中編(1/2)

 二人とも服にシミを作ることなく食事を終えることが出来た。

 急いでいたわけではないが、時間のかかる料理でもなかったため食事を終えても時刻はまだ8時22分だった。


「家主は座っててくださいよ。それくらい私がやりますから。」

「さすがに全部任せっぱなしじゃ俺の立場もないから洗い物くらい俺がするさ。」


 問答するよりも動いた方が早いと皿を流しに持っていく。

 そうでもしないと彼女が全部やってしまいそうだったから。


「わかりました。お言葉に甘えてお任せします。片付けお任せしている間に、シャワー借りますね。」

「はぁ?」


 思わず間抜けな声が出た。

 流しに置きかけた皿を落とさなかった自分を褒めたい。


「汗かいたんで最初に浴びても良いかなって思ってたんですけど、お腹空いてましたし、ご飯作るって言っちゃいましたから。一人だけさっぱりするのもあれかなって思って後にしてたんです。」

「いやいや、そうじゃなくてさ。もしかして泊まる気なの?」

「当たり前じゃないですか。この後、私の愚痴に夜通し付き合ってもらわないといけないわけですし。あっ、安心してください。一回家帰って泊まる用意はしてきてますから、服は借りないですし。」

「確かにメッセージで愚痴に付き合うとは言ったが、一晩中とか聞いてないぞ。」

「確かに言ってません。でも、それくらいわかるでしょ。」

「わかるわけないだろ。」

「わかってください。」

「無茶言うなってというかまだ終電とかって時間でもないんだからそんなに焦って泊まるとか決めなくてもさ。今のお前にお酒を飲ませるのはヤバい気がする。とりあえず、風呂くらい貸してやるけどそこで頭冷やして帰れ。」

「何と言われようと、今日は帰りません。」

「いや、でもお前今、彼氏――」

「徹さん、お願いします。」


 俺の言葉を遮って告げられた言葉、助けを求めるかのような声色に、苦しいのだと主張する表情。

 見たことがないわけではない。最後に見た彼女も今と同じような表情をしていた。

 見慣れないし、見慣れたくなどない姿。

 たった一言断りを入れればいいだけなのに、その言葉が喉元で引っかかる、

 彼女からそれ以上の言葉はなく、着ているエプロンの端をぎゅっと握ってこちらを伺っているだけ。

 その目はもうすでに決意が固いことを表しており、お願いなどと言いながらも、きっと引くつもりはないのだ。


「……今日だけだぞ。」

「ありがとうございます。」


 最初から押し負けている時点で答えは決まっているようなものだが、即答するわけにもいかず、少し間をおいてから答える。

 俺が断れないことなど彼女はわかっていたのだと思う。

 こうやっていつも最終的には猪井の望む方向に流されていくのだ。


「じゃあ、先にシャワー浴びてきますね。」

「タオルとか持ってるのか?」

「持ってますよ。普段使っているシャンプーとかコンディショナーとか外泊用のやつ持ってきてます。言ったじゃないですか。借りることはないって。」

「そこまで準備万端だとは思わないだろ。」

「私を甘く見すぎですよ。」

「したたかになったな。」

「私は昔からこうですよ。忘れてるなら思い出してくださいね。じゃあ、お先にシャワー借りますね。鍵はかけないですけど覗かないでくださいよ。」


 ビジネスにもカジュアルにも使えそうな彼女のカバンから必要なものを取り出し終えたのか、そう言い残して風呂の方へ向かっていったようだ。

 女性が準備しているところを見てはいけない気がして、背を向けて流しばかり見ていたので音でしか判断できないが、少しの間、一人になった。


 食事中よりも気まずくなった空気から逃げるために片付けに意識を集中させようとしたが、風呂場の方から聞こえ始めた水音や鼻歌に乱される。

 何を考えていいのかわからないままでも、二人分の食事の片づけなど15分もあれば終わってしまう。


 濡れた手を拭き、リビングへと戻る。

 リビングと仮に読んでこそいるが1Kのこの部屋には風呂トイレ以外はキッチンとこの部屋しかないのだ。9畳の部屋にローテーブルとワークデスク、ベッドと各種家電製品を置いているだけ。


 デスクの椅子に座り、この後どう立ち振る舞うべきかを考える。

 俺と彼女の関係など今は大学の先輩と後輩でしかない。

 家に招いている段階でひとつのラインを超えてしまっている気もしないでもないが、これ以上はまずいのではないかと直感的な警告が頭をよぎる。

 猪井のペースに乗ってしまっていることを後悔しながらも、それを嫌だと思っていない俺がいて、曖昧で名前を付けたくないこの関係性に甘えて流されていたくなる。

 だからと言ってこの関係に名前を付けて断定してしまえば、二度と彼女と交わることはないのではないかと感じてしまう。


 今更そんなことを考えても遅く、風呂場の扉が開く音がした。


「お先です。」


 声をかけられて振り向くとゆったりとした寝巻のような服を着て、頭にタオルを巻いた状態で戻ってきた彼女と目が合ってしまう。

 気まずさよりも先に緊張が2人の間に伝播する。

 先ほどまでしていた薄化粧も落とした無防備ともいえるその姿は場の意味合いを変えてしまうようで、お互いにどうすればいいのかわからないのだ。


「出たか。」

「はい。さっぱりしました。」

「そっか。」

「次、入らないんですか?」

「そうするよ。」


 短くぎこちない会話。

 どちらかが冗談でも言って、笑い飛ばしてくれればと願う。

 それは年長者である俺の役目かもしれないし、お調子者で自分本位な彼女の仕事だったのかもしれない。


 ただ、今はそそくさと風呂場へと向かうことしかできなかった。

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