彼彼氏がいること事前にわかってたし、気を遣うというか。というか、俺に彼女がいたらどうするつもりだったんだ。」

「彼女いたらさすがに家にあげないでしょ。徹さんそういうところ真面目ですから。だから、家あげてくれた段階で、今日はするんだなって思ったんです。」

「だからって、するとかしないとかってそんなに明け透けに言葉にするものでもないだろ。」

「いつもならそうですよ。お互いに良い雰囲気になったり、なんとなくしたいなって思ったら自然にアピールしてましたよ。付き合ってたころの私たちならね。いや、でもお酒飲む前のあの雰囲気だったら、もしかしたら今日はしないのかもしれないって思ったんです。なんというか、お互いギクシャクしてたというか、じれったかったというか、これは私からいくしかないって思ったんです。私だって恥ずかしいんですから。」

「だからって酒の力借りて一気にぶっちゃけなくても、段々そういう雰囲気にはなってきてたじゃん。」

「いや、そうじゃなくて……。あー、もう。ええ、そうですよ。私が我慢できなかったんです。それでいいですか。」


 堰を切ればあふれてくる言葉たち。

 恋人同士の会話というには甘さがなく、友達というには内容がひどい。

 高鳴り続ける心臓を押さることもできず、上がってくる言葉を止めることもできず、猪井の本音のような言葉に本心を返し続ける。

 お酒のせいかそれ以外か、上気したかのように赤い顔をした彼女の表情にはどこか吸い寄せられるものがあった。


「お手洗い借ります。」


 いくつかの沈黙の後、彼女はそう言ってトイレに立った。

 ほっとしたのも束の間、狭い1Rではそう遠くにないトイレから聞こえる彼女が尿をたすような音に気まずさを覚える。ただの友人ではそう聞くことのないそれは二人の距離が近いことを表しているにしては、品がなかった。

 彼女と入れ違いに、逃げるように俺もトイレに入る。お酒が入るとトイレが近い。


 憂いのないように膀胱の容量を減らし、部屋に戻ると猪井はベッドに腰かけていた。

 その意図に気づかないふりをするほど余裕はない。10時40分。時間的には早すぎることはない。

 彼女の隣に座り、昔より伸びた綺麗なく髪をなでる。学生の頃の明るい茶色も似合っていたが、今の地毛であろう色の方が好みだ。

 肩を抱き、一度、唇に触れるだけの軽いキスをする。

 離れたタイミングで目が合う。

 数拍おいて、再びキスをする。今度は隙間が開かないように、お互いの唇をしっかりと合わせて。どちらからか舌が伸びて、相手の舌を絡めとるように、唾液の交換さえ厭わないぐらい深い口づけへと発展する。

 彼女の覆いかぶさる形でベッドへと押し倒しながらも継続されるディープキス。

 互いの呼吸が荒くなり、猪井から喘ぐような声が漏れ始めるくらいで中断する。


「ちょっとお酒の匂いがします。」

「仕方ないだろ。お互い。」


 呼吸を整え、冷房が付いているというのにかいてしまった自分の汗をぬぐう。

 理性が残っているうちに枕元のリモコンを操作して、部屋の電気を常夜灯まで暗くする。いきなり全部消してしまうと何も見えなくなって後で困ることが多いから、相手の様子がわかる程度の薄暗さに留める。

 照明が暗くなると自然と漂う「夜」の雰囲気に飲まれるままに服を脱ぐ。

 パンツまで脱いでしまうかを迷いながら彼女の様子を伺うと、猪井も着ていた寝巻を脱いでおり、下着姿になっていた。


「どうですか、これ。昔、徹さんが好きだって言ってたやつとほぼ近い下着なんですけど。あの頃来てたやつはボロくなって捨てちゃったので、丸っきり同じではないですけど。――私の用意周到さに驚きました?」


 こちらの視線に気が付くと、照れながらも下着を見せるようにポージングをとる。

 レースをあしらった薄い水色の上下お揃いであろう下着。以前のものをはっきりと記憶しているわけではないが、似たものを可愛いと褒めた記憶がある。


「色も雰囲気も若菜に似合ってて良いと思う。」


 部屋を暗くしたことに少し後悔しながら、素直な感想を述べる。

 彼女は表情が明るくなったかと思うと、そのまま胸元に飛び込んでくる。支えきれず、先ほどとは逆に俺が押し倒される形でベッドに倒れる。


「やっと名前で呼んでくれましたね。」

「気にしてたのか。」

「当たり前です。急に距離が離れたように感じました。謝ってください。」

「悪かった。どうやって接すればいいか迷ってたんだ。」


 肌と肌が触れ合う感覚。下着越しのささやかな胸が押し付けられる感触。

 猪井の顔が次第に近づいてきて再びキスが始まる。さきほどよりも吐息が混ざる、相手と自分自身を興奮させるための前戯としての口づけ。わざとらしく唾液が絡み合う音を立てながら、本番へと体を整えていく。

 そんな必要なんてないと主張するかのように痛いくらいにパンツを押し上げ、彼女にその存在をアピールする股間。

 彼女の背中に手をまわして、ブラのホックを外す。そのまま、ゆっくりと体を回転させ体勢の上下を逆転させる。


「下着脱がすぞ。」


 同意を得る意図などない。ただの報告だ。彼女は肯定も否定もしない。

 猪井が少し上体を起こして、下着を外しやすいようにしているので、嫌がってはいないようだ。続けてショーツに手をかけ、彼女が腰を浮かすのを待って脱がす。脱がした下着は丁寧に椅子の上に置く。


「やっぱり脱がされるのって恥ずかしいですね。」

「代わりに俺の脱がすか?」

「それはそれで恥ずかしいのでまた今度で。」


 まるで次があるかのような言い方にすでに興奮している心臓がさらに跳ねる。

 興奮のまま自分の下着は適当に投げ捨て、猪井の体を見る。

 しっかりとケアされた日焼けのない白い肌、細すぎない程度の肉付きをした体に合った大きすぎない胸、細いウエスト、しっかりと整えられたVライン。

 綺麗なその体に吸い込まれるように上から優しく覆いかぶさる。布1枚すら隔てない肌のふれあい。

 しばらく抱きしめ合ったのち、少し体を離し、彼女の胸に手を伸ばす。

 胸を揉まれてもそれほど気持ちよくはないが、揉まれているという事実に興奮する。そう言っていたことを思い出しながら、優しく柔らかく揉んでいく。

 付き合っていた頃であれば、好きだとか愛してるだとか言いながらお互いの気持ちを高めただろうが、今はそんな言葉を言う関係ではない。だから、その分キスを重ねる。

 下に手を伸ばし、準備ができていることを確認する。


「若菜、そろそろいけそうか?」

「たぶん大丈夫です。つけるかはお任せします。」


 いつの間にか枕元に用意されていた俺が買ったものではない避妊具の箱。彼女の誘惑じみた言葉に昂る気持ちをわずかな理性で押さえ、外箱のフィルムを開け、中から1つ取り出す。

 それを丁寧にはずれることのないように取り付け、準備ができた状態で彼女と向き合う。


「優しくお願いしますね。」


 そういって待ち構えるように目をつぶる猪井。


「優しくできるようには頑張るよ。」


 久しぶりにここまで興奮している自分を抑えられる自信はあまりなかった。

 下腹部に手を添え、ゆっくりと進める。そうして、久しぶりの交わりが始まる。




 隣で人が動く音がして、ゆっくりと目が覚める。体が起きて、隣に人がいることを捉えても寝ぼけた頭では理解に少し時間がかかる。

 生まれたままの姿の猪井が控えめに俺にくっつきながら、スマートフォンを弄っていた。普段は少し余裕のあるシングルベッドも二人で寝るには狭く、どこか触れている状態はある意味自然ともいえる。

 終えた後、疲労感から来る眠気にあらがえず寝落ちしたのことを思い出す。女性はピロートークを重視するとはいうが、昨夜に限っては猪井の方が先に寝ていたからセーフだろう。


「おはようございます。」

「おはよう。何時だ。」

「9時すぎです。8時間くらいは寝ましたね。お互い張り切りすぎて疲れましたから。」


 昨夜を思い出してか、恥ずかしそうにはにかむ。

 都合、4回。

 果てては休憩し、触れ合ったまま話をして、回復したら再開する。学生時代でもそうやらなかった回。今日が終われば、もう二度とお互い触れ合うことがないのではないかという意識がそうさせたのかもしれない。


「さすがにあれだけしたら、朝でも元気ないんですね。裸の女の子が隣にいるというのに。」

「そうみたいだな。」


 スマートフォンからはずした視線を下に向ける猪井。

 カーテンを閉めているとはいえ、はっきりとお互いの体が見える明るさはある。

 こんな軽く会話ができる程度には修復された関係値。昨日の食事中のもどかしい雰囲気はどこにいったのか。


「どうします?これから。」

「これからってどの範囲の話だ。」

「どっちでもいいですよ。今日の予定でも、今後の私たちの関係でも。ただ、彼氏に浮気されてからって元カレとすぐ縒りを戻すほど節操のない女じゃないですよ。」

「さすがにヤッて『はい、復縁』ってわけでもないだろ。」

「だから、徹さんはどう思っているかなって。私との関係をこれからも続けたいかとか、これっきりで終わりにしたいとか。」


 俺と猪井の関係。胸が押し付けられる程度にくっついてきてはいるが、恋人なんて甘い関係ではない。あくまで、元カレと元カノ、よくてセフレだ。

 こんな関係、文字通り一夜限りで終わるべきだ。それが彼女のためでもある。俺は過去の人でしかないのだから。昨日のことは猪井が今の付き合いを吹っ切るための道具として使えばいい。別れようと思っている彼氏と、別れの言葉を言わなかった元カレを同時に切り捨ているための一夜だと思えばいい。

 そう思ってはいても、体を交えたことで再び沸いた情と独占欲のような気持ちが返答を躊躇わせる。

 自然消滅的に別れたとはいえ未練などないと思っていた。今でもそう思っている。今、彼女のことが恋愛感情で好きかと問われれば、答えはいいえだ。そんな気持ちで関係を保ち続けることはお互いにとってよくないのではないかと迷いが答えを止まらせる。


「変なこと聞いてごめんなさい。――でも、そうですね。まず、私の気持ちを正直に話すなら、また『先輩と後輩』って関係に戻りたいなって思ってます。色々と相談に乗ってもらえたり、一緒に出掛けたりしてほしいです。たまにこうやって愚痴も聞いてほしいです。仕事の愚痴だっていっぱいあります。ただ、できれば付き合うことになるまでは、あまり体は許したくないですけど、そこは置いておいて。あなたといると心が安らぐような気がするんです。もう一度、私の信頼できて頼れる先輩になってほしいです。」


 答えない俺に気を遣ってか、自らの意思を答える猪井。

 ストレートに気持ちを言われてしまうと彼女のためなんて言い訳をして、怖がって突き放すことなんてできない。


「わかった。俺の負けだ。俺ももう一度若菜と仲良くしていきたいと思ったよ。なんというか、あの頃とは違うけど一緒にいて嫌じゃなかった。最初は久しぶりでちょっと雰囲気ギクシャクしてたけど、一緒にいて楽しかったからさ。」


猪井は俺の言葉に安心したようにため息をはいたかと思うと、次第に口角が上がっていく。自然とこぼれたその笑顔は昨日から見た中で一番素敵だった。


「ありがとうございます。あっ、一応言っておきますけど、私、今は徹さんのこと恋愛的な意味では好きじゃないので、そこは勘違いしないでください。」

「安心しろ、俺も今は若菜のことを後輩としては好きくらいだ。」

「なんかそれはそれでむかつきます。」


 口ではそういうが笑顔のまま軽くポコポコと怒ったジェスチャーとして俺の胸を叩く。

 少しいびつな関係にも思えるが、今の俺たちはそれでいいのだろう。

 学生の頃のような純粋なものではなく、社会人としてほんの少しだけ汚れた大人になった俺たちが作る新しい関係。

 他人には言いづらいけど、いつか誇れる日が来るだろうか。


「それで、今日はどうするんだ。」


 しばらくじゃれついた後、決まっていなかった方の予定を問う。


「とりあえず、今日はダラダラして休んで、明日は彼氏と面と向かって喧嘩して別れてきます。ある意味ではすっきりするんですけど、きっとその時にいっぱい鬱憤やら怒りが溜まると思うので、また愚痴に付き合ってくれますよね。三連休なんですから。」


 俺たちは進んだのか戻ったのかわからないが、昨日より明るく笑う猪井を見ているとそんなことはどうでもよくなっていた。

 今はこの新しい関係を受け入れて、楽しんでいくしかない。

 そう思えるほど、既に猪井が隣にいることが自然になっていた。

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ペチュニアを送るとしたら 中野あお @aoinakayosa

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