中編(2/2)

 シャワーを浴びて帰ってきたら穏やかな空気が流れ、状況が一変しているということなどなかった。

 それどころか、外向けの衣服を脱ぎ、完全にオフモードになった二人の間には先ほどまでよりも無防備な生活間が漂っていた。その無防備さは今の俺たちには緩衝材にも毒にも働く。


「野辺さんが落ち着いたら買ってきたお酒飲みましょうよ。約束通り愚痴を聞いてもらわないといけないわけですし。」


 どうしようかと迷っていると、猪井が今日会った元々の目的に話を戻すべく話を切り出す。その口調は後輩としての彼女のものであることに安心する。だから、俺も先輩として振る舞う。


「まあ、約束してしまったわけだし、ここまで来たら諦めて夜通しだろうと徹夜だろうと付き合ってやるよ。」

「言いましたね。」

「付き合わないと何日でも居座りそうな勢いだからな。ただ、風呂出たばかりだからもう少し待ってほしいけどな。」

「わかりました。その間、準備してますね。」


 客人に準備させるわけにはと止める間もなく彼女は動き始めていた。

 何がどこに置いてあるのかなど覚えているかのように、コースターやコップを準備していく。ドライヤーで髪を乾かし、風呂の余韻が抜けるころには、先ほど買ってきた酎ハイとおつまみが机の上に準備されていた。

 すでに自分の分の酎ハイをプラスチックコップに注ぎ、スタンバイしている彼女からは今夜が長丁場になる予感がした。


「野辺さんも準備できたんなら始めましょうよ。」

「悪い。待たせたな。」


 できるだけ自然に、何も意識しないように昔のことを思い出さないように。

 そんなことを思いながら、冷蔵庫から俺が選んだ分も取り出し、酎ハイをコップに注ぐ。


「今日もお疲れ様ということで、乾杯。」

「お疲れ様。乾杯。」


 彼女の合図に合わせてコップを持ち上げ、少し傾ける。コップを合わせなかったのは注ぎすぎた猪井に配慮してのこと。

 そこから彼女の愚痴が始めるのか思ったが、最初からは話しづらいのか、お互いの近況について話始めると今までのもどかしさが嘘のように会話は弾んだ。

 思えば彼女の就活が佳境に入ったあたりで、連絡を取り合わなくなったので、どんな仕事をして、どこに住んでいるのかも把握をしていなかった。彼女が商社で営業をしているとか、まだ実家暮らしなことだとか、初めて聞くような話もあれば、自分の知っている彼女と変わっていないなと思えるところも多くあった。新鮮さと懐かしさの繰り返しはどこか心地が良かった。

 1年、正確には1年9ヶ月という期間は相手の知らないことが増えるには十分で、二人を他人に戻すには少し足りなかったのかもしれない。だから何とも言えないもどかしさを感じる。


「そろそろ本題に入っていいですか?」


 話が弾み昔のような雰囲気を思い出しはじめた頃、彼女がそう切り出す。それおw止める理由などない。


「いいよ。そのために今日会ったようなものだしな。」

「では、お言葉に甘えて。愚痴というか、文句というかわからないんですけど――」


 言葉が詰まる。

 内容を言い淀んでいるというよりは言葉を慎重に選んでいるような。何かを小声で呟いては言葉を引っ込めている。


「――彼氏が浮気してるんです。」


 『恋人の愚痴をどうしても聞いてほしいんです。』なんて彼女らしくないメッセージを送ってきた理由。相談に乗るのであれば、今の彼氏といつから付き合っているだとか、どういう人なのかとか色々と聞きたいことはあったが、愚痴というのだから下手に突っ込まずに話を聞くのが優先だ。


「別に現場を見たとかそういうわけじゃないんですけど、99%、いや101%くらいの確率で浮気されてます。女の勘なんてもんじゃなくて、行動がそうとしか思えなくて。例えば、ほら、位置情報共有じゃないですけど、自分の携帯とかイヤフォン探す機能あるじゃないですか。彼氏のBluetoothイヤフォン借りたことあって、だから、その位置情報が見れちゃったりするんですけど、どう考えてもラブホテルに居たり。ほら、今だって。」


 そう言って見せられたスマホの画面には繁華街の端にあるホテル街にワイヤレスイヤフォンが存在することが示されていた。


「確かに怪しいな。」

「そうでしょう。これに気づいたのは1ヶ月くらい前なんですけど、よく考えたら怪しいなって思うところが他にも出てきちゃいまして。違うって思うために考えたり、調べたりすればするほど確証は高まっていったんです。」

「それで我慢しきれなくなって俺に愚痴りに来たと。」

「誰かに相談したいってなったときに一番最初に思い浮かんだのが野辺さんでした。もちろん、迷惑だとはわかってるんですけど、他に当てもなくて。1週間くらいは悩んだんですけど、やっぱり連絡しちゃいました。」


 少し困ったように、それを隠しておどけるような表情を見せ、上目遣いでこちらを見つめる。それを正面から見つめ返すことができずに、誤魔化すように酒をあおる。


「たまにはそうやって誰かに頼ってもいいんじゃないか。一人で考えてたってどうしようもない時も多いし。」

「野辺さんならそう言って受け入れてくれると思ってました。だから、本当は最終手段かなって思ってたんですけど、第一手にしちゃいましたね。」


 猪井も恥ずかしさを誤魔化すように酎ハイを飲む。気づけばお互い最初の1缶が開いていた。昔の彼女を思えばハイペースなので少し心配になるが、猪井ももう大人だから大丈夫なのだろう。

 その俺の判断は間違いだったようで、冷蔵庫から追加で1缶ずつ持ってきて飲み始めた時には、酔いが回ってきたのか彼女の愚痴は止まらなくなり、浮気の愚痴だけではなく、彼氏への悪口大会のようになっていた。

 待ち合わせへの遅刻が多すぎるとか、趣味にお金はかけるのに靴がボロボロだとか、気になりだすとキリがないのか、どんどんあふれ出してきた。


「それで、猪井はどうしたいんだ?彼氏を問い詰めたいとか、浮気を辞めてほしいとか、別れたいとか。」


 彼女の愚痴も酒も止まらず、3缶目も半分に突入した頃、愚痴を聞いているばかりに飽きてきた俺の方から話を戻す。


「うーん、そうですね。正直、もうどーでもいいです。今日は付き合って半年の記念日みたいな日なんですけど、お互いに話題にも出なかったですし、それを全くショックだと思ってないんですよね。もうこのままでいいかなって。」


 あっけらかんというその様子は強がりでもなんでもなく本心に見えた。猪井の中ではもう既に割り切っていて、答えは出ていたのだろう。女性の愚痴や相談なんてそんなことが多い。


「思ったよりアッサリとしてるんだな。俺に愚痴りたいなんて言ってくるぐらいだから、もっと色々と未練とか恨みとかあるのかと思ってたよ。」

「そういうターンはもう先週くらいに過ぎちゃいましたね。ただ、愚痴は愚痴で言いたいわけで、誰かに聞いて一緒に笑ってほしいわけで。」

「なるほどな。愚痴りたいときってそういう時だよな。」

「そうなんですよ。それに、ぶっちゃけ、どっちかというと、今日は徹さんに抱かれにきただけですしね。」

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