ペチュニアを送るとしたら

中野あお

前編

 この駅前で人を待つのは何時ぶりだろうか。

 ターミナル駅である隣駅で待ち合わせることが多く、自身の最寄り駅で誰かを待ったという思い出はあまり見つからなかった。

 社会人になって一人暮らしを始めた頃は友人を家に呼んだりもしたが、その時だって別の場所で食事をしてから家での飲みなおすのがいつもの流れで、最初からここで集合したのは今日の待ち人だけ。

 金曜だからかまだ19時だというのに人通りは多かった。サラリーマンが仕事の責務から解放されるわずかな時間の始まり、花の金曜日なんてよく言ったものだと思う。


『もうすぐ着きます。』

『了解。待ってる。』


 震えたスマートフォンのロック画面に表示されたメッセージを確認すると、ロックを解除して短く返信をする。

 昔からメールやメッセージが得意ではないので冷たく思われることが多いが、文面だけで気持ちなんて読み取れるはずがない。今だって俺の心の中はどこか悲しい気持ちと久々に会うことへの微かな喜びに似た感情が入り混じった複雑めいて単純な熱でいっぱいだ。


 熱いのは内側だけでなく外側もだ。

 8月になって増した暑さ。今日も熱帯夜だとニュースキャスターが言っていた。きっと今日は寝苦しいのだ。


 スマートフォンをいじりながらも、時々改札の方を伺って5分くらい経ったころ彼女はやって来た。

 改札の中からこちらに気が付いたのか、軽く微笑む。

 ICカードを使って改札を抜けると迷いなくこちらへと近づいてきた。


「お待たせしました。」

「別に構わないよ。」


 カジュアルなスーツ姿で現れた彼女に少し戸惑いを覚えた。

 就活の時に見たリクルートスーツとは違って、大人っぽさと時間の流れを感じたから。


「急だったのに時間取ってもらってありがとうございます。」

「暇だったから問題ないよ。それより、夕飯はもう食べた?」

「まだです。野辺さんは食べましたか?」

「俺もまだ。退勤してそのままここに来たからさ。どうする?相変わらずここらへん店多くないから、猪井が食べたいものあるかどうかわからないけどさ。」

「私が決めて良いんですか?それなら、えっと――。」


 肩まで伸びた髪の先を右手で触りながら、じっと俺の目を見つめて


「何か買って野辺さんの家で食べちゃダメですか?あれだったら、私軽く料理作りますし。」


 彼女はそう言った。

 その仕草は彼女なりの照れ隠しなのだと知っている。ショートヘアーだったあの頃も何かを恥ずかしがっている時はよく毛先を弄っていた。


「いいよ。そうしようか。」


 少し迷ったが、彼女であれば問題はないと思いそう答えた。

 愚痴と相談だと言って呼び出しのだから人前では話しづらいこともあるのかもしれないという配慮もあってのことだった。


「まだあそこのスーパーってあるんですか?」

「あるよ。」

「じゃあ、そこにしましょうか。」


 迷うことなく歩き出した彼女に遅れないように、横に並んで歩く。

 近すぎず、離れすぎず。恋人でもなく、他人でもない。

 どう呼べばよいかわからない距離感で並んで歩く。



「簡単なものですけど。どうぞ、味は保証しません。」


 テーブルの上に置かれた4つの皿にはミートソースパスタとサラダがそれぞれの分盛り付けられていた。おそらく多く見えるのが俺の分だろう。

 猪井は味について予防線を張ったが、そもそもこの種の料理で彼女が味付けを失敗することはないだろう。


「ありがとう。」

「いえ、こちらこそお金全部出していただいているのでこれくらいしないと申し訳ないですよ。」

「後輩の分の材料費も出すくらいの余裕はあるさ。それでも全部任せちゃったしさ。」


 一応弁明しておくと、ただ黙って料理を待っていたわけではない。彼女が料理を作っている間に部屋を軽く片付け、ローテーブルの上に置いてあったものも二人が食事できるように移動させた。

 コップやドレッシングや箸など食事に必要なものは一通り準備するくらいはできる。


「まあ、冷めないうちに食べちゃいましょうよ。」


 そう言うと猪井はエプロンを付けたまま座布団に正座で座る。服にソースを飛ばさないためにエプロンは外さないのだろう。


「猪井は何飲む?ノンアルコールだとさっき買って来た炭酸か緑茶か野菜ジュースしかないけど。」

「お茶でお願いします。」


 冷蔵庫からお茶と缶ビールを取り出す。

 2Lのペットボトルの口を開け、テーブルに置かれたコップに注ぐ。

 彼女は「ありがとうございます。」と言いながら先に机に置いていた缶ビールを手に取る。そこに込められた意思を察せない社会人はおらず、タンブラーを手に持ち彼女に注いでもらう。


「そんなに気を遣わなくても良いよ。」

「先に気を遣ったのは野辺さんですよ。」

「なんかお前が俺に気を遣うと違和感があるんだ。」

「私ももう社会人ですから。」


 昔とは違うのだと主張するかのようなそれが、昔のままでありたかったとも聞こえた。


「知ってるよ。」

「知っててくれてましたか。」


 困ったように笑う。

 どう返せばいいかわからなくなり、誤魔化すようにタンブラーを手に取り、飲む。

 口に含んだビールに自分たちも少し年を重ねたのだと感じる。


「ビール嫌いだったのに、飲むようになったんですね。」

「いつの間にかな。」

「やっぱり後でビール一口ください。」

「まだあるから飲むなら開けてもいいんだぞ。」

「いいえ。一口だけでいいんです。」

「――わかった。」


 途切れ途切れの会話は二人の距離なのかもしれない。

 全てを離さなくても伝わるとか、何か話してなくても気まずくならないとか、何を話せばいいかわからないとか、気を遣わないとか。

 全て正解なのだと思う。

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